【幕間】
彼女が、泣いている。
全く、腹立たしいことだ。悲しませたのは間違いなく自分なのに、零した涙を拭いてやることもできない。
長く続く廂を歩きながら思い浮かぶのは、悔恨と焦燥。
東雲は、寝殿を見上げた。視線の先から彼女の気配がする。白夜は側にいるらしく、深い悲しみが伝わってきた。その感情は、彼女のものか使鬼のものかは判別できない。
だが、白夜が拒絶された可能性は、おおいにありえる。今は自分に関するもの全てを視界に入れたくはないだろう。
胸の奥に燻る、酷い矛盾。
常人である自分は、彼女のようにひと跳びで屋根には登れない。ここで、待つしかない。その後は、泣きはらした彼女の瞳に気付かないふりをして迎えるのだろうか。
柚月を選んだ理由と、その危険性。考えなかった日はない。後悔にも似た気持ちで、彼女に詫びながらも期待をしていた。
柚月と過ごす時間は、とても穏やかで楽しくて。こんな幸福がいつまでも続くのではないかと錯覚した。東雲自身が忘れそうになる。まだ助けを求める手が無数にあるというのに。
柚月を想っている。
彼女がいれば、それだけでいいと考える自分に気付いて愕然とした。
郷の掟どころか、世界の理に反する大罪だ。知っていながら、東雲は何もしなかった。柚月の弱さを理由に、月日だけを重ねてしまった。
理を無視した関係性は、どんどん歪んでいって。今、その報いを受ける時が来たのだ。
『最低よ……あんた』
先ほどの会話を思い出し、東雲は後悔で胸が潰れそうな想いだった。
予想以上に、こたえた。
彼女の言葉に傷ついたわけではない。涙を流すまいと必死に歯を食いしばる様を見て、そこまで追い詰めていた原因が自分だということを改めて思い知る。
後から弟子が顔を出すも、入れ違うようにして局を出た。宗真に、どう言い繕ったか覚えていない。
頭の大半をしめるのは、柚月の泣き顔。もっと、他に言い方はなかったのか。優しい言葉はなかったのか。未練や苦悩、悲しみが重くのしかかってきた。
それでも、東雲は奥歯をぐっと噛み締める。いいや、あれ以外に伝える言葉はなかった。どんなことがあっても、彼女に嘘をつかない。自分が思ったこと、問われたことをありのままに自分の言葉で伝える。彼女を選んだ時に自分自身で誓っていた。
異世界の人間と心を通わせるためには、他に道がない。互いに生きる場所も、文化も考え方も違う。想い合う覚悟だけで乗り越えられるほど、世界の理は易しくないだろう。
だから、わざと柚月に一線を引いて壁を作った。同等の存在だと思わせないように。取引できない一方的な関係を意図的に匂わせた。その度に柚月が傷ついても、東雲は見て見ぬふりをする。彼女が問わないかぎり、情報も制限していた。
東雲が唇を噛み締める。これほど最低な懇願をする男が、他にいるだろうか。
自分は何ひとつ傷つかず、想っている少女にだけ肉体的、精神的負担を強いる。そのくせ、東雲のために戦い、東雲に心を預けてほしいと、こちら側の都合ばかりを押しつけて。
罵られても、憎まれても、当然だった。さらには生命を縮める覚悟もしろという。どんな世界の男でも、想っている女にそんな要求はしないだろう。
噛み締める唇から血の味がした。
どこから間違ってしまったのか、東雲にはわからない。思い描いた夢を叶えようとした時からか。役目を受け入れた時からか。彼女を見つけた時からか。
何故、柚月でなければならなかったのか。
異世界の少女でなかったら。
東雲が【召喚士】でなかったら。
同じ世界に存在していたら。
いくつもの可能性を考えて、東雲は頭を振る。
意味のない想像だった。そのどれかが実現したら、きっと彼女を想うことはないだろう。双方の立場と別々の世界に生きているからこそ、互いにとって互いが特別な存在になった。
