第32話
予想に反して、裏門に人気はなかった。
車の進入禁止のチェーンもない門をこっそり覗けば、ただひとり、男子生徒だけが玄関前の石段に腰かけている。老人のように竹刀袋に包まれた杖にもたれかかりながら。
「来たか」
悠然と立ち上がり、柚月の前へ歩み寄る。
距離は十メートルほど。手にしていた竹刀袋の口紐をほどき、中から赤樫の木刀を取り出して構える。
素朴ではあるが、整った顔立ちなのだろう。何の感情も読み取れないそれは、さらに鋭い印象を与える。その顔を見るなり、柚月は舌打ちしたくなった。
(……厄介なヤツが出てきたわね)
名前は、確か武生昴琉だったか。剣道部に所属していて次期主将と噂される。実直な性格で、風紀委員として模範的な生徒だ。
「そこ通して」
「断る」
すっぱりと切り捨てる。
東雲以上に清々しい拒絶だった。
「貴様だけは通すなと副委員長に言われている」
正眼に構える姿は、現代に生きる侍のようだ。
無駄な動きどころか、寸分の隙もない。
剣道で鍛えられた証だろう。すらりとした長身は歪みのない姿勢で、堂々としている。ケンカ慣れしている柚月でさえ、その威圧感に呑まれそうになる。
以前、莉子から彼について興奮ぎみに教えられた。
武生は風紀委員会にも所属している。剣道の実力者であり、ストイックな生活態度もさることながら、真に驚くべき点は日下部と気が合うということだった。
副委員長が自分の手に余ると判断した問題児と対峙する時には、必ず武生を連れて行くという。まるで鬼の副長に尽くす斎藤一のようではないか、と親友は熱く語ってくれた。
生憎、柚月は新撰組に興味はないので、その噂が事実か確認できない。する気もない。
彼女にとって留意するべき点は、日下部たちが返り討ちに遭ったという噂を聞かないことのみに尽きる。
火のないところに煙は立たない。
指導を受けた生徒たちが増長しない事実と鑑みるに、武生の実力は侮らない方が賢明だった。その場のノリで生きている不良どもを実力行使で黙らせることができる。
柚月が改めて気を引き締めると、武生がわずかに動く。
切っ先は正面のまま身体を沈める。刺突の構えだった。
突如、柚月の背中にぞわりとした寒気が這い上がる。気がついた時には、身体を退いていた。
一秒後、目の前に木刀の先が現れる。柚月は、とっさに身体を捻って左側へ避けた。
「いッ!?」
声よりも早く武生が突っ込んでくる。さっきまで立っていた場所に、だ。
すれ違うように避けていなければ、腹に木刀が突き刺さっていただろう。横目の武生と自然がぶつかる。
「避けたか」
「あ、当たり前でしょ、馬鹿ッ!」
怒鳴ってみても武生は、わずかに眉をひそめただけだ。
大した問題だとは捉えていないらしい。その表情に、柚月はぞっとする。
恐ろしい敵だと思った。
防具を身につけていない相手に、全力で殴りかかってきたのだ。まともな神経では、到底できない芸当である。部活の剣道というより、道場で剣術を習っているのかもしれない。スポーツの試合ではなく、実戦レベルでの訓練も受けている可能性があった。
その予想は看過できない事態を示唆する。
柚月だって、【月鎮郷】に来て、すぐに人を殴れたわけではない。初めて東雲にわけもわからず連れ出され、盗賊の中に放り出された夜は興奮して寝つけなかったほどだ。
柚月が思うに人を殴るといった攻撃性は普段の生活では持ち得ないものだ。当然、身体の反応も違うし、慣れるまでには時間がかかる。
初対面に近い柚月に対して、侮らず、躊躇いのない戦い方を武生は仕掛けてきた。今までとケンカの素人とは比較にならない強い敵だ。
柚月は口元を引き結ぶ。
わずかながらも得られた情報から、日下部の意図を正確に読み取ってみた。
(何が何でも、私を通さない気ね)
こんな武生のような伏兵まで引っ張り出してきて、裏門の警備を万全に整えた。あるいは、挑発しているのかもしれない。突破できるものなら、やってみろ。どちらを攻めても苦戦を強いてみせる、と。
けれど、柚月には恐怖も焦りもなかった。
じっと前を見据える。足幅をさらに広げ、もっと腰を落とす。
武生の方も、戦意喪失しない柚月に反応することなく、木刀を構え直した。
彼も、知っているのだ。むやみに感情を露にすれば、思考や攻め手を読まれる、と。
油断できない強敵だが、柚月は冷静に情報を分析する。
(……あっちの方が早かった)
もっと強い敵と戦ったことがある。
ぐっと拳を握り、色鮮やかな真紅の衣を思い出す。同時に屈辱的な敗北も頭をかすめたが、柚月は無視した。
むしろ、全身に武者震いが走る。
あれと比べれば、スピードも威力も大したことはない。全力でぶつかれば押しきれる。そんな漠然とした予感があった。
(問題は……あれよね)
視線は、武生が手にしている木刀に集中する。拳や蹴りとは格段に違うリーチの長さ。振るう持ち主も、剣道の経験者だ。一撃でも当たれば、あっさりと決着がつくだろう。
じりじりと間合いを計り、互いに先制攻撃をかけられる最速の距離を詰める。数ミリにも満たない前進で、武生が目を見開く。
その瞬間、柚月は弾丸のように飛び出した。武生も、先ほどの攻撃を遥かに凌駕する最速の突きを放つ。木刀の先端が捉えたものは、
ショートブーツの爪先だった。
(そこだッ!)
