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【幕間】






 カップからは、すでに湯気が消えていた。


 商店街の中にある小さな喫茶店に、朱堂はいた。待ち合わせの時刻は、とうに二時間は過ぎている。


 それでも、彼は待っていた。

 注文したコーヒーには手をつけず。かといって、煙草や携帯電話で時間を潰したりもしない。


 ただじっと店内と窓の外を眺める。


 三年もの歳月が過ぎて、日本人はますますつまらなくなったな、などと考えながら。


 出勤や通学の時ぐらい、流れていく景色を眺めればいいのに。

 わざわざ苦痛の世界だけに自分を閉じ込めるなんて、朱堂には理解できない。


 むしろ、滑稽だとさえ思う。


 自分から耳と目を塞ぐくせに、大量の情報に躍らされる。

 真実のない世界で真実を求め、薄っぺらな悪意で傷つき、見せかけの関係に縋る。


 もうたくさんだ。

 自身の意志も持たず、他の誰かに操られたいなら、麻薬中毒者のように好きなだけ情報に溺れていればいい。そんな風に自棄になって、自嘲する。


 朱堂に関しては、先立つものがないだけだが、仮にあったとしても煙草は好まないし、携帯も最低限しか使わないだろう。


 大事なものは、別のところにある。

 もう一度、取り戻したいと思うからこそ、今は最後の望みをかけて動いている。


 そこへ、視線の端、テーブルの隅に鞄が置かれた。


「……いつまで待つつもりだったの。私だって暇じゃないのよ」


 女性の声だった。

 拗ねた口ぶりなのに、嫌味のようなものは感じられない。


「それに留守電にメッセージを入れる時は、名前くらい言いなさい。誰かと思うじゃないの」


 わずかに上げた視線の先には、絶世の美女がいた。一度でも見たら、決して忘れられない印象を持つ。


 咎める言葉の端々にも、悪意を感じさせない柔らかさ。


 きめ細やかな肌と整った顔立ち。

 対照的な、鋭利で涼しげな目元とふっくらとした唇。

 モデルのような細い身体で、純白のスーツを完璧に着こなしている。


 朱堂は見上げて視線を合わせるなり、笑った。

 普段とは違う、控えめな笑顔で。


 何故だろう。

 彼女の前では、うまく笑えない気がする。


「声でわかっただろ」


「新手の詐欺みたいね。それ」


 女性は、そっけなく呟きながら鞄を置き直した。


 通りかがったウェイトレスに紅茶を頼むと、ソファーに腰かける。

 少し考えるような表情のあと、栗色の髪をかき上げた。


「三年……ぶり、かしら。一体、どこで何してたの」


 朱堂の視線は、テーブルに落とされた。ソファーにもたれたまま、さらりと答える。


「女にフラれた。そんで、失恋旅行に中東へ」


 女性の目が、まるまると見開く。

 一拍おいて、笑声が洩れる。肩を震わせて声を押し殺していた。


「そういうところは変わってないのね。安心したわ」


「変わっててほしかったか?」


 朱堂が笑いながら訊ねる。その表情も、どこかぎこちない。


 理由は、考えない。

 きっと意味のないことだから。


「まさか」


 うっすらと浮かべる涙を指先で拭いつつ、女性は首を振った。そんな仕草さえ美しいと思わせる。


「そんなとこで人生が変わったなら、やんちゃぶりに拍車がかかりそう」


 朱堂の視線が一瞬だけ縫い留められた。


 彼女の指には、結婚指輪が光っている。そんな想像はしていたけれど、特にかけるべき言葉はなかった。


 自分に祝われたところで迷惑だろう。

 そんな気持ちから、朱堂は見て見ぬふりをする。


「それで、用件は?」


「足が欲しい。車を貸してくれ」


 我ながら唐突だと思う。

 だが、意味のない遠回りな会話は好まない。

 時間もかかるし、本題を切り出せなくなることもある。


 もちろん、話を手短にすれば相手に不信感を抱かせる。

 目の前の女性も、あからさまに表情を強張らせた。


「……あなた、今度は何がしたいの?」


 彼女の真意は知っていたが、朱堂はわざとごまかした。


「ちょいと調べたいことがある」


「そうじゃなくて、どういう理由で何を調べたいのかってこと。そもそも、どんな流れで中東へ行くことになったの? 戻ってきた経緯は? 今は、どこに身を寄せているの?」


 矢継ぎ早にぶつけられる質問に、朱堂は一言で答えた。


「言えない」


「戒斗……」


 悲しげに眉尻を下げられたが、気持ちは変わらない。


「言ったって信じない」


 きっぱりと拒絶する朱堂に、彼女はわずかにたじろいだ。

 ここまで頑なに断られるとは思っていなかったらしい。


 だが、それもすぐに持ち直し、逆に用件そのものを突っぱねてしまった。


「そういうことなら、いやよ。あなたは変わらなくても、私は違うの。三年前みたいに、わけもわからず振り回されるのはもうたくさん」


 その言葉は、朱堂にとって予測済みの答えだった。


「だからだよ」


「えッ?」


