第55話
朝吹市の中心街。
平日の昼時にも、混雑する場所だ。
その大通りを歩く柚月は、ちくちくと胸が痛む。周囲の人間が、自分の服装を気にしてはいないだろうか。この時間帯に女子高生が、徘徊する理由なんてない。運が悪ければ補導される。
やはり、着替えてくるべきだったと反省していると。
「どうした? 友達とケンカしたような顔して」
振り返った朱堂が唐突に訊ねてくる。もう随分と、ふたりきりで街中を散策していた。
目的地は、特にない。
互いに東雲の召喚を待つため、時間を潰しているだけだ。
柚月は慌てて頭を振る。
「べ、別に。何でもない」
上擦った声で、ごまかしてしまう。
けど、嘘はついてない。小泉たちは友達じゃない。ケンカというより、柚月が一方的に噛みついただけだ。今にして思えば、かなり酷いことを口にした。むしゃくしゃしていたとはいえ、わざわざ詰る必要はなかったのだ。あまり突っ込んでほしくない思いが伝わったのか、朱堂も深くは詮索してこない。
柚月は、少しだけホッとした。いつもは図々しいくらい、ムカつくことを言うのに。
今の関心の薄さは、ありがたい。事情も知らない第三者にあれこれ指摘されても苛立つだけだ。
鬱々と気分が滅入る。もともと悪循環に思えた日常が、ここ数日で一気に悪化した。先の見通しがつかない。これからどうなっていくのか不安だけを募らせれば、朱堂が忠告をねじ込んでくる。
「どうでもいいが、あんまりシケた面してんな。こっちでの縁が弱いと、向こうの世界に引き摺られるぞ」
「……え?」
どういった真意かはかりかねて、柚月は目を丸くする。
向こうの世界へ引き摺られる?
ニュアンスからして、『異世界へ閉じ込められる』という展開ではなさそうだが。言葉の意味を理解していないと察した朱堂は、当然のように補足説明をはじめた。
「通常、【彷徨者】ってのは生まれ育った土地の縁が薄いヤツが選ばれる。いなくなっても困らないヤツや、死にかけたヤツとかな」
「どうして?」
「単純な理由さ。ここで邪魔者扱いされてるヤツが、向こうじゃヒーローになれる。しかも、大した労力も払わずにな」
朱堂の言うことは、間違っていない。柚月だって、特別な訓練を受けたから怪力が出せたわけではない。
地球で、その他大勢と似たような生活を送る人々には刺激的な状況かもしれなかった。
「でも、だからって何でそれが……」
「人間、必要とされないより、必要された方が存在意義を感じられるだろ。誰だって」
靴底を滑らせるように歩く後ろ姿を見つめる。かなり不本意だが認めるしかない。彼は、どうあっても自分が敵わない相手だ。経験、知識、教養、実力、状況判断、どれを取っても柚月を遥かに上回る。
だが、自分が学ぶべき要素があることも理解していた。こうして、朱堂は別の視点をくれる。絶対に学校や地球の一般常識では知らされない現実を、である。
柚月は、同時にハッとする。
「まさか、朱堂さんも……?」
彼の言ったことが正しいのなら。
朱堂自身も地球との縁が薄いのでは?
そして、そのことが原因で【彷徨者】に選ばれたのではないか。
彼は、何も答えなかった。横目で笑うも、そこに否定の意味は含まれていない。
柚月の予想通りだ。
「俺は、まだマシな方さ。ただ死にかけただけだからな」
軽い口調とは裏腹に、物騒な状況を語る。聞き役に徹した柚月は、最初は映画か小説の話かと思った。
朱堂は、自身が初めて【月鎮郷】に召喚された時をよく覚えているという。忘れるには、全ての記憶が鮮烈すぎたのだ。
しとしとと降る雨の音を夢見心地に聞く。
己の迂闊さを、他人事のように感じた。冷たいアスファルトに倒れたまま。
相手が悪かったとしか言いようがない。偶然に見かけたホームレス狩りをしているチンピラだが、それなりに腕の立つ男でもあった。なかなか、白黒つかない決着に向こうが苛立つ。護身用とは思えないナイフを持ち出され、腹部を刺された。
傷は深く、流れ出る大量の血。
降りしきる雨が、失いつつある体温をさらに容赦なく奪っていく。
あの時が、初めて死を身近に感じた瞬間だった。意識も遠のいていく。
このまま静かに眠るのも悪くない。柄にもなく、そんな考えが頭を掠めた時だった。
(ならば、その生命、わたくしがもらい受けよう)
凛とした声音が、弱った鼓膜を震わせた。