わずかな可能性でしか一緒にいる理由がない。最初から否定することでしか結べない絆だとしたら、こんなに皮肉なことはない。
彼女に逢えた偶然に感謝しつつも、彼女と共に生きられない世界を憎みたくなる。けれど、結局はその理に縋るしか方法がなくて。今さらながら己の身勝手さに辟易する頃、低い声音が割り込んできた。
「今は、止めとけ」
いつの間にか、前方に朱堂がいる。柱に寄りかかり、道を塞ぐかのように忠告してきた。
「もうご機嫌とるだけじゃ、すまされない。ここが【彷徨者】として使えるかの正念場だ」
腕を組み、天井を見上げた。きっと、彼も柚月を見つめている。それが単なる興味なのか、恋情なのか、燐の身代わりなのかはわからない。
東雲は内心、穏やかではいられなかった。朱堂は、彼女にとって安らげる存在に違いない。同じ世界の住人であり、同じ【彷徨者】なのだ。東雲などより、ずっと近い距離にいる。
普段の柚月に対する言動からすれば、東雲は嫉妬すらおこがましい。時々、朱堂がからかってくる度に苛立った。彼も、察しがついているだろう。
それなのに、朱堂は皮肉ったり、茶化したりしてこなかった。むしろ、東雲を責めるような気配が消え失せている。柚月への仕打ちを肯定する口ぶりですらあった。
「待っててやれ。選ばせてやれ。誰だって、ひとりで立ち上がらなきゃならない時がきっとある。他人の力を借りて立ち上がっても、それを知った時、柚は自分を許せなくなる」
そう。
不器用なまでに自分に厳しくて、一本の筋を頑固に通さないと気がすまない。おまけに、他人から助けを求められると断れない困った性分。特に、自分より弱い子供や女、老人の声を無視できない。
そんな彼女の優しさに甘えて、東雲は利用してきた。
急に、笑いが込み上げてくる。唇を皮肉げに歪ませて。
「知った風な口を」
今、自分はとても醜い顔をしているだろう。
東雲は、恐れている。
訪れようとしている決断の刻が、何よりも怖い。もしも、柚月に本心を打ち明けて、握っていた手を離して。
解き放ってしまったら。
きっと、君はいなくなる。
柚月を選んだその日から、想像していた未来。
彼女が元の世界へ帰ることを望んで。
自分のことなど忘れて。
いつか、他の誰かと生きることを選んだら。
果たして、自分に耐えられるだろうか。
東雲の端正な顔が、くしゃりと歪んだ。
二度と彼女に逢えなくなる。それが、自分で背負うと決めた罰。自身の願いと恋を叶えるために、世界の理をねじ曲げ、切り捨てて踏みにじった代償。
心を繋ぐために選んだ、ひとつだけの道。
柚月を確実に傷つけるとわかって、選んだ。生命を賭ける戦いと知っていて、巻き込んだ。
自分の願いを叶えるために。
彼女と一緒に在りたいために。
本来なら、柚月と東雲に繋がる道の先はない。
自分という存在を知ることで、柚月の未来は大きく変わってしまった。
許されるはずもない。
他人の心を欺くだけでは足らず、結ばれる縁を断ち切ってすげ替えた。
そのかわり、柚月の選択は受け入れると決めていた。
どんなものでも、ひとつだけ願いを叶えよう。
道を変えたせめてもの償い。
柚月が選ぶ未来を贈ろう。
許しさえ請えない東雲にできる最大限の誠意。
今まで細工した運命の全てをつまびらかにし、彼女に委ねる。例え、それで永遠の別れを願ったとしても、聞き入れるつもりだ。
自分の道は、すでに決めて歩き始めている。あとは、柚月の選択したものを見届けるだけ。
互いに歩いた道の先が繋がらなくても、
どんな結末が待っていても、
東雲は、受け入れなければならない。
もう少し、待てばいい。もう少しで、自分の願いは叶う。
都の外れ。
小さな集落の近くに、夏宮はいた。東雲たちに挨拶した場所とは正反対にある。木の幹にもたれて、そびえ立つ尖塔をぼんやりと眺めていた。
