【幕間】
その日の深夜。
大神は、病院を抜け出した。あちこち痛む身体を叱咤させ、暗がりの道を歩く。
向かう先は、決まっている。嫌でも、頭の中に姿が浮かぶ。
生意気な女子高生。
一度ならず二度までも、自分に恥をかかせた女。
あいつの家は知っている。寝込みを襲って、情報を聞き出してやる。
大神は、すでに自分の行動がいくつもの犯罪行為に当たることを失念している。それほどまでに、柚月は彼にとって屈辱の象徴になった。
女のくせに歯向かい、今でものうのうと暮らしている。完膚なきまで叩き潰さないと、気がすまない。
自分と対峙した人間が悉く辿る末路。
ただの偶然の結果だと知らない少年は、憎しみを募らせていく。柚月を潰せば、解消されると信じて疑わない。
明るい商業区を抜け、住宅街の歩道を進む。ゆらゆら揺れる自分の影を見つめながら、積もる苛立ちに唇を噛みしめていると。
「いーね。病院を抜け出す、その根性。とっとと負け犬になると思ってたぜ」
からかうような声が辺りに響く。
周囲に視線を這わせるが、人影はない。降りてきた笑声で、頭上へと視線を向けた。
「だが、そりゃ逆恨みってもんだぞ。柚月も、厄介なヤツに目をつけられたな」
暗闇に捉えた人物は朱堂だった。真夜中だというのにサングラスをかけ、何故か塀の上に屹立している。
「てめぇ……いつからそこにッ?」
「さっきから。ちょいとおまえに忠告したくてな。病院へ向かう途中に、鉢合わせしたってだけさ」
さらりとした口調で地面に降り立つ。
まるで友人と話すような気安さだった。大神に反応する暇などない。
そのまま、素早く本題へ入ってしまう。
「もう、柚にちょっかいを出すのは止めておけ。おまえの兄貴分は全部、知ってるぞ。柚のことを処理できても、落とし前は別に払うことになる。なんせ、小娘ひとりにチームを荒らされたんだからな」
皮肉るわけでもなく、事実だけを告げてくる。
それらは、大神自身も懸念していたことだ。
「そこで取引だ。柚を見逃して、兄貴分の居場所を教えてくれたら、俺がうまく話をつけてやる」
言い切ったあと、朱堂は軽く鼻を鳴らした。
「本当なら、おまえみたいな悪ガキも半身不随にしてやるとこだがな。今回は柚に免じて見逃してやる」
最大限の譲歩だ。感謝しろ、とでも言いたげな口調が、大神の反発心に火をつけた。
全身を震わせて、怒りや不快感を露にする。
「誰が、てめぇなんかに教えるか! それより、よく現れたな。まずはてめぇから、ブッ殺すって決めてたんだよッ! 覚悟しろッ!」
拳を握りながら、大声で吼える。
柚月を狙ったのは報復の意味もあったが、朱堂の情報を訊き出すことが目的でもあった。チームのメンバーを使い物にした男を、探し出して同じ目に合わせる。仲間意識というより、危害を加えられたという面子や自分に従う人手を失った気持ちからくるものだが。
大神に、取引を呑むという選択肢はない。怒りや面子にこだわっているというのもある。それ以前に、朱堂が取引を持ち出してきた真意まで、頭を巡らせようとはしない。
彼なりの温情であるにも関わらず。
気付きもしない大神の恫喝にも、朱堂は無言で見つめ返す。まるで懐かしいものでも眺めるかのように。興味深そうに、口元に笑みを浮かべている。
ただし、纏う雰囲気は硬質で冷たい。
今までの相手とは違う。柚月と似てはいるが、彼女は怒りを全面的に押し出していた。
それらを肌で感じるものの、大神は無視する。理由を考えるより、自分の直感に従う。屈辱を晴らす、その一心だった。
すると、向かい合う男がふっと息を洩らす。
「大丈夫だ。おまえはすぐに教えたくなる」
朱堂は表情を変えずに、「そういや、言い忘れてたんだが」と思い出すような口ぶりでぼやく。
「俺は、おまえたちみたいに自分より弱いヤツらと戦ったことがない。相手を死なせないように、手加減する方が難しいんだ。だから、さっさと吐いてくれ。でないと……」
すっと、朱堂の口元から笑みが消えた。
突然、掲げた右手から朱色の炎が出現する。輝く火の粉を散らしながら、こともなげに告げてきた。
「死ぬぞ。おまえ」
