第26話
柚月は、ある疑念が払拭できない。
【御門家】で対峙した正体不明の男。
当主である燎牙に名前を確認したこと。
異世界では怪力を使える人間はいないという東雲の証言。
それらの事実から導き出される単純な推理としては、『犯人は、自分と同じ世界の人間なのでは?』ということである。
東雲には素人の浅知恵と笑われそうな結論だが、それを裏付ける証拠はある。
自宅リビングのソファーに腰かけ、明かりにかざしたのは絹の手巾。
刺繍の施された緋色の桜。
どこかで見覚えがあると思ったら、東雲も同じものを持っていた。
同一の手巾が異世界にも存在している。その時点で、無関係とは思えない。
さらに、強引な結びつけをすると見えてくる仮説。
最近、名前を耳にする燐姫。
彼女は東雲の前任者と言っていた。治安維持の役目を負っていたという意味以外にも情報が隠されていないか。
つまり、燐姫も召喚士として【彷徨者】を郷に呼び寄せていたのではないかという疑念だ。
もし、この仮説が正しいとしたら、柚月以外にも【月鎮郷】と関わりがある人間がいるということになる。そして、燐姫が生存もしくは別の召喚士が存在するなら。
【彷徨者】を使い、当主の燎牙を狙って急襲した可能性は否定できない。
その推理で、一番確率が高い該当者は。
(あの……ホームレスのお兄さんだ)
大神との騒動で割って入った男。
この手巾の持ち主。
他にも、仲裁に入る度胸や柚月の力をごまかそうとするフォローのよさ。
普通の一般人とは思えない。ただし、相手の身元は不明だ。この手巾を返却するにしても、事情を訊くにしても、探しようがない。
むっと唇を引き結んだ柚月は、ソファーにふて寝を決め込んだ。
(……駄目だ。全然、前に進んでないじゃん)
山積みだらけの問題にうなだれた頃、玄関のドアチャイムが鳴った。
「柚〜、悪いけど、出てくれ〜! 兄ちゃん、手が離せない〜!」
「……ふぁい」
キッチンから聞こえる兄の声に、顔をクッションに埋めたまま返事する。
兄は、おそらく夕飯の片付けをしているのだろう。手巾をポケットにしまった柚月はソファーから起き上がり、玄関に向かう。
(でも、こんな時間に誰だろ?)
時間帯からして、不在の父親しか考えられないが、今は海外赴任中である。たまに予告なしに帰宅することもあるが、チャイムを鳴らすことはなかった。
柚月が首を傾げていると、急かされるように再びチャイムが鳴った。
「はーい。今、開けます。どちら様?」
サンダルをつっかけ、開けた扉から目に飛び込んだのは。
ぼろぼろのコート。
無精ひげとサングラス。
噂をすれば影。
いつぞやのホームレスだった。
「うわあぁぁぁぁッ!」
妹の色っぽくない悲鳴にも、柾人は即座に反応した。
「どうした、柚!?」
「お兄ちゃん、警察! 早く警察、呼んで!」
キッチンより駆けつけた兄に抱きつく。
ちなみに、エプロンを脱いだシャツには『いっぱい食べる妹が好き』とある。今の状況では、文句など言う暇がない。
驚きと焦りで、かなり切羽詰まった柚月。兄に危険を知らせたいのに、意味不明な単語を口走ってしまう。
「ホ、ホームレス! ヒッピー! テロリスト! じゃなくて、【月鎮郷】の敵!」
「はあ?」
兄の怪訝な反応で気付き、慌てて口をつぐんだ。
ここは【月鎮郷】ではない。
異世界での出来事を話したところで兄が適切な処置をしてくれるはずもない。
ぐっと唇を噛みしめ、自分がするべきことを考える。だが、混乱した頭では大した選択肢が浮かばなかった。
ここに東雲はいない。
実力で排除できる状況でなければ、柚月にはお手上げだ。握った拳を振り上げることもできず、屈辱に耐えていると笑声が洩れる。
「ずいぶん、懐かしい単語を知ってんな」
男の声は、やはり若い。
もしかしたら兄とそう変わらないかもしれなかった。
何より、
(……こいつ……ッ!)
