第27話
わずかな希望も虚しく、朱堂は蒼衣家の居候になった。
よくよく考えれば、当然の流れだったのだ。
家主である父に事情を説明し、許可を請うたのは兄の柾人なのだから。
朱堂をよく知る兄が、居候する人間がどれだけ困窮していて、どれだけ信頼に置けるか、懇切丁寧に説明したのである。
父も、兄の判断を頭ごなしに反対する人ではない。ことの一部始終を聞き終えるなり『おまえがお世話になった先輩なら、今度は恩返しをする番だよ』とか言ったらしい。
父の許しを得た途端に、柾人は狂喜乱舞。うきうきと客間に必要な支度を揃えてしまう。その嬉しそうな兄の笑顔を見た柚月は、もう何も言えなくなった。
だが、それは自分の安全が脅かされることを意味する。自分の家に、敵かもしれない男が出入りするのだ。命綱ともいえる兄は、いつでも一緒にいてくれるわけではない。大学やサークル活動などで、帰りが遅くなることもある。
学校生活のみならず、プライベートな時間まで警戒を緩められない現状は、精神的な疲労が今までとは比較にならない。
(……眠っ)
柚月はあくびを噛み殺す。
どう対処すべきか、一晩寝ずに考えたが良案は思い浮かばなかった。
翌朝、身構えたままリビングに向かうと予想に反して朱堂の姿はない。
食事の準備をしていた兄から不在であることを教えられる。行き先は知らないとぼやいていたが、特に心配した様子もない。
柚月がますます不信感を募らせると、柾人は『たまにふらりと出かける人だから』と笑ってごまかされた。
もの凄まじく怪しい。
自分と同じように【彷徨者】として召喚されていた可能性が高まるではないか。
今夜、東雲に呼び出されたら確認してみよう。
必然的に亡くなった燐姫に触れなければならないのが心苦しいが、このまま放って置けるはずもない。
というか、柚月はしたくない。
時間が惜しい。登校中の今から、端的な説明と訊き出すポイントを考えておかなければ。
(問題は、さしあたり……)
柚月が方針を固め始めた頃、鼻の先に見える校門から大声が響いてきた。
「おはよう、諸君!」
腕まくりしたシャツから、はみ出る筋肉。
動く度、別の生物のようにうねうねと蠢く。
「今日も一日、頑張ろうッ!」
ハキハキとした口調で挨拶するのは、大柄の男子生徒。エネルギッシュすぎる容貌と言動に、登校する生徒は若干引き気味だ。
柚月も顔だけは知っている。今にも千切れそうな腕章から風紀委員だろうと察しはついた。
ほぼ毎朝、他の委員を引き連れて校門前で生徒に挨拶している。女子には「キモい」と不評だが、柚月は結構いい印象を持っていた。
塾にゲームに、インターネット。
子供の夜更かしが義務とされる昨今、朝っぱらから清々しいではないか。
低血圧で朝の弱い不良たちより、よっぽどいい。誰だって、寝不足の疲れた顔で挨拶されてもモチベーションは上がらない。
彼のように朝から活発でいられるのが、真の健康というものだ。なので、柚月も元気に挨拶する。
「おはようございまーす」
「うむ、おはよう!」
今日も爽やかな挨拶だ。
元気をもらった気がして、柚月は自然と笑顔になる。
通りすぎるその表情に、大男は目を丸くした。
「ああぁぁ──ッ!」
野太い大声で叫ばれ、柚月は驚いて振り向いた。
「なんですか?」
「君は、あれだ……二年四組の蒼衣柚月ちゃんだね?」
「どれのことかは存じませんが、確かに私はそういう名前です」
律儀にからかってやっても、マイペースなだけあって動じない。固い筋肉でぴちぴちの腕章を見せつけ、強引に話を進めてくる。
「うむ。俺の名前は、伊集院猛だ。見ての通り、風紀委員長をやっている。君はどうやら日曜日の夕方に暴走族の少年たちとケンカをしたそうだね。事実かな?」
元気溌剌で直球な尋問に、柚月は苦笑した。
「さぁ……ご想像にお任せします」
説明したって信じるわけじゃないくせに。
実にひねくれた解答をしてやっても、伊集院には通じないようだった。
「君のようなか弱い女の子がケンカなんかしちゃいかん。それとも何かな?
『風紀を乱す不良どもよ、滅ぶべし!』的な崇高な志でもあるのかな?」
問われて、柚月の笑顔は固まった。
やはり、彼は嫌いになれない。
自分に対して、か弱いと言ってくれたのだ。きっと、素晴らしいスポーツマンなのだろう。
だが、口元には凶悪な笑みを浮かべる。
残念だ。彼も人並みなことしか口にしなかった。
勝手な期待をしたのは柚月の方なのに。
意趣返しとばかりに、少しからかってやることにする。
「まさか。私に、そんなご大層な志などございません。そもそも、彼らの存在そのものを否定するつもりもないですし」
「は?」
ぽかんと口を開ける委員長に、柚月は肩を竦める。
噛んで含めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「集団で勉強すれば、必ず優等生と落ちこぼれが出るんです。全ての家庭が、いつも順風満帆なわけでもないでしょう。常に居場所がないと感じて、探す人もいるでしょう。そいつらが勝手に徒党組んで、ケンカしようが、バイクをいじろうが、好きにしたらいいじゃないですか。無理矢理いい子にしてた方がストレス溜まるし、健康によくないです」
誰もが皆、充実した生活はできるわけではない。
欠けたものを埋める行為や反発する者を、どうして止められる?
