第63話
道は迷わない。
夜の空を照らす紅蓮の光を追いかけて走る。近づくごとに、人々の声が大きくなる。悲鳴や怒号、泣き声がが飛び交う。火の粉を撒き散らす黒煙の中から、たくさんの人が逃げ出してくる。
誰もが着の身着のまま、必死に走っていた。迫る炎や恐怖から逃れるために。
地面に降り立った柚月は言葉を失って、立ち尽くす。大きな災害すら経験したことのない彼女にとって、凄惨すぎる光景だった。目の前の現実を食い入るように見つめる。
混乱する状況の中、ようやく不安と恐怖が忍び寄ってきた。それでも、柚月は息を呑んで歩き出す。逃げ惑う人々に逆らうように、炎の中へと向かっていく。
宗真の忠告も聞かず、東雲たちにも無断で飛び出してきた。彼らに対する気まずさとどうしていいかわからない不安が、今の柚月を動かしている。ここへ来たからには、何もしないという選択肢はない。だったら、最初から来ない方がマシだ。
炎の熱さは大きな塊のように圧迫してくる。煙を吸い込まないよう、シャツの袖を口元に当てながら前へ進む。その間にも視線を這わせて、柚月は辺りを警戒する。
気配でわかる。夏宮は、すぐ側にいる。一瞬でも油断しようものなら、奇襲されてしまいそうな緊迫感があった。
全身の神経を研ぎ澄ます。些細なことも逃すまいと五感を鋭敏に働かせる。だからこそ、聞き取れた。
「う、うぅ……」
微かなうめき声に柚月が反応する。反射的に辺りを見回して、ぎょっとした。崩れた柱の隙間から、皺だらけの手が見える。火事によって倒壊した家屋の下敷きになったのだろう。
柚月は、悩んだ。
細い手の奥には紅蓮の炎が広がる。崩れた原因は地震ではない。救助の知識のない柚月が中途半端に動いたら、事態は悪化するだけではないのか。だが、早く助け出さなければ確実に焼け死んでしまう。柚月は、言い訳をしている自分に気付いていた。
いつもなら、そんな深いことを考えずに身体が動いていた。それができない理由は何だろうと、ぼんやり考える。
「だ、誰か……」
助けてくれ。
小さな掠れる声で、柚月は我に返った。
(……そんなこと考えてる場合ッ!?)
唇を噛んで、頭を振った。この声を無視できない。してはいけない。立ち止まったら、零れてしまう。
柚月の都合で助けること諦めたら。
この声の主は、どんな気持ちになるんだろう。
そんな考えが思考を掠めていく。
柚月は答えなど期待しなかった。欲しいと思った真実は、目と耳を塞ぎたくなるものばかり。その絶望から逃げたくて、悪あがきをしている。
瓦礫を持ち上げ、誰もいない後方へ放り投げた。何度も繰り返す内に、スピードが早くなる。一心不乱だった。生命の危険がある太い梁などを避ける。 これらを撤去すれば、救助は楽になると思った。大方の材木を避けて柚月が覗き込むと、俯せに倒れる老人の姿を捉えた。ぽかんとした表情で、こちらを見上げている。
「もう少しだけ、頑張って。今、助けるから」
言葉少なに励まし、手に力を込める。老人は自分に何が起きたのか、わからないようだった。
対する柚月には説明する余裕がない。残っている瓦礫をゆっくりと押し上げる。反動や力任せに動かせば、他の木材が倒れ込んでくるかもしれない。
「……うぅぅッ」
「頑張って」
挟まっている部分が怪我をしているのかもしれない。老人は苦悶の声をあげる。
まとわりつく熱気で全身が汗だくになる。
慎重に隙間を作る。
ここからは力任せに動かせば、崩れる恐れがあった。細心の注意を払って、作業に没頭する。
全ての障害物を取り除く頃には、全身にじっとりと汗が浮かんでいた。
「大丈夫?」
「……あ、あ……あぁッ」
上体を助け起こすと、老人は表情を強ばらせながら後ずさる。その腕からは幾筋もの鮮血が流れ落ちていた。
無理もない。
彼は、柚月を恐れている。大の男でも容易ではない瓦礫を軽々と撤去したのだ。おそらく【彷徨者】だと見当がついたのだろう。それについて、柚月が言えることは何もない。
「もう少しだけ我慢して。止血するだけだから」
震えそうになる声を精一杯こらえて、制服のリボンをほどく。傷口と思われる場所に押し当て、きつく縛る。あとは彼を避難させればいいのだが、他にも同じように家屋の下敷きになった人がいるかもしれない。
ここに留まるべきか、離れるべきか。柚月が判断に迷っていると、
「うわぁぁ――――ッ!」
辺りに子供の悲鳴が響く。
柚月が弾かれるように走り出した。声の大きさから近距離だと察しがつく。
匂いをかぎとるように、思い出す。忘れかけていた気配する。燃えた家屋を飛び越えた先に、声の主はいた。
「うるせーな」
ぼそりと呟く男の後ろ姿を捉える。のばした腕には、少年の襟首を掴んでいた。
もう声は出ない。
高く持ち上げられると、大粒の瞳からぼろぼろと涙があふれる。
「どいつもこいつも、泣くか喚き散らすだけ……つまらなすぎて憂さ晴らしにもなりゃしねぇ」
「ッ……あッ……!」
片方の手が少年の首を掴む。
恐怖に引きつった顔が、さらに絶望の色を濃くしていく。
「やめなさいッ!」
柚月が大声を張り上げると、男が振り返った。
相手は、やはりというか夏宮だった。わき上がる嫌悪と恐怖を懸命に隠す。
「やっときたか。チビジャリ」
にやりと笑う夏宮は、少年の首を掴んだまま離さない。涙があふれる目を見開いて、口をぱくぱくと動かしている。
(……早く、助け出さないと)
あのままでは、少年の生命が危うい。
高まる緊迫感に、柚月は動きたい衝動を必死でこらえた。
「あんまり遅いんで待ちくたびれたわ」
対する夏宮の口調は、場違いなほどのんびりとしている。待ち合わせに遅れた友人にかけるような言葉だ。手にかけている少年の生死に一切の関心がない。刺激してはいけないし、交渉も難しいだろう。柚月の言動ひとつさえ不愉快に思えば、首の骨を折るかもしれない。夏宮にとって、頸部を圧迫して窒息させる方より遥かに簡単だ。
だが、下手に出ても解放の見込みは薄い。柚月の取れる選択は決まっている。
「……やめなさいって言ってるでしょ」
「嫌だね」
あくまで強気に解放を促す柚月だが、子供っぽい拒絶が返ってきた。夏宮の指が、細い首に食い込んでいく。少年の身体がぶるぶる震えている。もう限界だった。
「弱いヤツは生きてる価値ねぇよ」
その言葉が、無性に腹立たしい。
怒りの沸点が一気に上昇する。臨界突破を待たずして、柚月は右拳を地面に叩きつける。
ドゴォッ!!