明日には、仕込んだ術が発動する。おそらく、朱堂たちにはあれがどんな作用を生むか見当がついているだろう。だが、わかっていても止められはしない。わざと早い段階で仕組みの全体像を明かし、阻止できると匂わせた。そうすることで、少ない労力で最後の詰めを誤らせることができた。そして、夏宮は新しい【彷徨者】に目をつける。東雲や朱堂が扱いに困るほどだ。よっぽど使えない小娘に違いない。予想通り、少しつついただけで動けなくなった。警戒していた男ふたりに釘を刺すには、いい獲物だった。
その一方で、面白くないと感じてもいる。
不快の原因は、件の少女だと知っていた。最初から、柚月のことは嫌いだ。どこにでもいるような平凡そうな少女だし、見るからに幼い。女として楽しめる要素は、どこにもなかった。
夏宮は、それだけで無価値の烙印を押す。【彷徨者】でなければ、眼中にすら入らなかっただろう。ただ珍しいことに、嫌悪する理由は他にも存在した。
茫然自失の柚月を思い出す。郷の掟を知り、光を失った瞳から大粒の涙をこぼして、こちらを見返している。
夏宮は、苛立たしげに舌打ちした。絶望の色は、確かにあった。けれど、吐き出す全ての言葉は自分を召喚した術者に向けられていた。朱堂や夏宮の存在は含まれていない。一切、無視された。
柚月の世界は、東雲への想いのみで帰結している。関心が、彼にしかない。
夏宮は、それが気に入らなかった。もっと憎めばいいのに。泣いて、叫んで、罵ればいいのに。柚月が、惨めにこの世界を呪ったら殺してやるのに。絶望に耐えきれず、東雲や朱堂、郷を拒絶して、安息の地に帰りたいと願った瞬間、燐と同じようにその胸を刺し貫いてやるのに。
煮え切らない女だ。あの場で、東雲に憎しみをぶつけることはなかった。これだから頭の巡りが悪い女は嫌いだ。自分の置かれた状況がわかっていない。
それでも、時間をかければ待望の瞬間は絶対にやってくる。柚月の生命潰える姿は、さぞ見物だろう。今から楽しみで仕方ない。
あの生意気な瞳は、どこか燐に似ている。同じ人物を殺すような気分になるかもしれない。およそ、常人の思考とはかけ離れているが、夏宮は関心事は別のところにある。
燐を殺したことに後悔も未練もない。自分に討たれるべき女だったと信じてはいるが。
彼女の表情が思い出せない。
美しい女だったことは覚えている。凛とした雰囲気に、優雅さと気品を感じさせる立ち居振舞い。白拍子姿でもわかる豊満で魅惑的な身体は、いつ奪うか狙っていたくらいだ。だが、その手の勝負となると夏宮が敗北を喫する。毎回気付く前に、たった数秒で動けなくされるのだ。それも大した怪我もさせずに。
東雲や朱堂が援護に回ったりもしない。相手は燐ひとりだというのに、髪一本たりとも触れることは叶わなかった。艶やかに笑う彼女を見る度に憎しみが募っていく。
絶対に、あの涼しげな表情を恐怖と屈辱の色に染めてやる。
なのに、忘れた。
待望の瞬間であったはずの、絶命する彼女の表情を。
夏宮は、自身の掌を見つめる。まだ、右手に残っている。胸を刺し貫いた感触、大量に噴き出す鮮血、消えていく温もり。
なら、再現するまでだ。身代わりなら、すでに見つけている。かなり不本意だが、柚月が燐に似ていることは認めよう。彼女を殺せば、思い出すかもしれない。
もう一度、胸に風穴を開ければすむこと。その瞬間に、彼女は東雲や朱堂、世界の全てを呪いながら息絶えるのだ。
際限ない妄想があふれる。待ちきれない夏宮は立ち上がって、拳を握った。
「……もう少しだけ、遊んでやるか」
時間稼ぎのためにも、柚月を潰すのが得策だ。ついでに、あの小娘の苦痛に歪む顔を拝んでやる。
周囲には、はらはらと火の粉が落ちた。
あんなに憎んでいたのに燐はどこにもいない。
だったら、この世界も、何もかも。壊れてしまえばいい。




