【幕間】
放課後の生徒指導室。
「俺は、無力だッ!」
バンッと長机を叩いて、嘆くのは風紀委員長の伊集院だ。
「何が風紀委員だ! 何が秩序だッ! 所詮、俺の歩んできた道は力なき信念だったのかッ!?」
バンッバンッ、と机を叩き壊しかねない形相で暴れ、大声を張り上げる。かと思えば、急にめそめそと泣き出して蹲る。
「道を外しかけている、たった女の子ひとりも救えない……」
「委員長……」
嗚咽を洩らす先輩に、長谷川はかける言葉が見つからない。
(本当、大変なことになりました……)
内心、溜め息しか出てこない。
柚月を強制的に違反させる目的で計画された朝の遅刻指導。風紀委員総出で立ち向かうも、あっさり玉砕。さらに同日の放課後、柚月が不良グループに呼び出され、あと一歩で警察沙汰になるところだった。事後報告を求めても、彼女の尊厳に関わること触れるため、表向きには不問という処置をせざるを得なかった。後片付けをしている最中も、頭痛の種は山ほど散らばっている。
作戦の重要なポジションを任された武生は部活を休むほどの静養を余儀なくされ、柚月の尾行するよう指示した早乙女と習志野たちはいまだに記憶があやふやなままだ。風紀を取り締まる要ともいえる手練れたちだっただけに、この損失は大きい。
唯一の収穫といえば、一般の生徒に遅刻が激減したことくらいか。多くの生徒が始業時間の三十分前には教室に着くよう、登校している。単に、とばっちりを恐れての行動だろうが、時間を守らないよりは良いことのように思えた。指導の甲斐がなさそうだった柚月も、翌日は早く登校している。長谷川の個人的な見解だと、友達からの呼び出しだろうと睨んでいる。
だが、これに他の風紀委員たちが増長した。
『何だか知らないが、あの蒼衣 柚月も委員長の指導が通じ始めている。このまま、朝吹を秩序ある学校にしていこう』
などと、怪しげな宗教のように伊集院を崇めつつある。
当然のように居丈高になる風紀委員たちに、他の生徒もトラブルを避けたいがために指導に従うようになった。さらに気をよくする委員会の士気は高まる一方だが、態勢は通常時と比べるまでもなくガタガタだった。柚月に再び力で対抗されたら、なす術がないことを彼らは知っているのだろうか?
そうはならないとしても、今の朝吹は自分の目指しているものとは違う。漠然とした不安が胸に横たわっている。長谷川は改めて目の前に倒れ伏す大熊……じゃなかった、委員長を見下ろす。
学校の空気を肌で感じてあるのだろう。凄まじい落ち込みっぷりだ。
「委員長、あまりご自分を責めないでください。あなただけのせいではありませんから」
柚月の遅刻指導が失敗した原因は自分にもある。落ち込む委員長を励まそうと、他の言葉を探した時だった。
「長谷川ちゃん!」
「はいぃぃぃッ!」
ガシッと両肩を掴まれ、エネルギッシュな顔が近付いてくる。
「優しい慰めなど不要! 不甲斐ないこの俺を罵って蔑んで、殴って蹴ってくれ!」
「いえ、それはちょっと……」
急に嗜虐的な発言をする先輩に、長谷川は引きぎみだ。ぶんぶんと首を横に振り、後退る。
もちろん、そんな繊細な乙女心は委員長には届かない。
ばっと筋肉の厚い両腕を広げる。
「さぁ、遠慮はいらない。俺には、今、この瞬間が必要なんだ……」
「────じゃあ、歯を食いしばれ」
ゴッ!