広い範囲で岩盤が隆起し、真っ二つに割れた。その亀裂は、夏宮の足元にまでのびていく。彼が軽く右に跳んで避けようとする瞬間、
「ッ!?」
首筋に何かが通り過ぎる。辛うじて避けた夏宮は、頭上を見る。そこには、柚月がいた。
藍色の空に舞う火の粉を背負い、左足を高々と持ち上げながら落下してくる。
「はぁぁぁッ!」
ドゴッ!!
柚月の着地点には円形の深い窪みができた。蜘蛛の巣状に砕かれ、激しい地鳴りが起きる。災害とも思える激しい揺れにも、敵は努めて冷静だった。全てが収まった頃、少し離れた場所に着地する。
「どこを狙って……ッ」
小馬鹿にするように笑って、夏宮は目を瞠る。自身の掌には何も残されていない。少年は、柚月の腕の中にいた。激しく咳き込んでいる様子から、生きていることは間違いない。夏宮は、強く歯を噛みしめた。
「この……小娘がッ」
柚月の企みを知って、こめかみに青筋を浮かべる。今まで散々、馬鹿にして無視し続けていたのに、明らかな怒気が現れている。背筋に冷たいものを感じながらも、柚月は静かに呼吸を整える。次の迎撃に備えるためだ。胸の中で、泣きながらしがみついてくる子供を強く抱きしめる。
先ほどの攻撃は、うまくいっただけ。二度も、こんな『ちゃち』な真似が夏宮に通用するわけがない。柚月の目的は攻撃ではなく、もちろん捕らわれている少年を助け出すためだった。
最初の一撃は夏宮の気を逸らすため。次に低く跳躍して、少年ごと攻撃するように見せかける。実は、この時すでに少年を夏宮の手から奪い取っていた。上空に高く飛んでかかと落としを決めたのも、目的を悟らせないためと確実に距離を稼ぐ狙いがあった。
柚月自身、かなり無謀なことをしたと思う。少年を抱えたまま、あんな大きなモーションで攻撃すれば夏宮に気付かれ、反撃されるリスクもあった。結果的には成功したが、向こうからしたら舐めきっていた素人相手に出し抜かれた気分だろう。
夏宮の性格からして、侮辱と受け取るかもしれない。偶然にも強敵を挑発する形になる。まさに、火に油を注いでしまった。これから先、激情に駆られた夏宮が手の内が読みやすい攻め方をするとは思えない。どこまで食いついていけるか。
ましてや、少年を抱えながら捌くには厳しい敵だ。かといって、彼を無事に避難させてくれるとも思えない。
さらに深刻になっていく現状を見据え、柚月に決断が迫ってくる。どうするべきか、考えあぐねていると、背後からか細い声をかけられた。
「あ、あ、あんた……」
横目で確認した柚月は驚いた。
背後から近寄ってくるのは先ほどの老人だった。負傷した腕を押さえ、ふらふらとした足取りだが、柚月には頼もしい味方に思えた。
膝をついて、抱えていた少年を立たせる。どこか痛がるそぶりも見せないことから、生命に関わる大怪我はしていないだろう。
ほっと安堵するも束の間、
「この子をお願い」
何か言いたげな老人の声を封じる。
少年も名残惜しげに服を掴んでくるが、説明している暇はない。素っ気なく、小さな手を引き剥がした。
「行って」
短い言葉で避難を促す。
柚月が今するべきことは、夏宮の足止めだ。彼がむやみにばら撒く災厄の芽を摘み取ること。端的に言えば【月鎮郷】の人々のために、できることは何もない。
無言の拒絶で老人は察してくれたようで、子供の手を引いて離れていく。
その姿を振り返りもせず、柚月は気配だけで感じていた。目の前の敵を睨みつけて、手出しさせないよう釘を刺す。だが、それも無意味な行動だったらしく、軽く笑って流された。