数時間後。
朝吹の西駅前にある雑居ビル。
古くからある、この建物の中には氷龍組の事務所がある。
緒方 誠一は、ソファーに座ったまま、いくつもの写真や書類を睨んでいる。
事態を楽観視しすぎていた。たかが、気が強いだけの女子高生ひとり。暴走族に歯向かった威勢は買うが、拉致して輪姦すれば簡単におとなしくなる。あとは、売春宿か海外に売り飛ばせばいい。大した額は稼げないが大神の失態を帳消しにして、懐が少しでも温まると思えば、決して悪い話ではない。
だが、結果は緒方の予想に反する。
大神をはじめとする【牙狼党】の大半が入院。チームの連中に話を聞けば、男が割って入ってきたという。
柚月に会いに行った時に現れた人物を思い出す。
わずかな怯えも見せずに対峙した態度が、強く印象に残っている。犯人が彼ではないとしても、厄介なことになった。大神を構成員として組に紹介しようとしていた矢先の出来事だけに、これからの行動は慎重にしなければ。
幸い、大神や柚月の存在は上に知られていない。後輩のことは組員に相談する直前だったし、彼女の身元はチームのメンバーからもらった情報だ。警察の事情聴取も、「炎の龍を見た」などと証言するため難航している。
自分がうまくやれば首は繋がるだろう。
都合の悪い部分は大神に押しつけ、柚月を処分してしまえば何もなかったことになる。
隠し通せる目処が立った、その時。
────ゴッ!
盛大な激突音が響き、わずかに建物が揺れた。
緒方が無言で天井を見上げること数秒。
次の瞬間には男たちの叫び声が聞こえ、事務所の扉が勢いよく開かれた。
「緒方ッ! 銃を……拳銃を持ってこいッ!」
室内に転がり込んできたのは、血相を変えた組員だった。何故か、あちこち汚れ、擦り傷を作っている。
「川内さ……ッ!?」
ドンッ!!
名前を呼ぶ前に、轟音と凄まじい衝撃が入り口を襲う。事務所の扉は吹き飛び、朱色の巨大な炎柱が組員の身体に直撃する。
「ぐぉッ!」
灼きつくような目映い光に、緒方は目をつぶってしまう。短い悲鳴を上げた組員は、開けた視界から消えていた。
朱色の火の粉が舞う中、ゆっくりとした足音が聞こえてくる。
「やれやれ……最近のヤクザは、つまらんな。もう少し骨のあるヤツはいないのかね」
嘆息するような声音は、退屈そうだった。
緒方は驚愕に目を瞠るしかない。
壊れた扉から現れたのは朱堂だった。何者かの襟を掴み、引きずりながら歩み寄ってくる。
「よぉ。遊びに来てやったぜ」
軽い挨拶と同時に、掴んでいた組員を放り投げた。
ドンッ!
降ってきた仲間がテーブルを叩き割るようにして、床に沈む。背中を強く叩きつけられたにも関わらず、ぴくりとも動かない。
「どいつもこいつも弱くて話にならん。この埋め合わせはしてくれるだろうな?」
緒方が見下ろす視界には、白目を剥いて倒れている組員がいた。組員の幹部で、何かと目をかけてくれた兄貴分だった。
血まみれの顔面で、叩きつけられる以前から気を失っていたとわかる。
視界の端で、素早く影が動いた気がした。
「さぁ、柚のことをどれだけ調べたのか、洗いざらい話してもらおう。場合によっては、相談したお友達のところにも案内してもらうぞ」
気が付けば、朱堂が至近距離で立ち塞がっていた。
ソファーに足をかけ、愉快そうに笑っている。
緒方は眉をひそめた。
事務所には自分を含めて、六人いたはず。あれだけ派手に騒ぎ、この室内に誰もやってこないことから、緒方以外の人間は動けなくされたのだろう。
わき起こる恐怖を必死に隠し、低い声音で問い質す。
「貴様、こんなことしてただですむと……」
「思ってるぞ。こんなこと、俺にとっては日常茶飯事だ」
けろりと告げてくる言葉に、緒方は今度こそ言葉を失った。
迷いなく、暴力団の事務所に殴り込みを日常の一部だと断言する朱堂。銃を突きつけられることに慣れた者が口にするセリフだ。
緒方にとって、それは驚愕の事実だった。今までの余裕は全て霧散する。
所詮、彼は日本という狭い世界しか知らない。幼い頃から荒れた生活をしていても、生命の危険を感じたことなどなかった。
