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第30話






 また、やってしまった。

 どうしてこう、東雲の前では醜態をさらすのか。しかも今回はかなり重症だ。押し倒された現場を宗真に見られたのだ。


 東雲だけでなく、彼とも顔を合わせづらい。


 睡眠不足と恥ずかしさで足取りも重かった。それでも、ダイニングにのろのろと顔を出すと。


「おはよう! 柚ッ!」


 エプロン姿の兄がにこやかに振り返った。

 食事の準備をしていたようだが、背中から見えるシャツには『兄の愛は、海より深い』と書かれている。


 いいよ。浅くて。

 他に愛情注ぐものをたくさん見つけて。


 毎度のことながら、いつもどこで見つけてくるのやら。そんなことを考えつつ、柚月はあくびを噛み殺した。


 蒼衣家の朝は早い。

 柾人の朝練があるためだが、柚月も付き合って早起きしている。朝が弱いので目覚ましくらいでは、確実に遅刻してしまうからだった。


 食卓には、すでに肉じゃがやエリンギとニンジンの白和え、だし巻き卵などのおかずが並ぶ。


 兄が炊事をするようになってから一度として、朝食にトーストが出たことはない。毎日、手間暇かけて温かい手作りの食事を用意してくれる。なので、この兄に感謝こそすれ、文句など言えるはずもない。空腹を刺激するいい匂いに、自然と口元が綻ぶ。


「……おはよー、お兄ちゃん」


 いつも通りの何気ない朝の挨拶。

 むしろ、寝起きの顔で見苦しかったと思う。


 それに対して兄は目を見開き、何故か手にしていたカチャカチャと茶碗を鳴らす。それが震えだと気付く頃には、逞しい腕に強く抱きしめられていた。


「ああッ、今日もなんて可愛いんだッ! 俺の天使ッ!」


「ぐぇッ!」


 柚月は、押し潰されたカエルみたいな悲鳴をあげた。


 肺が圧迫され、呼吸ができない。兄の広い肩が首の気道を塞ぐ。

 この熱烈な抱擁は、朝の通過儀礼だ。柚月に拒否権はない。やってもらった方が、バッチリ目が覚めると前向きに受け止めよう。

 柾人と一緒にいると、あの暑苦しい風紀委員長を思い出す。彼の溌剌さを好ましく感じるのは、この兄と似ているからかもしれない。などと、ぼんやりと思考する意識すら失いかける頃、トンッとスリッパの爪先が床に触れる。

