第49話
柚月は、額を押さえてぼやく。
(……まだ揺られてる感じがする)
朱堂にバイクで連れて来られた場所は、朝吹市の外れだった。慣れない乗り物で移動した場所は、自宅と反対方向である。繁華街と似たような路地裏をふらふらとした足取りで歩く。人気がないのが幸いだった。
疑問は何故、自分がそこにいるかではない。朱堂とふたりきりなのも問題ではない(本来なら、大問題なのだが)。
問題は、バイクの乗り心地だった。振り落とされないようにしがみつくので精一杯。マフラーの騒音も耳について離れない。滅多に乗り物酔いなどしない柚月だが、いつものようにとはいかなかった。
とにかく、足がふらつく。千鳥足のような歩みに、背後から笑声が洩れてきた。
「初めてか。まだマシなのを選んだつもりだが」
勢いよく背後を振り向き、眼光鋭く睨みつけてやる。視線の先には、おどけた様子の朱堂が眉尻を下げていた。
「おおい。そんな顔すんなよ。あいつとデートよりかは、マシだろ」
「……あいつ?」
彼との共通している知人は少ない。口ぶりからすると、東雲のことを指しているのだろう。
思い至った、数秒後。
柚月の口許が、盛大に引きつった。
考えるまでもない。
一日の大半を東雲とふたりきりなんて、ぞっとする。たったの二時間ほど喚び出されるだけでストレスが溜まるのだ。何をしようが、楽しむことはできないと断言できる。
「……マシっていうか、あの人格破綻者に普通の対応を期待するだけ無駄っていうか」
疲労からか、本音がぼろぼろと零れ落ちる。完全な独り言だったのに、朱堂は耳ざとい。眉根を寄せ、呆れた口調で話しかけてくる。
「ああん? 俺にしてみりゃ、おまえの方が破格な扱いだぞ」
「どこが? 用がすんだらとっとと帰されるし、お腹すいてても、ご飯どころか水すら飲ませてもらえないんだからッ!」
自分のことはしっかり棚にあげてくる朱堂に対し、ぞんざいな扱いだと反論する。何をどう解釈したら、そんな結論に至るのか。柚月は首を傾げたくなる。
朱堂がいれば、尚更だった。
聞けば、【月鎮郷】で食事をとっているらしいし、条件つきではあるが、こうして元の世界と行き来を許されている。
保釈中の身でありながら、ずいぶんと自由を満喫しているではないか。
もし、柚月の方が優遇されているとしたら是非とも教えてほしいものだ。内心で、嫌味のような売り言葉を吐き捨てる。
もの言わぬ渋い表情で悟ったのか、朱堂は横目で視線を投げかけた。
「それが、ヤツの優しさだとは思わねーの?」
「えッ?」
即座に切り返された言葉に、柚月は戸惑う。考えていたことと真逆の意味だったからだ。どう解釈していいか、さっぱりわからない。
当然のように、朱堂の話はまだ続く。
「『ヨモツヘグイ』って言葉、知ってるか? 古事記……日本神話の有名なくだりにある。黄泉の世界へ妻を迎えに行ったイザナキ神が、それを理由に一緒に帰ることを拒まれる。黄泉の食いもんを口にしたから帰れないって、妻のイザナミ神自身にな。他にも、現地の食べ物を口にして土地に縛られるって神話はある。ギリシャ神話のペルセポネは、もともと地上の女神だったが、冥府のザクロを口にして一年の三分の一を冥府で過ごさなければならなくなった」
「はぁ……」
突然の神話講義に、柚月は生返事するしかない。
いきなり話が、ぶっ飛びすぎである。過去の人間が作り出した、ありえない非現実的な物語が、何の役に立つというのだろう。柚月の怪訝な反応に、朱堂は苦虫を噛み潰したような顔になる。察しが悪いとでも言いたげな目つきだった。
「その土地の物を口にしたら、同じ世界の住人になるって観念だと俺は解釈してる。似たようなニュアンスで言えば『同じ釜の飯を食った仲』ってヤツだ」
「!」
そこまできて、朱堂のいわんとしたことが理解できた。
今まで召喚された【月鎮郷】で、柚月が食べ物を口にしたことは一度もない。苑依姫の邸でのように、勧められた機会はあったが、隣にいる東雲が全て遮ってしまっていた。単なる嫌がらせと捉えてきたが、そういった可能性を考えてのことだとしたら。
あり得ない話ではない。
【月鎮郷】の認識は、柚月たちの知る平安時代に近い。鬼や物怪を信じている人間なら、科学的な根拠より、古くから言い伝えられている観念を信じるはず。
『わかりにくいかもしれないけど、男の人の優しさって目に見えるものばかりじゃないのよ』
不意に、親友の言葉が蘇る。あれは、こういう意味だったのだろうか。
思いもしなかった指摘に何も言えずにいると、朱堂はさらに追い打ちをかけてきた。悠然とした足取りで、柚月を新たな道に導くように。
「大体、おまえ、俺たちが異世界を渡って、何の影響もないとか考えてる? 今は何ともないが、五年後、十年後、どんな反動がくるかわからん。なるべく、郷との繋がりを少なくしてるんだろ」
皮肉げな笑顔で、またもや考えもしなかった視点を突きつけてくる。
第三者に言われて初めて気がつく。どんなに長くても、二時間以上は【月鎮郷】にいたことはなかった。てっきり、長居を迷惑がってのことだと思い込んでいたのに。