柚月には、彼の『懐かしい』という単語が意味深に感じた。
まるで【月鎮郷】のことを言われているようで。
男は笑みを崩さず、サングラスを取った。
「そいつが噂の妹か……面白い反応するな」
漆黒の瞳から鋭い光が放つ。
無精ひげのおかげで濃い印象はあるものの、予想通り若い男性だった。ホームレスの素顔を見た兄は、呆けたように立ち尽くす。
「まさか……朱堂先輩!?」
「よぉ。久しぶりだな。柾人」
ふたりのやりとりに、柚月は驚愕した。
テーブルには、はまぐりの酒蒸しと小松菜と油揚げの煮浸しが置かれ、ほんのりと湯気が立つ。
他にビールが数本と、蒼衣家の食卓としては珍しい。
土鍋の蓋を開けつつ、兄が申し訳なさそうに呟く。
「すみません。残り物しかなくて」
三つ葉と卵の雑炊を取り分けて手渡す兄の態度は、ひどく恐縮していた。若干、手も震えている。物怖じしない彼にしては珍しい。
器を受け取った男は気にした風でもなく、目を細めて笑う。
「いいや。どれも立派なご馳走に見える。やっぱり、和食はいいもんだな」
感想を洩らした途端、柾人は嬉しそうにはにかんだ。
作った夕飯を手放しで誉められて嬉しかったのか。盛大に照れる兄の真横に座ったまま、柚月は招かざる客を凝視する。
斜向かいのソファーには、精悍な顔立ちの男性が座っていた。
柚月は、いまだに己の目が信じられない。
涼しげで切れ長の瞳やすっきりと通った鼻梁。
野性味のある猛禽類の鋭さを持ちながらも、ほんの少し口元を緩めただけで途端に甘い雰囲気が漂う。
髪や肌は陽に灼けて傷んでいるが、それすら魅力的に感じるバイタリティが存在する。
もはや、別人といってもいい。
とても数分前まで、ホームレスだったとは思えない風貌だった。
食事の前に兄の勧めで、風呂に入り、無精ひげを剃り落としたら、とんでもない美形が現れた。
あっさり家に招き入れ、もてなそうとしたことに難色を示す柚月だが、兄は何を思うたか親指を立てる。『先輩の素顔は、俺より男前なんだぜ!』とウィンクしたので冗談かと思った。
もちろん、柚月の警戒心は解けるどころか強まっている。
無駄に顔のいい男は信用できない(その結論に至った原因は、間違いなく東雲である)。
【月鎮郷】での襲撃者の体格を思い出す。
兄から借りた服を違和感なく着こなしている点から、同じくらいだと予想できる。ただ、スポーツや武道経験者なら誰しも持ち得る特徴だ。確証には至らない。
「三年ぶり……ですかね」
「そんくらいになるか。いまだに時間感覚が戻らなくてな」
「? 時差のことですか?」
柾人の問いに、男は笑むだけですませる。
噛み合っているようで、噛み合っていない会話に思えた。
男が何者だろうと、用心するに越したことはない。
シャツの袖を掴み、柚月は憮然とした面持ちを崩さなかった。刺すような視線に気付いたのか、男は雑炊を口に運ぶのをやめる。
「おまえさんの妹、その歳で人見知りか?」
「えッ……まぁ。というか、お兄ちゃん子なんですヨ。いつまで経っても、こうして側から離れなくて」
はにかむ兄に肩を抱き寄せられるが、そんな事実はない。
いつもなら否定するなり、押しのけたりするが、その余裕はない。隙間なく、ぴったりと抱きつく。
兄がいるかぎり、向こうも襲ってくるつもりはないようだ。味方のいないひとりきりの【月鎮郷】の時とは違う、防衛本能だった。
ぎっちり距離を詰めると、柾人の顔が満面の笑顔を閃かせた。この緊迫した状況の何がそんなに嬉しいのか、柚月にはサッパリわからない。
「大丈夫だよ、柚。この人はね、朱堂戒斗といって、お兄ちゃんの先輩なんだよ」
「………………」
できすぎている。
こんな偶然があり得るのだろうか。
柚月が作為的だと疑うのも無理はなかった。
絶対に怪しい。タイミングがよすぎる。
柾人がいるとはいえ、一秒後には即座に戦闘態勢を取れるよう、柚月は警戒を怠らない。
そんな中、ふと兄が首を傾げた。
「そういや……先輩は柚に会ったこと、ありましたっけ?」
「ああ。数日前、駅前で不良相手に……」
「わ──わ──ッ!」
柚月は大声で叫ぶなり、胸の前で腕を交差させた。
むろん、柾人の背後からである。
このシスコン兄のことだ。
暴走族とケンカしたなどと知ったら卒倒するかもしれない。
最悪、学校以外は外出禁止もあり得る。
おしおき自体はされても仕方ないが、自由に動けないとなればいざという時に栞たちを護れないかもしれない。親友たちの安全が確保されないかぎり、まだ兄に事情を知られたくなかった。
