第33話
(こんな柵越しじゃなくて、ちゃんと君と喋りたいな。頼むよ)
背後から呟かれた声を、春日はそっくりそのまま口にした。
「こんな柵越しじゃなくて、ちゃんと君と喋りたいな。頼むよ」
しかし、言われた方の長谷川は真っ赤になって首を振る。
「駄目です! 無理です!」
胸元で両手を握り、涙すら浮かべている。
これでは逆効果なのでは、と春日は危惧した。
(いいだろう? もっと君のこと、知りたいんだ)
「いいだろう? もっと君のこと、知りたいんだ」
「きっと私のことを知っても、つまらないと思いますッ!」
(そんなことないよ。君の笑顔って、すごく可愛いんだから)
「そんなことないよ。君の笑顔って、すごく可愛いんだから」
「無理ったら、無理ですッ! もう止めてくださいッ!」
すこぶる嫌われてしまった。
ここまで拒絶されると、さすがに悲しくなってくるが謎の指令はまだ続く。
(そんなにビクビクしてると食べちゃうよ)
「…………」
歯が浮くどころか、全身がかゆくなりそうなセリフに耐えきれなかった春日は振り向く。
(それ、言わなきゃ駄目?)
(言って! 大丈夫、己のルックスを信じなさい! 見よ、彼女はメロメロだッ!)
怪訝な視線の先には、莉子がいた。
ふたり分の荷物を抱え、異常に鼻息が荒い。
彼女としては美形に言われたいセリフを連発していただけである。
すでに当初の目的から大きく外れているのだが、ずっと近くで見ていた生徒たちは何やら勘違いをした。
我が校のアイドル・春日が長谷川をひたすら口説き落としている。
しかも、いつも毅然としている彼女が明らかに動揺している。
もしや、誉め言葉に弱いのだろうか。
つまるところ、
(彼女を誉めちぎれば陥落できるかも?)
となれば、することは決まっている。
「長谷川さん、今日も可愛いね!」
「三つ編みも素敵!」
「メガネッ娘、最高ッ!」
「────ッ!?」
慣れない熱烈告白の嵐に、長谷川はたじろぐどころか震えあがった。
ダウン寸前にまで追い込まれ、校門の柵に手を触れる。
がくがくと震える彼女に危機感を覚えた委員たちは、当然のごとく注意して、元の調子に戻そうとした。
「何やってるんだ、長谷川!」
「委員長の意志を違える気かッ!?」
「長谷川さん、今の君は俺たちにとって自由の女神なんだッ!」
「わたしたちを解放してッ! お願いッ!」
そうして、何がなんだかわからないノリになった。
「長谷川め……何をしている」
日下部が小さく舌打ちする。
校門付近が騒がしい。
暴徒と化した生徒たちを煽ったのは、彼女だとすぐにわかった。
何を言われたのかは知らないが、普段の毅然とした態度はどこへやら。がくがくと震え、他の委員たちに叱咤されているのが、遠目にもわかる。
あれほど陣形を乱すなと説明したのに。
怪我人を出さないために、最小限の不安を感じさせる程度にすませたかった。
これ以上、生徒たちを混乱させれば、何が起こるかわからない。
日下部は嫌な予感がする。
やはり、自分の描いた絵とは違う、計算外の問題が浮上したかもしれない。その犯人は、もしかしなくても彼女に決まっている。
「ふ、副長ッ!」
「目標が来ましたッ!」
昇降口に待機させていた連絡係の委員たちが叫ぶ。
日下部は、臍を噛む思いだった。
予感は的中した。
裏門を任せていた武生が突破されたのだろう。
彼は、自分の中で最も強い切り札だった。
それを突破された意味は考えたくもない。
日下部の前に、ひとりの女子生徒が現れた。茶褐色の髪をなびかせ、瞳に強い光を灯している。
その表情は、場違いなほど無邪気に笑っていた。
一直線に校門へと走れば、日下部に行く手を塞がれた。
「止まれ、蒼衣ッ!」
「だったら、自分で止めてみせなさいよッ!」
スピードを緩めることなく、日下部へと突っ込んでいく。
差を縮められた副委員長は、拳を構えた。
即座に反応したその動きから、我流の素人拳法ではないことは見てとれる。
「!」
日下部に鋭い足刀を撃ち込まれても、柚月は避けなかった。
ぎりぎりまで足元に意識を集中させ、思いきり地面を踏み切る。
「さすがは、副委員長サマ。少しは武道の心得があるようね」
自然と笑いが零れた。
易々と突破できたら、柚月は彼らに幻滅しただろう。
むしろ、強敵であることを望んでいたような。
不思議な感覚だった。
「飛んだッ!」
「高〜ッ!」
空中で身体を捻って、高く跳躍する。
【月鎮郷】ほどではなくとも、日下部の身長を軽く越え、特設ステージ上に立つ風紀委員まで、飛び越えてしまった。
もちろん、日下部の間合いからも一気に引き離すことに成功した。
誰もが目を瞠って口を開けたまま、こちらを見つめている。
流れいく地上の様子を窺いながら、柚月は胸中で納得した。
(……なるほど)
認めたくはないが、今回だけは朱堂に感謝しよう。
彼の忠告を聞き入れたおかげで、片鱗ではあるが異世界での【力】を出せた。
どういった目的で教えてくれたのかは不明だが、現時点では最大限に利用させてもらおう。