それらを否定する材料を柚月はまだ見つけていない。
「でも」
一言だけ区切って、鳶色の瞳を強く煌めかせる。
「彼らはわきまえておくべきです。自分たちと周囲の人間は違うってこと。自分たちで作ったルールは、自分たちだけにしか通用しないってこと。傷つけるのも、迷惑かけるのも、自分と自分の仲間だけにするべきです。もし、無関係な他人にそれを押しつけたら私は黙っちゃいません。だって、理不尽じゃないですか」
傷を舐め合うだけなら許せるが、無関係な人間を傷つけることだけは見過ごせない。
不公平な言動を認めないだけだと主張する柚月に、伊集院は固まったままだ。雷に打たれたように動かない。
「他人に迷惑をかけない。そんな基本的な社会のルールを守らないくせに、自分たちは他人を傷つけてもいいとか勘違いする馬鹿がいる。私は、それが許せないだけです」
委員長をまっすぐに見つめ、ごく当たり前なことを平然と言ってのけた。
揺るぎなく断言した柚月に誰もが気圧される。
何より恐ろしいのは、彼女に持論を貫く実行力があること。
それだけは、周囲の生徒たちも漂う空気から感じ取ったらしい。
彼女の決めた規律を乱したら、自分たちも例外なく拳の餌食にされる。
暴力には屈しない伊集院が沈黙したことで、そう思い込んだのだ。
(……勝負あったわね)
内心で柚月が戦況をいいように解釈した矢先、
「論点をすり替えるな。蒼衣」
割って入った低い声に、周囲がざわつく。
風紀委員たちの背後から長身の男が現れる。
『朝吹の閻魔大王』・日下部の登場だった。
「俺たちは一方的な断定をしたくはない。その情報が事実がどうなのか、おまえの口から聞きたい」
事実がどうであれ、あくまで当事者の言い分を聞こうとする。
その姿から、副委員長の認識を改めた。
伊集院などより、よほど話のわかる人間だと見る。むやみやたらと生徒を疑うつもりはないらしい。
だが、それだけに柚月は辛い。彼の前では中途半端なごまかしは利かないだろう。
柚月は日下部が苦手になりつつある。東雲ほどではないが、やりにくい相手に違いはなかった。
「……それについては、私から言うべきことはないわ」
事実を話せば、栞たちを巻き込んでしまう。
大神たちと騒動を起こしたのは柚月ひとりだ。できるかぎり、全ての責任は自分だけが背負うと決めている。
今は、まだ第三者の介入を許すつもりはない。
それを空気で感じ取ったのか、言葉の真意とは別の意味を日下部は読み取った。
「それは、釈明の機会を放棄する、ということか?」
柚月は、意地悪くにんまりと笑ってみせた。
「さぁ? 私が釈明したところで無罪放免になるの?」
風紀委員たちは反論できない。彼らは、柚月の行動を咎めるだけである。
そこに、許しも理解もない。人が人を裁くように、生徒を断罪したいだけ。
おまえたちは、その手で、自分たちの意志で、何かを成しているのか。
他人の素行を批判しているだけではないのか。
取り締まる立場の者に対する痛烈な皮肉だった。
伊集院も日下部も黙りこくるが、柚月ひとりが納得するように呟く。
「けど、それを理由に私を警察に突き出すなら、仕方ありません。早く行きましょう」
すたすたと校門に向かおうとする。
あまりにも潔すぎる柚月の姿に、伊集院の太い眉がぴくりと跳ねた。
「どうしました? さっさと行きましょう」
「うぬ」
挑発するような柚月の物言いに、委員長も反応だけはする。
一筋の汗を流し、くるりと踵を返して前進。
立ち塞がるは、初代理事長の銅像。
固く、大きな掌をそっと押し当てる。
「うぬぬぬ……」
ぶるぶると震え、葛藤するように悶えること数秒。
「だぁ────ッ!!」
突然の絶叫と同時に、銅像にヒビが入った。一部始終を見ていた風紀委員たちが、青ざめて騒ぎ出す。
「うわぁぁぁッ! 委員長が、ご乱心なされた!」
「いかんッ! 購買の『ごまだれベーコンサンド』をッ! あれを食べさせれば、ひとまずおとなしくなる! お供のコーヒー牛乳も忘れるなよッ!」
「む、無理です! 人気の限定商品ですから、今、行っても買えません!」
絶叫する伊集院を遠巻きに囲い、野戦場みたいなやりとりをする。
実に、アホらしい。
「……私、もう行っていい?」
思いきり渋い顔をしている日下部に訊ねる。
彼が何も答えないことをいいことに、柚月は昇降口へと歩き出した。
「蒼衣」
先ほどまで沈黙していた副委員長の声に振り返る。
その頃には、いつもの無表情に戻っていた。
「……こんなこと、いつまでも続けられると思っているのか」
腕組みも解かず、柚月も見ない。
銅像と力比べする伊集院を眺めて問いかけてくる。
内容は、単純なようにも根の深い問題にも思えた。
ただし、柚月にとっては陳腐な問いである。
「私だって、できることならやめたいわよ」
それだけしか答えられなかった。
さっとスカートを翻し、歩き去る。
柚月だって、和を乱したいわけではない。
ただ静かに暮らしたいだけなのだ。
 




