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第62話






 散々、泣いて、目の周りが痛い。疲れたし、お腹もすいた。

 時間の経過を意識した頃、柚月はようやく気付いた。いつの間にか、朱堂と白夜の姿はない。


 見限られたか。

 矛盾だらけの思考に自嘲する。確かなものなんて、もう何もないのに。今さら彼らの信頼を失ったことを気にするなんて、滑稽だった。動く気力はないけれど、このままじっとしていてもどうにもならない。とにかく東雲と会わなければ。

 そう考えれば一層、彼を探すことが億劫で、怖い。会って、何をすればいいのか、何を言うべきなのか、柚月にはわからない。


 元の世界に帰りたい。

 ただ、その一言を口にするのが怖くて仕方ない。


 東雲を目の前にしたら、何も言えなくなるのではないか。例え、要求できたとしても東雲がどんな反応を示すのか気になってしまう。落胆されても、引き留められても、恨まれても、あっさり了承されても、柚月は傷つくだろう。

 彼に利用された事実は変わらない。東雲自身の心に、自分が存在してもしなくても悲しくなる。それだけの価値しかないのか。都合のいい時だけ人間扱いするのか。

 次に顔を合わせれば、嫌でも自分に対する東雲の気持ちが見えてくる。それが、柚月には怖いのだ。

 ならばと思ったところで、他にどうすればいいかわからない。朱堂のありがた迷惑な説教をもらったからなのか、何をしても周囲から非難を受けるだけだと悲観的な考えしか持てない。


 かなりの時間を渋って、迷って。

 結局は東雲を探すことに決めた。どうにもならないなら、わかってもらうしかない。彼に、これ以上は役に立てないと説得するしかない。気乗りしない心地のまま、屋根を蹴る。ふわりと地面に降り立った瞬間、


「柚月さま……」


 背後からかけられた声に、ぎくりと肩を震わせてしまう。柚月の身体は硬直する。


「あ、あの……」


 相手が、宗真だとわかっていても振り向かない。


 怖い。

 今、自分はどんな顔をしているだろう。


 宗真は、どこまで郷の掟を知っているだろう。だから、柚月は振り向けない。変わってしまった関係性に戸惑っていると、ギシッと音がした。宗真が階を降りたようだ。


「柚月さまは、きっと誤解されているだけだと思います。お師匠さまは、その……最初からあなたを」


 いつもは優しく心を溶かしてくれる彼の言葉も今は柚月に届かなかった。頭の片隅では、彼の態度を思い出せという。初めて顔を合わせた時から、素直で優しい少年だった。本心を押し殺し、柚月を欺いているようには見えなかった。宗真は【九衛家】の血筋ではないし、本人の口ぶりから東雲の弟子になったのも最長で三年ということになる。郷の掟を全て知っている可能性は低い。


 理性では、わかっているつもりだ。でも、感情がついていけない。普段通り、何事もなかったかのように振る舞うことはできない。不意に出てくる本心が、彼を傷つけてしまわないか。


 心に響かない。

 すり抜けていく。

 それでも宗真は、精一杯に言葉を繋ごうとする。思いつくかぎりの気持ちを、口に出そうとする。


「前に、おっしゃっていたんです。柚月さまを初めて召喚される時に……」


「宗真。ごめん」


 柚月は遮った。

 今さら何を聞いても変わらない。東雲自身が認めたことだ。結末だって、変わりはしない。


「本当に、ごめん」


 それだけを繰り返して、やり過ごそうとする。


 もう戦えない。

 死にたくない。

 何も訊きたくない。

 知りたくない。

 できない、やりたくない、したくない。我ながら情けないほど、逃げる選択肢しか持っていない。呆れる一方、肩に重くのしかかる何かに抗えない自分がいる。本当は逃げたいくせに、先のことなど考えられない。立ち止まっている。どうやって逃げたらいいのかすらわからない。


 自分の情けなさが、ますます嫌になった。

 こんなくだらない世界にいるのに逃げ方すら知らない。朱堂や夏宮に、貶されるだけのことはある。柚月は何も知らないのだ。


 現実に立ち向かったり、抵抗することもできない。

 利用されたくないとうそぶいて、結局は周囲の思惑に流されているだけ。そんな小娘が、何かできた気でいるからお笑い草だ。無知だと罵られたことを否定する材料も今の柚月にはない。


 こうして、無様に立ち尽くす。悔しいとも思わなかった。


 だから、じわじわと罪悪感が込み上げてくる。とっくに麻痺したはずの心なのに。


 きっと、宗真は郷の現実を知らない。【彷徨者】に期待される役目も召喚士の思惑も知らない。

 彼を信じたいのに、身体が拒否してしまう。聞きたくないと耳を塞ぐ。


 どうにもならない感情に、柚月が内心で溜め息をつきかけたその時、宗真がぴくりと反応した。

 続いて、柚月が一瞬前とは違う匂いをかぎとる。


「これは……」


 ぴりぴりと皮膚を刺激する空気。


 風が、騒ぎ出す。

 さっきまで静かだった夜が嘘のようだった。立っていられないほどの突風が吹いて、柚月は顔をしかめる。鳥たちが激しい鳴き声をあげ、木々から飛び立つ。空を埋め尽くす黒い影に不安を掻き立てられる。


 短時間で変化した様子に柚月は戸惑う。周囲に視線を巡らし、何が起きたのか状況を探ることしかできない。なのに、側に立つ少年は惚けたように空を見ていた。


「そんな……【氣】が乱れた……ッ!?」


「【氣】?」


 宗真が悲壮な声を洩らした直後だった。

 ドンッと地鳴りのような振動と押し潰されそうな圧迫感に襲われた。どういうことかと問う暇さえない。


「すごい高い霊圧です……! 誰かが、力を解放して居場所を知らせていますッ!」


 つまりは、挑発。

 わざと自分の居場所を知らせて誘っている。そんな人物の心当たりはひとりしかいない。


 柚月は唇を噛み締めた。


「あいつ……ッ!」


 頭に浮かぶのは、自分を見下して笑う男の顔。

 今度こそ、目的を達成するつもりなのか、時間稼ぎをするつもりなのか。反射的に振り返れば、宗真の顔がみるみる青ざめていく。


「まさか……あそこは村があったはず……ッ!」


 視線の先を追いかけると、明かりが灯った一帯がある。


 不自然な光だった。闇に昇っていくのは、紅蓮の粒子。それが焼き討ちの炎だと気付くのに、時間はかからなかった。近くに巨大な黒い牙が見える。


 間違いなく、夏宮の仕業だ。どんな思惑かは不明だが、一刻の猶予もないということだ。


「私が……」


 声をあげかけた瞬間、東雲の顔が浮かんだ。ぐっと喉の奥で押さえつけられたように言葉が出てこない。


 何かが、柚月を躊躇わせる。

 不安が先立つ。

 嫌な予感もした。

 朱堂とも顔を合わせづらい。

 わき上がる気持ちは全てマイナスの感情で、結果なんて想像しなくてもすぐわかる。



 だから、無視する。

 時間がないなら、決めるしかなかった。


「……私が先に行くから。ふたりに伝えておいて」


 それだけを告げて、柚月は走り出した。


「お待ちください、柚月さまッ!」


 宗真の声を振り切るように、白壁を乗り越えて高く跳んだ。






 蝶は孵る瞬間から、飛ぶことを知っている。


 例え、羽をもがれたとしても、彼らは空を飛びたいと願うだろう。






 この世界に生きているかぎり。







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