 兄の肩越しに、ちらりと周囲に視線を這わせる。


「……あの人、今日もいないのね」


 ぼそりと呟く。

 リビングにもキッチンにも朱堂の姿はなかった。

 ほっと安堵したのも束の間、柾人は青ざめた表情で後方へよろける。


「柚……まさか、先輩を……?」


「ううん。それはない」


 ガクガクと震える兄の質問は、きっぱりと否定する。


 あんな不審者まる出しの危険人物、そうなる機会などあるわけがない。できれば極力、関わりたくない。そう言いたくなるのをぐっとこらえる。


 朱堂への心証がよくないことを喋れば、必然的にその経緯まで明かさなくてはならない。異世界での出来事など話せないので、朱堂へのボキャブラリーは自然と減った。


 一部の事情を伏せて、第三者に危険性を知らせるスキルなど柚月は持ち合わせていない。


 どうにかして朱堂との距離を離せないかと思案していると、兄はがっくり肩を落とした。


「なーんだ。柚が先輩と結婚してくれたら、正々堂々、公然と兄弟になれるのにぃ」


「はあぁぁぁ?」


 ちょっと拗ねた口ぶりから察するに、本気で残念がっている。

 生憎だが、そんな未来は願い下げである。意識すらしてない異性との結婚など、柚月には想像すらできない。


「止めてよ。そんな飛躍しすぎた妄想は」


 憮然とした面持ちで不快感を示すと、兄は躊躇いがちに訊ねてくる。


 ちょっと言い過ぎたと柚月は反省する。

 こんな風に上目遣いで見つめられると、大きな熊をいじめたみたいで、妙な罪悪感を覚えてしまう。


「柚は……先輩のこと嫌いか?」


「嫌いっていうか、得体の知れない人じゃない」


 口にしてみて、しっくりする。

 そう。朱堂戒斗という人物は、柚月にとって得体の知れない存在である。


 目的や身元が不明。

 異世界を渡る【彷徨者】の可能性がある。

 突然、現れて居候になった流れから、おいそれと気を許せる対象ではない。


 それをやんわり兄に伝えてみるものの、相手は苦笑するだけだった。


「まぁ、ちょっと変わった人だよな」


「ちょっとだけ?」


 眉をひそめるも、柾人はやはり曖昧に笑うだけだった。

 ごまかされている気がして、柚月も意地の悪い質問をしてしまう。


「こんなちょくちょくいなくなって、お兄ちゃんは心配じゃないの? せめて、ご飯の時くらいは帰ってくるのがマナーってもんじゃない」


 居候の身なのだから、食事の都合くらい伝えるべきではないのか。

 不在の時、どこで何をしているのか気にならないのか。


 そうぶつけてみても、兄はどこか歯切れが悪い。


「うーん。そうだなぁ……」


 もじもじとご飯をよそいがら、説明する言葉を慎重に選んでいるようだった。


「心配はするけど、男としてカッコいい生き方だと思うからなぁ。兄ちゃん、何にも言えないのヨ」


 器を受け取る柚月は、もう文句を言う気力も失った。

 じんじんと頭痛すらしてくる。


「お兄ちゃん……あの人のこと、ものすごく好きなのね」


 しみじみと感想を洩らすと、柾人が突然慌てふためいた。


「な、何で、わかったんだッ!?」


 わかるよ、そりゃ。

 頼まれもしないのにいつでもどこでも豪快な人が、そんなにちまちまドギマギしてれば気付かない方がどうかしている。


 柚月はひとつ溜め息をつくと腕組みした。


「じゃ、私が安心できるように教えてよ。お兄ちゃん、あの人のどこが好きなの」


 仁王立ちのまま訊ねてみるも、兄は指で「の」の字を書いてふてくされた。


「……カッコいいところ」


「女子高生の好きな人じゃないんだから。もっと具体的に」


 立場が逆転しているのにも気付かず、兄妹は会話を続ける。

 柾人は、視線を宙に漂わせて言葉を探し始めた。


「そうは言ってもなぁ……俺が勝手に憧れてるだけだし」


 他の人は違うかもしれないけど、と前置きして話し出す。


 兄と朱堂との出会いは、高校時代まで遡る。

 柾人が入学した当初から、朱堂は校内で圧倒的な存在感を放っていたという。


 もちろん、優等生という意味合いではない。

 彼の不自然な言動で、周囲の人間たちをひたすら困惑させるのだ。


「高校の頃からよく行方不明にはなってたけど、成績は上位だったからなぁ……問題はあっても、先生の方が指導に悩んでたって感じだった。男子とケンカしたことはあるけど大抵がいじめやカツアゲの仲裁に入ったとかだもん。怒るに怒れんよな」


 とても乱暴な噂が付きまとうが、兄の見ている場所で暴力行為に及んだことは一度もないと言い切る。


 柾人とは、たまたま話したことをきっかけに、向こうが兄の顔を覚えてくれたらしい。

 鼻の頭をかきながら、たったそれだけのことを嬉しそうに話してくれた。


「突然、ふらっと消えるのも、別に悪いことしてるわけじゃないと思うぞ。きっと先輩には学業と別の世界があるってだけだろ」


 柚月は、まず驚くしかない。

 てっきりふたりの縁は大学で生まれたものとばかり思い込んでいたのだ。

 しかも柾人は高校の時、市内でも指折りの進学校へ通っていた。その中でトップクラスの成績を保ち続けたということは、そう簡単なことではないはず。

 異世界へ召喚されながらも、こちらの生活を両立させていた。

 そう考えられる証言である。


 柚月は、慌てて首を振った。


(そんなわけ……そんなわけないじゃない!)


 もし、それが事実だとしたら驚きと羨望、わずかな嫉妬を覚える。自分は異世界はおろか、地球での生活もままならないのに。

 朱堂は飄々とふたつの世界を渡り歩いていたのだろうか。


 同じ【彷徨者】でも全く違う。

 いや、そうだとしても【月鎮郷】を襲うことは別問題である。


 突然、初対面の人間を殴りかかってきたのだ。兄の口ぶりと柚月が抱くイメージとの差が、さらに混乱を深める。


「でも……今回は、三年も行方不明だったんでしょ? 誰かを傷つけたとか事件に巻き込まれたとかじゃなくても、普通は心配しない?」


 唐突に、家族や友達が失踪したら安否を気遣う。ドラマなどにある不良の家出と違うなら、なおさらだ。

 そう指摘すると柾人が肩を竦めた。


「先輩の器はでっかいからな。いつかはそうなるとは思ってたさ」


 海外へ拠点を移しても不思議ではない。

 むやみに心配する方が、お節介だ。


 口ではそう言うものの、落とされた声のトーンから、ほんの少しの寂しさが覗く。


 初めて見る兄の反応だった。

 憧れている朱堂について行きたい気持ちがあるのだろうか。


 それとも、彼のようにはなれないことをもどかしく思っているのか。

 言葉の真意をはかりかねていると、不意に兄が「そういや」と呟く。


「いつも失踪と帰還が唐突だったなぁ。しかも、たまに植え込みに突っ込んだり、木に引っかかってたり、いきなり屋上に現れて不良とケンカになったり……」


「……むちゃくちゃ怪しい人じゃない」


 呆れたように呟いても、柾人が気を悪くした様子はなかった。あっけらかんとした口調で、いきなり反撃してくる。


「柚だって、全部をさらけ出して生きてるわけじゃないだろ。栞ちゃんや莉子ちゃんがいくら好きでも、話せないこともある。違うか?」


 問われた柚月は、何も答えられない。

 時々、兄は普段の様子とは想像もできない驚くような意見を口にする。


 鋭く尖った刃のようなシビアな現実。

 だが、それも事実の一端を含んでいると納得してしまうから、柚月は否定できない。


 沈黙する妹に、柾人は笑った。


「先輩の場合、それが普通の人とはちょっとズレてるだけさ。けど、それが間違ってる生き方だと兄ちゃんは思わない。だって、先輩の全部を知ってるわけじゃないから」


 そう言って、優しく頭を撫でてくる。

 兄の言葉に、柚月はふと気付いた。


 朱堂のことを知らない。

 それは、向こうが隠しているとはかぎらない。

 油断できないからと、自ら情報を制限してはいないか。


「さっ、難しい話は終了! 朝ご飯にしようッ!」


「…………うん」


 食事の用意を再開する柾人とは違い、柚月の思考は別の方向へ逸れていく。


 兄の言葉を別の意味に解釈したのだ。


 確かに、柚月は朱堂のことを知らない。

 だが、兄も知らない彼を知れることができれば。


 朱堂の目的や凶行を防ぐ手立てが見つかるかもしれない。








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