次に、強烈な光がまぶたを灼いた。視力が戻った時には、雨は止んでいた。
それどろか、屋外ですならない。簡素な造りの部屋だった。目の前には、一枚の畳の上に鎮座する人物がいる。巫女と気付くには、しばらく時間がかかった。
純白の衣。緋色の袴。
結いあげられた艶やかな黒髪。
きめ細やかな肌。すっと通った鼻梁。形のよい深紅の唇。
黒曜石のような双眸は、射抜くような意志の強さを宿して。
『ようこそ。次元の狭間を渡る【彷徨者】よ』
艶然と微笑む、巫女姫。この世のものとは思えない美しさだった。
薄れいく意識の中で、彼女が裾を捌いて立ち上がった。歩み寄り、細い指が頬に触れる。
朱堂は、目を閉じた。
彼女は敵かもしれないのに。自分は死ぬかもしれないのに。
その冷たい指先は、とても心地よかった。
「手当てされて、飯も食わせてもらった。ヤツらの狙いは、それだ。恩を売って、従わせる。意志薄弱な人間だと、体よく操られてることにも気付かない。正義のヒーローが正体を隠す本当の理由は、ここにある。他人の生命を助けると、そいつとまともな人間関係なんか築けやしない」
朱堂の説明に、柚月は思わず納得してしまった。
例えば、自分が【月鎮郷】で誰かを助けたとしても大したことだとは感じない。それとは逆に、もしも柚月が地球で他人に生命を助けられたとしたら。
もちろん、一生忘れない。身近な人間なら、なおのことだ。何かにつけて、感謝を伝えるだろう。
朱堂の指摘は、この落差を示している。お互いの気持ちが違いすぎる。どちらも人間としては自然な在り様だが、健全な関係という点では良好とは言いがたい。
【月鎮郷】の召喚士は、それを利用する。自分たちの望みのために。
「……あなたは、それでよかったの?」
柚月は訊ねずにはいられない。
一方的に恩を売られ、利用されていると知っても、朱堂が憤ったようには見えない。むしろ、燐姫に対して信頼以上の感情を持っている口ぶりだった。
何故、そんな関係性でも心を繋ぐことができるのか。柚月には、わからない。知りたいと思っても、返ってきた言葉は普通すぎる感情だった。
「助けてもらったことは事実だからな。感謝はしてる。だから、大抵のことなら手伝った」
そう言って、朱堂は自分の脇腹を撫でる。
とっくに塞がったはずの古傷が疼いたように。一方的に結ばれた縁を確かめるように。
もう途切れたはずの絆を、朱堂は手繰り寄せようとしている。
その態度を不思議に感じるものの、柚月は最後の一言が気になった。
(……大抵のこと?)
【彷徨者】に拒否権があるとは驚きだ。
今まで聞いた召喚士の印象や朱堂の性格からして、選択の自由があったとは考えにくい。まだまだ隠された事情があると見るべきか。
謎が増えすぎて飽和寸前だ。情報を整理することは諦めて、他にも受け入れる余地を作っていると、朱堂の声が割って入ってきた。
「疑ってんのか? なら、脱いで証明してやろう」
何故か、威張るような口調で上着に手をかける。
「いいえ! 結構です!」
今にも脱ぎそうな朱堂に叫んで、止めさせようとした。狼狽した声音で周囲の注目を集めたが、まだマシだった。
街中で本当に脱がれたら、柚月はどう反応していいかわからない。当然、そっちの視線の方が居たたまれない。
わずかに赤らめた頬を膨らませれば、朱堂は興味津々といった表情で見つめてくる。
「……やっぱりな。おまえ、かなりラッキーだぞ」
「?」
「若い娘ってのは利用価値があるだろ。いろいろと」
からかうような意地の悪い口調に、柚月は青ざめる。朱堂の意図が、手に取るようにわかったからだ。元の世界へ帰す条件に、柚月の身体を要求される。
東雲が、そんな条件をつける可能性もあったのだ。実際に、できるかどうかは別として、全力で抗えない気がする。元の世界に帰るためと思えば、どこかで諦めてしまうかもしれない。
今さらながらに、身震いする。遠い異界の地で、柚月は何の違和感もなく、自分のままでいられた。それは、召喚した東雲が自由にさせてくれた部分を否定できない。
地球に帰してやると言えば、もっと好き勝手に扱えたのに、それをしなかった。死にかけていたところを助けられたわけではないし、異世界へ引きずり込まれた覚えもない。
東雲の真意が見えなくて、立ち尽くす。いつも嫌味ったらしく命令していても、柚月を人並みに扱ってくれた。