「そ、その軽やかな身のこなし……是非、我が新体操部へッ!」
「うわッ、押すなよ!」
校門前で立ち往生している生徒たちが一層、騒ぎ出す。
思わぬ救世主が現れたことに希望を持ち始めたのだ。
それらを庇うようにして柚月は着地する。
「でも、それだけじゃ私は倒せない」
軽口混じりで強気に笑うと、校門の向こうから拍手が巻き起こった。
甲高い指笛を吹く者もいる。
それに気をよくした柚月は、戸惑う風紀委員たちに指を突きつけた。
「さぁ、私に暴れてほしくなきゃ校門を開けなさい! こんな横暴が風紀委員の職務なのッ!?」
柚月の宣戦布告に周囲の委員たちは動揺を隠せないが、ふたりだけは
表情も身体も動かさない日下部と────
「ふはははははッ!」
高らかに笑う伊集院だった。
いつの間にか、ステージから降りてこちらへ向かってくる。
体格と風貌、おまけに演劇部員並の声量で突進してくるため、かなりの迫力があった。
「さすがは蒼衣ちゃん……口が達者なだけの女子高生ではないとみたッ! だが、俺に空中戦は利かないぞッ!」
闘牛のような猛攻だが、柚月は怯まない。
「そうね」
と呟き、靴底を滑らせる。
わずかな動きだけで伊集院の突進を避け、脇をすり抜けようとする。
「けど、いつも空中に逃げるとはかぎらない……わよッ!」
振り向こうとした伊集院の背中に思いきり体当たりした。
「おおぉッ!?」
あっさりと顔面から倒れる。
伊集院が身体の向きを変える瞬間、重心が少しずれたためだった。
(やっぱり。向こうほどじゃないけど【力】も出せる……ッ!)
柚月は確かな手応えを感じる。
アメフト選手の兄を持っていて、よかったと心底思った。
以前、柾人がぼやいていたことがある。
相撲やレスリングなどの格闘技は、重心を低くすることで安定を生む。トレーニングで下半身を強化すれば、攻撃されても簡単には倒れない。
逆説的には、そこが弱点となりえる。
どんなに屈強な男でも、重力には逆らえない。鍛えれば鍛えるほど、身体への負荷は大きい。だからこそ、重心のバランスを崩せば鉄壁の防御は簡単に消失する。
ウェイトが違い過ぎるのも幸いした。
柚月の怪力でも、伊集院を転倒させるのが精一杯。
大怪我させる気は元からない。反撃ができない一瞬の隙が欲しかったのだ。
素早く伊集院の腕をねじりあげ、地面へ押しつけた。
「動かないで!」
柚月が大声を張りあげると、全員が沈黙し、動きを止めた。
「今すぐ校門を開けなさいッ!」
「止めろ。蒼衣。そんな要求を呑むと思うのか」
「あんた、それ本気で言ってんの?」
突っぱねようとした日下部に、強気な視線で睨みつける。
「わからない? 校門を封鎖するなんて暴力と一緒よ。力で押さえつければ力で反撃してもいいって、あんたたち自身が言ってるのと同じだってのに」
取り締まる側が実力行使にでれば、反発が起きるだけでなく、同じ手段で覆される恐れがある。
テロリストと鎮圧部隊との攻防と何も変わらない。意味のない泥沼試合を続け、双方とも底に沈むだけ。
ここにいる誰もが知っている事実だろうと柚月は主張する。
「昨日遅刻しなかった人たちを、今日は遅刻させる気? 秩序なんか、どこにあるの。こんな矛盾、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ!」
委員長の背に体重を乗せたまま、啖呵をきると、またもや校門の向こうから歓声がわき起こる。
正直、背後の生徒たちなど知ったことではないが、自分だけよければいいとは思っていない。気を引く手伝いをしてくれた春日や莉子もいる。
秩序や規則は、全てに平等・公平であるべきだ。
だから、柚月は言い放つ。
「こんなことする権利、誰にもないはずよ。校門を開けなさい」
最後の駄目押しだった。
その場に立つ風紀委員のほとんどが、心底ばつが悪そうに互いの顔を見合わせる。
柚月の言葉、自分がしたこと、校門の向こうにいる生徒たち。
指示に従った者だからこそ、自らの意思がどこにあるのかわからず、次の選択肢を持てない。それだけでも柚月は苛立つが、さらに追い打ちをかけたのが、日下部の態度だった。風紀委員を陰で支える彼が全ての表情を消し、自分を見つめたまま微動だにしない。
他の委員たちに答えを求められても無視している。
あるいは、わかっているからこそ口にしないのか。
意外にも、負けず嫌いなのかもしれない。
柚月は軽く鼻を鳴らした。
さすがは『朝吹の閻魔大王』。
やはり、ただのインテリではないらしい。
再び認識を改める。
往生際の悪い男だが、その根性は気に入った。理由はどうであれ、絶対に負けを認めないあたりが。
「好きなだけ、ほざくがいい……ッ」
不意に、くぐもった声が聞こえる。
地面に押しつけられた伊集院だった。
「こんな結果など認めん。俺は決して暴力に屈しないぞぉッ!」
奮起と表現するに相応しい気迫で、起きあがろうとした。
「…………」
仏頂面の柚月が、無言でギリッと腕を捻りあげる。
「日下部クン。開けてあげて」
「伊集院……」
副委員長の渋面で、勝敗は決した。