「おまえは、俺を理解できない。それは、事情を知らないからじゃない。互いに選んだものが違った……それだけの話だろ」



 すでに、信頼の問題ではなかった。

 知ったところで、失うものはあっても得られるものはない。


 互いに歩む道は別々なのだから。


 抽象的すぎる話に、女性は少しだけ眉根を寄せた。


「何故かしら。私が責められてる気がするんだけど」


「おまえの選んだものが間違いだとは言っちゃいないさ。ただ、知ったら戻れないものもある。今の生活を壊したくないなら、俺のことは詮索しない方がいい」


 取り繕うこともしない、開き直った言い訳。


 嫌なら、他を当たる。

 譲歩も妥協もしない朱堂が沈黙すると、やがて降参するような溜め息が洩れた。


「……わかったわ。理由は聞かないでおいてあげる」


「恩に着る」


 とっくに見抜いていたような朱堂の態度に、女性は口元だけで笑みを浮かべる。


 露ほどの不満も見せず、興味を覚えた表情。


 長い付き合いだからこそ、わかる。彼女の瞳は、『感謝などしてないくせに』と言いたげだった。

 掌に顎を乗せ、からかうような上目遣いで訊ねてくる。


「ひどい男。そうやって、周りの女の子を利用するの?」


「そうするだけの価値があるならな」


 朱堂は否定しなかった。

 カップに口をつけると、冷めたコーヒーがやたら苦く感じた。その不味さすら、笑いを誘う。


 利用価値のある人間。

 自分が、そう思うほどの対象がこの国にどれだけいるのか。

 誇りも信念も失い、他人の痛みにも鈍感になった連中など、何の役にも立たない。


 このまま利益優先の世界へ進むなら、日本は近い未来に破滅するだろう。


 悲しいことだ。

 地球上で唯一、生き延びることができるかもしれない民族だというのに。


 その可能性に気付きもしない人間たちに、朱堂は期待などしない。関心すら持たない。利用しようなどとは論外だった。


 いや、ひとりだけいたな。


 例外中の例外。

 一歩でも近づいたら噛み殺してやる。そんな警戒心むき出しの女子高生を思い出す。


 朱堂の胸に、高揚感めいたものが漂う。


 山猫のような彼女のことは、わりと気に入っている。

 安易に他人の言葉を鵜呑みにしない慎重さ。怪しいと感じたら一瞬たりとも気を緩めない用心深さ。ひとつ屋根の下で暮らしていても、朱堂には無防備な姿を決して見せない。


 先走って、すぐにこちらの情報を探るわけでもない。必死に敵か味方かをかぎ分けようとしている。


 満点とはいかないまでも、現時点での状況判断は優秀だった。


 それに、彼女は自分が探していた目印である。

 近くにいれば、きっと活路を見出だせるはず。


 絶対に逃がすものか。

 必ず、利用させてもらう。


 それまで、暇潰し程度に楽しませてくれればいい。


 不意に、朱堂が眉をひそめる。

 窓越しの風景に、見慣れた姿を捉えた。


 さきほどまで記憶の中にいた少女が、いかにも不機嫌そうな顔で街を歩いている。

 周りには、派手な連れが三人。とても気の合う友人たちには見えなかった。


「あの……バカ娘」


 朱堂は、小さく舌打ちする。


 予想通りの行動をしやがって。


 柚月のわずかな欠点。

 それは、頭に血がのぼりやすいタイプであることだ。


 根が単純という意味ではない。元がお人好しの性分であるため、他人の安全が脅かされると感情的になりやすい節がある。


 自分はいくら痛めつけられても平気だが、身近の人間は些細な傷でも我慢できない。


 今の柚月は、ただでさえ中途半端な距離にいる。

 虫のように涌いて出る無法者を叩き潰すにしては、無防備すぎるのだ。相手に合わせた戦い方というものを彼女は知らない。

 だから、簡単に報復を受ける。際限なく周囲の人間を巻き込んで。


 人がわざわざプライドを刺激して、警戒心を煽ってやったのに、あっさり挑発に乗りやがって。


 脇にある上着を取ると同時に、注文した紅茶が運ばれてくる。


「会計を」


 急かすようにウェイトレスに話しかけると、女性の眉が少し跳ねあがった。


「急用?」


「ああ。また連絡する」


 素早く立ち上がり、ウェイトレスから伝票を受け取る。

 その上に、手を重ねられた。


「ここはいいから、早く行きなさい」


 女性が指の隙間から伝票を抜き取る。

 その動きに一瞬だけ躊躇う朱堂だったが、すぐに口端を引きあげた。


 自信に満ちあふれた、強い笑みだった。


「悪いな」


 上着を羽織りながら、足早に店を出る。

 振り返りもしない。


 後ろ姿を見つめる切れ長の瞳が、さらに細くなる。

 ソファーに座り直すなり、ぽつりと呟く。


「前言撤回。どこか変わったわね。戒斗」


 走り去る姿が消えるまで、窓の外を見つめていた。

 やがて、女性が紅茶のカップに口をつける。そこだけ時が止まったかのような風景だった。


 店内に、静かな音楽を残して。








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