それだけ生温い環境の中にいたということ。
異世界や海外を渡り歩いた朱堂とはくぐってきた修羅場の数が違う。だが、その事実を緒方が知るよしもない。
不意に、朱堂の目が細められる。強い光を宿す瞳には、硬質な冷たさを感じた。
「俺が、おまえの前で顔をさらしている理由がわかるか? おまえから、俺の情報が出ないと確信しているからだ」
自分がいたという証言はさせない。五体満足で解放する気はないと言ったも同然だった。
ぞくりと背筋に震えが走った。
この男は、何を言っているのだろう。
自分の身に起きている現実を認識できない。
それでも、朱堂は「ちなみに」と付け足してくる。
「俺は、おまえたちのような人間を許さない。見つけたら、必ず潰すと決めている。他人の金銭、安息や生活、人生、未来を搾取して生きているくせに、護るのは自分の面子だけかい? 身のほどを知らないから、そういうことになるんだ」
「な……ッ」
緒方が目を見開いた。
侮蔑と嘲り。
人格どころか生き方まで否定される、究極の侮辱だった。卑小で、取るに足らない存在だと断言してくる。
こうもあからさまに罵られれば、二の句など継げるはずもない。
そこで、朱堂は笑みを閃かせる。場違いなほど優しげで、柔らかな表情だった。ただし、開いた口からは猛毒が吐き出される。
「おまえ、まさか自分が世界にとって重要な人物だとでも思ってんのか? とんだお笑い草だな。おまえみたいな器の小さい人間なんか、どこにでもいる。自分から何も考えず、属した組織を自身の力だと思い込む。上の命令を疑うことはないし、平気で他人を見下して傷つける。奪って、潰して、壊すだけ。誰にでもできる、簡単な生き方だろーが」
ボッと朱色の炎が燃え上がり、腕に絡みつく。
いくつもの火の粉がはらはらと床に落ちた。
焦げ目がつかず、淡雪のように溶けて消えていく。
その異様な光景に、緒方は眦をつり上げる。
朱堂の勝手な振る舞いを許す理由などない。
「ふ、ふざけるな……何故、俺がこんな目に……」
押し殺すような声を吐き出し、ちらりと横目で視線を滑らせる。
机の上にある一丁の拳銃を確認すると、即座に動いて掴み取った。今日の仕入れで確認したものだ。カチャカチャと震える手で、目の前の敵に突きつける。
その行動に朱堂は臆することなく、にっと口角を引き上げた。
「さぁな。災難なんて、遭遇する本人にはわからないもんさ」
災難。
今までしてきたことが頭をよぎった。
自分が傷つけた人たち。
それなりに理由はあったが、彼らは泣き叫びながら何故と理由を問いてきた気がする。
理解できなくてもよかった。
緒方さえ、大して覚えてもいない。
だからこそ、彼は知ることができない。
自分が、こうして理不尽に傷つけられる意味を。
引き金を指をかけた瞬間、朱堂の笑う表情が鮮明に灼きついた。
永遠のような空白を感じたあと、
────ドンッ!
爆発するように、フロア全ての窓ガラスが砕け散った。
緒方の意識は、そこで途切れる。
後日、ある事件が紙面を小さく飾る。
倉庫内で倒れていた【牙狼党】の主要メンバーは、精密検査の結果、何かしらの後遺症が残るだろうと主治医は診断した。日常生活にも支障をきたすため、チームは事実上の壊滅となる。特に、リーダーである大神は入院後にも誰から暴行を加えられた。両足の骨が砕かれ、二度と自分の足で歩くことができないほど、症状は深刻である。
捜査関係者は、大神が暴力団との繋がりもあることから、何らかの報復を受けたと見ている。
さらに同日、氷龍組の事務所が何者かによって荒らされた。付近の住民の通報で警察が駆けつけた時には、幹部の数人が気絶して倒れていた。
病院に搬送されたものの、全員が意識不明の重体。回復の見込みは薄く、意識を取り戻したとしても、ほぼ寝たきりの生活になる。また事務所内には脱税などの裏帳簿、麻薬や拳銃、それらの関連資料がこれ見よがしに散乱していたという。
管轄の警察署では、暴力団同士の抗争も視野に入れて捜査を進めている。
なお、このことを柚月が知るのは大分あとになってからだった。