だから、話してくれるなと虫のいい懇願をする。
朱堂の方は何かを察したらしく、それ以上は話さなかった。開けたビールを口にしてごまかすと、柾人の興味は別の方へと逸れていく。
「先輩、今までどちらに行ってたんです? もしや……海外にでも?」
「なに、少し中東の方にな」
さらりとした答えに、柾人は目を丸くした。
「今、あそこは治安が悪いでしょう?」
「ああ。だから、有り金もパスポートもごっそり盗まれた。仕方ないから、日本大使館で金を借りて渡航手続きをしたはいいが、帰国して家に連絡するなり親父に勘当された。まぁ、当然だな。三年も行方不明で、電話してきたら金を貸せって言うんだから」
踏んだり蹴ったりという表現は、まさにこのことだろう。
帰る場所もなく路銀も尽きたというのに、朱堂の表情は明るい。あまりにも、あっさりと話すので他人事のように感じてしまう。
同じ境遇に柚月が巻き込まれたら、人生の終わりである。何と言葉をかければいいのかわからない。
対する柾人は能天気なもので、「えぇ〜?」と驚きながらも軽い口調で訊ねてしまう。
「それじゃ、大学はどうするんです?」
朱堂はビールをあおった。
「立て替えた路銀と納めた学費が最後の餞別だとよ。とりあえず、復学して卒論でも書くかな」
なんと、まぁ悠長な。
およそ、普通の人間が抱く感覚ではない。
行動力はあるけれど、なりゆき任せな人だと思った。
柚月の個人的な観察を終えた頃、眉をひそめた朱堂が顎を撫でる。
「問題は、寝泊まりする場所がな……借りてたマンションは親が引き払ったみたいだし」
ぽろりと当面の問題を口にする。
不思議な人だ。
一般人にとっては死活問題だろうに、彼が口にすると大して困っているようには見えない。
それと同時に、柚月の胸に不安がよぎる。この流れはまずい。
案の定、隣に座る兄がとんでもないことを言い出した。
「なら、先輩……うちに来ませんか!?」
真っ赤にして叫ぶ兄に、柚月は開いた口が塞がらない。
突飛な提案だったこともあるが、兄の醸し出す雰囲気に驚いたのだ。
いつもは頼もしい言動を貫く人が、やたらもじもじと照れている。
まるで、奥手な彼女が初めての恋人を部屋に招くような表情だった。
兄が何をそんなに緊張しているのか、柚月には理解しがたい。
当の朱堂はというと、突然の怪しい申し出に戸惑うことはなかった。少し目を丸くしたあと、口元を押さえて笑う。兄の様子に苦笑したらしい。
「そりゃ、俺はありがたいが……」
ちらりと柚月を見た。
「まずいんじゃないのか。目に入れても痛くない妹と、赤の他人がひとつ屋根の下ってのは」
「先輩は、どんな状況でも女性を大切に扱う男気があることを俺は知っていますッ!」
素早い動きで立ち上がり、叫ぶ様は軍人のようだった。
兄の意味不明な言動にも、朱堂は妙に落ち着き払って「そりゃ、光栄だな」と笑う。
転がってほしくない方向に話が転がっていく気がした柚月は、焦った。
掴んだ袖口をさらにぎゅっと強く握りしめると、兄が眉尻を下げて覗き込んでくる。
「柚は嫌か?」
うん、いや。
今すぐ、叩き出して。
とは、言えない。
思いきり怪しいが、まだ犯人と決まったわけではないのだ。本当に兄の先輩で、さっきの話が事実なら、惨い仕打ちをしてしまう。
また忙しい父に代わり、家事の一手を引き受けているのは、兄の柾人だ。面倒を見てもらっているだけの柚月が反対できるはずもない。
「私は、別に構わないけど……お父さんには断った方がいいんじゃない?」
やんわりと、第三者に決定権を預ける。
もしかしたらという淡い期待もあるし、父が了承するならば諦めるしかないという思いもあった。
そんな妹の複雑な視線にも気付かず、しばらく考え込んだ柾人は大きく頷く。
「そうだな。父さんに電話してくる!」
言うなり、ダイニングを飛び出して行った。
急にふたりきりになり、気まずい。
朱堂の方はというとビール片手に口角を引き上げた。
「柚、とか言ったな。しばらく厄介になるぜ」
「…………いえ」
名前を訂正することも、自己紹介もできずに、兄が戻ってくるのをひたすら待つ。
今、柚月が彼を警戒する理由がわかった。
おかしみを含んでいながらも、どこか値踏みするような視線だったからだ。
彼に気を許してはいけない。
柚月は、そう強く胸に刻み込んだ。