悪意として受けとめていた東雲の言動。自分のためを思ってくれていたとしたら、ただ混乱するしかない。
確かめもせず、勝手に意地悪と捉えた自分が恥ずかしい。もし、仮に朱堂の言葉が事実だとしたら、何故、東雲は今まで口にしなかったのか。羞恥心や居たたまれなさ、疑問などが様々な感情が入り交じり、どう反応していいのかわからない。
訊ねたら、ちゃんと答えを返してくれるだろうか。問い質したい反面、確かめるのが怖くもある。
「ちなみに」
振り返った朱堂が、柚月の胸元を指さした。
反射的に手を当てると、勾玉が制服の上からの感触が伝わってくる。
「それには複数の術がかかってる。俺が触れた時、電気みたいなのが走ったろ?」
あれは、東雲が防御結界を張っていたという。特定の条件下でのみ発動するよう、前もって術式を組んでいたと朱堂は見ている。
柚月にも思い当たる節はあった。
【御門家】の襲撃時のことだ。東雲の術が自分を避けていたことを思い出す。
首にかけてある霊具を、服の上から握る。これを貰ったのは、初めて【月鎮郷】に来た時だ。去り際に謝礼のつもりだと嘘をつかれ、二度目に呼び出された日に東雲の思惑を知り、えらく腹を立てたものだ。
だから、召喚に必要な術式が組み込まれていたのは知っていた。先日、東雲自身もそれを認めるような発言をしている。
しかし、渡されてから今までに東雲の手に返したことは一度もない。もしや、彼は最初から術式を組んでいたのだろうか。
柚月と出逢う以前から。
柚月のためだけに。
とくとくと心臓が早鐘のように鳴る。ざわつく胸を必死に落ち着かせる。
まだだ。
今、頭にちらついた考えは推測でしかない。肯定も否定もできない、曖昧な現実。
別々の視点から見た世界。
東雲に確かめるまで、信じることはできない。頭を振って、全ての予想を締め出した。
それでも。
傾いていく心を塞き止める柚月を、朱堂はさらに深く引き入れる。
彼女の知らない、歪んだ世界へと。
「その霊具は、そもそも俺たちの世界と郷を繋ぐ媒介を果たす物だ。普通、それ以外の機能は持たないし、持たせない。そう郷の掟で決まってるんだ。俺がざっと見ただけでも、契約者の防御結界術、時間空間干渉無効化、召喚時の時間軸補助、転移座標の指定・固定補助……しこたま面倒な術式ばかり組んでるぜ?」
「なんで、そんなこと……?」
東雲が、骨を折って不必要な術を組んでいた。
郷の掟に逆らってまで。
理由が考えられない。
一方的に利用される関係だと諦めていただけに、どう処理していいのか悩んでしまう。
まだ朱堂の言葉が、真実だと保証されたわけではない。
単純に、嬉しいと口にすることはできなかった。東雲の気持ちなんて、考えたこともない。触れていいものか、それすら躊躇う。
迷い迷って、何も言い出せない。確かなことなんて、目の前にはない。
朱堂は、黙りこくる柚月を興味深そうに見つめる。とても愉快そうに笑って、答えを口にした。
「難しく考えんな。ヤツも男ってことだろ」
別の意味も含まれている気がしたが、具体的にどれを指しているのかまでは判別できない。
どうせ、いつもの冷やかしだろう。
深くは考えるだけ無駄だ。向こうは、柚月の反応を見て楽しんでいるだけ。相手にせず、曖昧な空気に任せてごまかそうとすれば。
仕返しのつもりなのか。朱堂が呟いたひと言で、話がおかしな方向に転がってしまう。
「実は、以前にヤツが女じゃないかと疑って服を剥いたことがある」
こともなげに告げられた言葉で、柚月はぎょっとした。
「剥いたって……まさか、服を脱がせたのッ!?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ちょっとばかし、胸元をはだけさせただけだ」
真っ青になって怒鳴れば、朱堂は心外だと眉をひそめる。自分が重大な言動をしているという自覚がない。
あの東雲相手に、無謀なことを。十分に犯罪だと思う。しかも、動揺する柚月の胸には新たな疑問が浮上した。
「朱堂さん、まさか……」
「ああ。あの顔は、わりと好みだ」
再び、さらりと爆弾発言をする朱堂に、意識を失いかけた。それだけでは飽きたらず、彼の表情はすこぶる残念そうな顔つきだ。おそらく露になった胸板を思い出して、肩を落としているようだ。
えらい過去を知らされたものだ。忘れたいのに、印象が強烈すぎて忘れられない。
美形といっても、東雲は中性的な雰囲気を持っている。女装などしたら、究極の美女になってしまいそうだ。
だが、ヤツは男なのだ。あくまで。
少なくとも柚月は今まで疑ったことがないため、余計に彼の言葉に違和感を覚える。
「本当に女の人だったら、どうすんの!?」
朱堂のこだわらなさすぎな点に、たまらず叫び声をあげる。周囲の視線など構っていられない。
ただし、朱堂の方は、ひとつ大きく鼻息を吐いて胸を張るだけだ。
「やることやったに決まってんだろーが」
彼の目は本気だ。
許容範囲を遥かに越えた発言に、柚月は今度こそ言葉を失った。
当然のごとく、東雲と顔を会わせづらい。いつもの比ではなかった。
(よかったね、漣。あんた、男で)
と、心底思うしかない。
 