他にも、心当たりはある。まだ異世界へ呼び出されて日も浅い頃、夜盗の根城を探索していた。夜の廃墟を歩くのは怖かったけれど、それ以上に倒壊しかけた家屋に巣食う蜘蛛が怖かった。東雲には隠し通すつもりが、肩に落ちたそれをヤツに発見されてしまい、パニックに陥った。
もう終わった。いろいろと。勘の鋭いヤツのことだ。
すぐに事情を察して、ここぞとばかりに意地悪をしてくるに違いない。柚月が内心でそう覚悟すれば、直後から彼の取った行動は意外だった。まずは、肩を払って蜘蛛を撃退する。緊張して動けない柚月を屋外へ連れ出し、落ち着くまで背中をさすってくれた。
廃墟の調査も探索から夜盗をいぶりだす方向へ切り替え、東雲は交渉の末、建物に火を放つ。そのおかげで、柚月の仕事は飛び出してくる夜盗たちを捕まえるだけでよかった。
理由を訊ねたら答えてくれるだろうか。それとも、大した理由なんてないのだろうか。
まただ。
今、ここで考えても意味がないことは柚月自身が知っている。でも、東雲の目を見て訊けるほどの勇気もない。答えの出ない漠然とした不安を意識すれば、朱堂が気付いたように呟いた。
「でも、いいのか? あれ、相当、落ち込んでるぞ」
「いいのッ! あれくらいしないと私が困るじゃないッ!」
柚月は顔を真っ赤にして叫ぶ。
思い出すことさえ、恥ずかしいのだ。
文句言いたさに前を歩く朱堂を恨みがましく見つめ、唇を突き出す。
「……大体、何でお兄ちゃんを止めてくれなかったのよ?」
「どうせ、用事は向こうだ。呼び出される時に一緒でも、気付かれる心配なんかないだろ」
さらりと返された言葉に、柚月は押し黙ってしまう。
この男は、どんな時にも懸念すべき問題が目の前にあるようだ。だからこそ、何を留意するのか瞬時に判断できる。
柚月の考える問題なんて、障害にすらならない。実は、朱堂と合流する前、柚月は一度帰宅している。
その時、大学にいると思っていた兄と朱堂にでくわしてしまったのだ。柾人は妹の帰宅に首を傾げるも、事情を正直に話して「あんなところで勉強したくない」と言ったら、頭ごなしに説教したりしてこなかった。それどころか、気軽に「どこか遊びに行く?」と訊ねてきた。
兄の意外な提案に柚月は、深く考えず頷く。
ただし、ここから先は話がおかしな方向へこじれてしまう。思い立ったが吉日とばかりに、すぐに出かけるようとする兄を柚月が捕まえた。彼の着ていたシャツには、こう書かれてあったからだ。
「シスコン万歳」
まずは、着替えを促した。だが、その次もプリントの入ったトレーナーだった。
「妹ひと筋」
遠回しに色が気に入らないと言った。仕方がないので、悟られないようにプリントを隠す方へ誘導してみる。
早い話が、上着を取ってこいと言った。すると、兄はバックプリントのあるパーカーを持ってきた。
「ツンデレな妹は、好きですか?」
一緒に歩いたら、視線が痛くなること確実だ。柚月は、開いた口が塞がらない。
普段から、ちゃんとしていれば格好いいのに。家にいる時は、どうしてこうもトンチンカンなのだろう。一部始終を眺めている朱堂に止める気はさらさらないらしい。椅子に座ったまま、頬杖ついて「もっと面白いものでもいいぞ」と、けしかける始末。
ちなみに、彼が着ている服は柾人から借りたものだ。もちろん、妹繋がりのアホなプリントはない。
つまり、ちゃんとした服も持っているのだ。何故、今、それを着てくれないのか。
これは、学校をサボッた罰なのだろうか。兄は怒っていないように見えて、実際は腹に据えかねているのかと邪推する。授業に出ろとか学校に戻れと怒られた方がマシだったかもしれない。このままでは、実兄に羞恥プレイを強要されてしまう。
やはり、隠し事はお互いのためにならない。たまりかねた柚月は、正直な気持ちを伝えることにする。
『その格好で外を出歩くっていうなら、私、お兄ちゃんと口きかないからね』
と、無情な防衛線に兄は再起不能となった。
今頃、ひとり寂しく留守番をしていることだろう。
「土産、買ってくだろ。帰ったら、とっとと仲直りしちまえ」
苦笑を浮かべる朱堂の声音は優しかった。その珍しい態度に、柚月は少し戸惑う。おかしな表現だが、ようやく彼が普通の人間に見えた。
朱堂も、他人を思いやる心があるのか。そんな当たり前なことさえ、気付けずにいた。




