第22話
身体が軋むような衝撃だった。
ドンッ!!
一拍おいて柚月の背中に激痛が走る。
「がは……ッ!」
呼吸が止まり、心臓が鷲掴みにされた心地だった。やがて全身に流れ込む苦痛に、四肢の感覚が途切れそうになる。頭上から、ぱらぱらと白い粉が落ちてきた。少しの間、目の焦点が合わない。
幻のような世界が広がる。
しかも、
(……なんで、避けられなかったのかな)
などと、ぼんやり考える。
全身のあちこちがぎしぎしと軋む。指先が微かに痙攣している。今まで、感じたことのない身体の反応だった。
わずかに顔をあげると、近くにいたはずの男が遠く離れた場所に立っている。そこで、自分が吹き飛ばされ、白壁に激突したことを知った。
(あー……目線や身体の動きが読めなかったんだ。あの衣のせいかな?)
またもや、他人事のように分析する。
痛みや息苦しさが、かえって思考をクリアにした。冷静な分析というより、他に感想を抱くだけの情報が得られないだけである。急速に意識を失いそうになったが、少年の震える声で我に返った。
「柚月さま!」
「……宗真ッ、来ちゃ駄目……ッ!」
かすみがかった頭を振る。残るありったけの力をかき集めて叫んだ。
早く、立ちあがらなければ。
急かされるように、がくがくと震える膝に力を入れる。もたれていた壁から、ゆっくりと身体を起こす。まだ指先が震えるが、大きな怪我はないようだった。両の拳を握り、ごまかす。
(こいつ、私と同じ……ううん、私より強い……!)
気持ちを引き締めようとして、失敗する。
目の前の敵は、今まで相手にしたことのないタイプだった。
素早さ、力、体捌き。
見たもの、受けたもの。
自分と同等か、それ以上の実力を有している。
両足が、細かく震えた。
全身を針で刺されたような感覚。それが恐怖だと、この時の柚月は気付かなかった。今すぐにでも、ここから逃げ出したい。でも、逃げ出せない。
身体が動かせないこともある。それを知った時、柚月の胸に別の感情が浮かんだ。
わずかに感じる苛立ち。
悔しさだった。
理由はわからないけれど、何故か悔しい。
相手が強いから?
簡単にあしらわれたから?
油断して、攻撃を食らったから?
どれでもあって、どれでもない気がする。あるいは、背中を見せるのが絶対にいやだから?
そんなつまらない自尊心があるのは確かだ。
(……他に、どんな理由があるっての?)
自分自身が気付いていない感情でもあるのか。余裕がないと知りつつも、柚月が探ろうとすれば。
「《四方一里 因果剥離》」
よく通る声音が大気を震わせる。呟いただけなのに、直接、耳に届いたかのようだった。
「《術者を始点に 何人たりとも 隔絶した世界への入出を禁ずる》」
聞き覚えのある言葉に、柚月は頭上を見た。
低い屋根の向こうで、四方を取り囲む光の壁が出現する。
「《結界内のあらゆる損傷を無に帰せ》」
天を突く高さの壁に閉じ込められた。その向こうは陽炎のように揺らめいている。おそらく、【御門家】の敷地内に結界を張ったのだろう。
目の前に立つ、敵を逃がさないために。そんな芸当ができる人間は、ひとりしか知らない。
声の主は、直衣姿の青年貴族。
「漣ッ!」
大声で名前を呼ぶと、端正な顔だちが歪む。悠然と歩きながらも、密かに舌打ちしてきた。
「言ってる側から……本当に、喧嘩っ早いな。この短気娘」
「ふ、不可抗力よ!」
ただの成り行きだ。
そう言い訳しても信じてもらえないのは、少しだけ悲しい。
けれど、針のむしろにくるまれていた心地がみるみる和らいだ。東雲の顔を見て、どこかホッした自分がいる。その理由は気になったが、彼がタイミングよく現れた方が不思議だった。疑問は、横に滑らせた東雲の視線で解消する。
「白夜……」
ひょいと肩に乗って来たのは九本に尾の裂けた白狐。人懐こく、柚月の頬にすり寄ってくる。
「そいつに感謝しろ。すぐ知らせてくれなければ、今頃、屈辱の敗北人生が待っていたぞ」
「さも、自分の功績かのようにッ!? めっちゃ、恩着せがましいなッ!!」
どんな状況かも忘れて柚月が怒鳴る。東雲は、いつも通り表情を変えなかった。見かねたのか興味がないのか、敵はすぐ間近に迫ってくる。
柚月たちの前までスピードを緩めることなく向かってきた。
彼が地面に拳を撃ち込む寸前、東雲の身体に抱きつく。しがみついたまま、助走をつけて強く踏み込んだ。
ゴッ!