「ぐはッ!」
「ッ!?」
突然の悲鳴に、長谷川は目を瞠って肩を震わせた。一拍前、分厚いファイルが飛んでくる。向かい合う伊集院の首に深く食い込んだ。
固いプラスチックの背表紙を真横から直撃し、教室の床にがっくりと両膝をつく。
長谷川は、投げた犯人に向き直る。
「く、日下部先輩……」
「失敗を嘆くのも反省するのも、そこまでにしておけ」
無情な声音の主は、当然のように日下部だった。優雅に座る姿勢も硬質な表情も微動だにしない。
最近になって、長谷川はある疑念が頭を離れなかった。この副委員長は見た目よりも、言動が豪快だ。どちらかというと自分たちの指導対象と似ていると思っているが、口には出せない。その理由が何のか、自分でもよくわからない。
ただ時々、委員長に対して明確な殺意を感じる。
さっきのファイルにしても、伊集院ほどに首を鍛えていなければ、生命の危険すらあり得た。わかってやっているのか、いないのか。
同じ組織の人間に対してこれなのだから、反りの合わない生徒相手には容赦しないのであろう。あるいは、似た者同士での争いとなるなら、互いに殺し合うしか救われない気がする。
自分でも恐ろしい想像に、長谷川はますます口数が減る一方だった。
どうやら、まだまだ甘かったらしい。
皮肉な話だと思う。
今まで自分に本気で食ってかかる生徒がいなかったせいか、どうにも打つ手が鈍っていたようだ。
時間をかけすぎた。
確実に、自分の庭は荒れ始めている。
不信や不満、ことなかれ主義に戸惑い。
蒼衣 柚月という生徒の言動が、他の生徒にも影響をおよぼしている。中には面白がる生徒もいるようだが、それはごく一部でしかない。
皆、口には出さないが、俯きながら周囲を窺っている。ひたすら自分がどうすべきか迷っている、そんな空気が校舎を漂う。
とても秩序ある学舎とは言いがたい。
日下部は、ようやく悟った。柚月にはもう、生温い方法では太刀打ちできない。
「────方法は、まだある」
日下部が、切れ長の瞳を細める。
「あれこれ手をこまねいて、生徒側の自主性を引き出すことは止めだ。これからは、全員に等しく厳しい指導を行う。徹底的にな」
さらりと吐かれた言葉には、感情が一切含まれていない。
淡々と次の方針を宣言するだけだ。
「日下部……?」
「先輩、それってまさかッ……!」
ぽかんとする委員長と青ざめる長谷川の前に、日下部が何かを差し出してくる。
よく見ると、指の隙間に挟まれたUSBメモリーだった。くるくると指で回し、先を続ける。
「以前から、生徒会から打診されていた案がある。多少、あえて強引に実行した方が効果が見込めるだろう」
日下部の言葉に、三つ編みの風紀委員は目を剥いた。
「ま、待ってください、日下部先輩! それも力ずくの指導と変わりません! そんな方法では蒼衣さんは従わないと、今までのことで確認ずみじゃないですか!」
「────誰が、物理的に強要すると言った? ちゃんと口で説明してするつもりだ。幸い、建前も動機も、正当な理由もある」
長谷川の指摘を、きっぱり否定する。
突然の甲高い声音に、眉ひとつ動かしもせず。
背もたれに体重を預け、腕組みする。その表情は、皮肉のようなからかいが混じっていた。
机に肘をつき、手の甲に顎を乗せる。その表情は、珍しくもからかうような笑顔だった。
「それに、案外、蒼衣は即座に受け入れるかもしれんぞ。他の生徒は反抗しても、な」
「えッ……?」
長谷川が目を丸くする。
先ほどまで泣きべそかいていた伊集院まで、床に座ったまま不思議そうに訊ねた。
「日下部……そんな魔法のような方法があるのか?」
「魔法なんて万能なものではない。蒼衣だからこその弱点がある。それも、とびきり致命的なものがな」
何気ない感想に、日下部が謎めいた言葉を返す。当然、仲間の委員ふたりは見当がつかずに首を傾げるばかりだ。
その反応に、日下部はますます笑みを深める。
そう。魔法でも何でもない。彼女が彼女だからこそ、決して否定できない、逃れられない部分がある。
それは、とても汚い、醜い方法。
なるべくなら、日下部も触れたくはなかった。
これまで穏便にすませようとしてきたが、それが間違いの元だった。
彼女は、曖昧で不公平なものを許さない。世の中が、曖昧で不公平なものにあふれているからだろう。大多数の者が受け入れたり、諦めたりするであろう事実を理由もなしに認めたりはしない。
芯のない、中途半端な指導をしたところで、納得するはずがないのだ。
日下部も、どこかで手を抜いていた。
反射のように校則を違反する者に、真摯に向き合う必要はない。正攻法で従わない人間には、多少の強引な手段はつきもの。日下部もまた、柚月に真正面からぶつかっていなかった。彼女はいつだって、ありのまま全力で応戦していたのに。
そのことを深く痛感するものの、これ以上、黙認するわけにもいかない。
柚月は、すでに暴走族から目をつけられている。今回はたまたま事なきを得たが、次も同じようにすむという保証はない。
本音を言えば、彼女の思想は興味深い。日下部が風紀委員でなければ、とことん議論を交わすこともできたかもしれない。
だが、誰にでも通じる論理ではないのだ。彼女のような人間は、集団の中では孤立するか、散々な結果に終わるのが関の山だ。自分の庭で、そんな生徒を見るのは忍びない。
日下部は、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がる。夕陽が差し込む窓を見つめた。
(さて、次はどうする?)
記憶にある、強気な女子生徒を思い出す。
日下部は、今度は全力で屈服させる方法を選んだ。正面から突きつけられる彼女は、どんな反応をするだろう。
簡単に折れてくれたらと思う反面、納得するまで抵抗してほしい気もする。軽蔑されてもいいから、彼女の中に何かしらの変化が訪れてほしい。
こんなに相反する期待を持ったのは、日下部にとって初めてこことだった。それだけ、柚月の反応に関心があるということか。
日下部は渋々と認める。
驚くのか、激怒するのか。涙でも零すのか。
それとも……?