柚月は跳躍して、木刀の先に降り立ったのだ。すぐに地面へと着地したと同時に、もう片方の足で回し蹴りを放つ。
狙いは武生の両手。
本人も瞬間的に察したようで、あっさりと木刀を手放す。
それを見た柚月は、にやりと笑った。
落ちていく柄に爪先に引っかけて、蹴りあげる。木刀は勢いよく回転しながら飛んで、遠く離れた芝生の地面に突き刺さった。
攻撃の対象は最初から武生ではなく、得物を奪うことが目的だったのだ。ずかに見せる驚きの表情を、柚月が見逃すはずはなかった。
さらに固く拳を握りしめた瞬間、
『いいことを教えてやる。攻撃時には腕や足に意識を集中させることだ』
不意に、朱堂の声が響いた。
明確な何かを考えたわけではなかった。
(試してみるか)
刹那的な直感。
柚月は、握っていた指から力を抜いた。ぎりぎりまで近付いて、全ての感覚を集中させる。
そっと両の掌を、武生の腹部へと押し当てた。
イメージするのは触れた感触ではなく、爆発的な【力】。
膨大な奔流。
「─────ッ!!」
ドンッ!
武生が吹き飛んだ。
裏庭の木に背中を打ち、地面に倒れ込む。身体を折り曲げ、触れた腹部を押さえて激しく咳き込んだ。
思いの外、きれいに決まってしまった。想像以上の威力に、柚月は我に返る。
「あ、しまった……大丈夫?」
自ら倒した敵を気遣う。
武生は玄関の壁に激突した際、全身のあちこち打ったらしい。ほんの少し顔をしかめて、肩や膝などにも手を這わす。
柚月は急に不安になった。
普段から感情の起伏が読みづらいだけに、大怪我をさせてしまったのではと考えてしまう。
「ご、ごめん。わざとじゃないのよ……」
柚月は、しどろもどろに言い訳を始めた。
やはり、最初からうまくできるわけがない。コントロールに失敗したのだ。
身体を起こし、呼吸を整える武生へと近寄る。
「怪我とかは……?」
「見くびるな。それほど柔な鍛え方はしていない」
すっぱりと否定された言葉は、柚月にとって意外なものだった。
てっきり『反則』だの『暴力』だのと悪態をつかれると思っていた。しかし、武生の瞳には燃えるような怒りは見えても、柚月に対してぶつける気はないようだ。
じっと探るように見つめてくる。
ただし、それもすぐに止めてしまう。
武生は目を閉じて、ひとつ深呼吸した。
「……俺の突きを避けたのは、おまえが初めてだ」
「えッ」
相当痛むだろうに。腹部を押さえながら、顎をしゃくって方向を示す。
校内の東側、正門のある方へと。
「完敗だ。行け」
負けを認めたその表情に、柚月は驚いた。
武生は、笑っていた。
ほんの少し、口元を緩ませる程度のものだが。
柚月にとって初めての反応だった。
今までの連中とは違う。泣いたり、恨み言を洩らしたり、酷い時には逆上してくる者もいた。
こんな風に、潔く現実を認められたことはなかった。
単に、後味が悪いだけのケンカをしてきただけなのだが。スポーツや試合といった戦いをしたことのない柚月は、理解できない反応だった。
それでも、普段との違いはすぐにわかる。
胸に残る想いに、柚月は気付く。
その瞬間、職員玄関の中からざわめく声がする。一拍後には、ぼろぼろと生徒たちが雪崩れ込んできた。
全員が風紀委員の腕章をしていて、極度に青ざめた顔をしている。
「嘘だろ……?」
「あの武生が……ッ!」
全員、何故かデジカメやスマホを手にして震えあがっている。
怖いもの見たさだったのか、一部始終を撮影しろと命令されたのか。どちらにせよ、あまり誉められた趣味ではない。
柚月の瞳が強く煌めいた。
「さぁ、次は誰が相手なの?」
バキバキと関節を鳴らして訊ねると、風紀委員の面々は後ずさる。
他に、挑戦する者はいないようだった。
うっかり忘れそうになったが、油を売っている時間はない。早く、伊集院たちの暴挙を止めなくてはならないのだ。
正門の方を見つめて駆けて行くと、風紀委員たちが騒ぎ出した。
「待て……ッ」
「ここを通すわけには……」
「────止せ」
遠くにいる武生が制止する。
風紀委員たちは彼の言葉に驚くが、同時に悟った。
木の幹に寄りかかり、動かない状態にした犯人。
自分たちでは止められるはずもない。
柚月は振り返って、対戦相手を見た。
「ナイスファイト。楽しかったわよ」
悪戯っぽく笑い、武生に最高の賛辞を送る。
迷惑行為を咎めるだけではなく、彼の強さに心からの敬意を。
武生も、微笑で返してくれた。通じたことを嬉しく思う。
先ほどまで真剣勝負をしていたはずなのに。
ほんの一瞬。
長年付き合った友達のように、近くに感じた。
走り去る柚月を、今度は誰も追いかけては来なかった。
(何だろう……この感じ)
こんなケンカは初めてだった。
障害とは思えない万能感。
傲慢でも油断からくるものでもない。
充実感のような清々しい気持ちが、胸に広がっていく。