数秒前まで、ふたりが立っていた場所が円状に深く陥没する。
柚月は目を見開く。
自分自身より破壊力のあるクレーターを見たのは初めてだった。
ぞくりと背筋が凍る。
これから、一騎打ちしなければならないと察したからだ
二、三度と地面や壁を蹴り、白塀の屋根に飛び乗る。ふわりと屋根瓦に着地した途端、東雲が崩れ落ちた。
「うッ……」
真横で低くうめいた声に驚く。膝をついた東雲が、青ざめた表情で口元を押さえている。
「ごめん。やだ、吐きそう?」
柚月は慌てて背中をさする。さっきの跳躍の上下動が原因だろう。
もちろん、東雲は高く飛んだり跳ねたりはできない。
柚月が離さなかったとはいえ、予告なしに臨場感たっぷりの絶叫マシンに乗った感覚だろう。
せっかく心配してやったのに。
東雲は不機嫌そうに柚月の手を払った。苦悶に歪む顔をそむけて、嘆くような震えた声が絞り出される。
「しょぼい胸が当たって、これ以上は耐えられない……」
「こっから蹴り落とすわよ!」
真っ赤になって柚月が怒鳴ると、毒舌召喚士は盛大に眉根を寄せた。冗談を口にする元気は残っているみたいだが、わりと繊細らしい。強がっても、顔色はいまいち冴えなかった。
「一体、何があった?」
「わかんない。あいつが、いきなり……!」
柚月も説明できない。
会話をする暇もなく、向こうが襲いかかってきたのだ。
正体不明。
目的不明。
そんな敵を東雲は青ざめた表情まま、ぼやく。
「まぁ、友好的には見えないな」
「今さら言うこと、それッ!?」
柚月から、すっとんきょうな声が出た。もう少し違う反応を見せると期待していたらしい。同時に、東雲っぽいなとも納得する。大体、彼が強敵に慌てふためく姿が想像できない。
「とにかく、まずは動きを止める。話はそれからだ」
「う、うん……」
頷いて、戸惑う。
さっきまで感じていた寒気は、どこかに消えてしまった。何が不安だったのか、馬鹿馬鹿しく思えてくる。
トンッ
背中から軽く前方へ押し出された。
「えッ」
柚月が、ころりと転げ落ちる。目をまるくさせて猫みたいに着地した。肩にいた白狐は、振り落とされないよう爪でしっかりとしがみついている。
柚月は、反射的に頭上を睨みつけた。
「なにすんのよ!」
突き落とした相手に抗議するも、東雲は素早く印を結んで次の指示を出してくる。
「そのまま抑えていろ」
相変わらず、むちゃくちゃデスね。
あんな戦闘サイボーグ、どう相手して勝てと?
恨みがましい視線を送ろうとして柚月が気付く。東雲の右手には白い包帯が巻かれている。
「……あんた、いつ怪我したの?」
わずかに顔をしかめているので傷があるのだと思った。もう片方の左手と比べると、指の位置が微妙に違う。印を結ぶのでさえ、辛いのかもしれない。
「……大丈夫なの?」
心配になって訊ねてみるものの、余計なお世話だったらしい。
「問題ない。他人の傷より、自分の心配をしたらどうだ。あんな大物は初めてだろうに。油断してると怪我どころじゃすまないぞ」
生命の保証はしないと揶揄する冷血陰陽師。柚月の沸点を軽く越え、激怒しても無理はない。
「あんた、鬼だね! 血も涙もない悪魔だね!」
「失敬な。僕は、いつだって優しい」
相棒が言い切った途端に、敵が駆け出してきた。
柚月は絶叫する。
「嘘ぉぉぉぉッ!」
異常とも思える、ありえない早さで走り寄ってきた。無様に、おろおろと後退る。
「えと……えと……えーとッ!」
迷う間にも、男は距離を詰めてくる。
とにかく、東雲を護らなければ。
ここから逃げるわけにはいかなかった。
「はぁッ!!」
ゴッ!
柚月は、全力で地面に踵を打ちつけた。石畳に深い亀裂が生じ、激しい隆起が起こる。
だが、男は怯まない。
牙のように出現した岩盤を腕で払い、さらに速度を早めて突っ込んでくる。絶対の防御陣も発泡スチロールの壁に思えた。柚月は、さらに震えあがる。
「きゃ────ッ!」
ここで何故か、女の子みたいな悲鳴が出てしまう。いや、実際に立派な女の子なのだけれど、脅えている場合じゃなかった。かといって、今までのように考えなしに殴りかかっても無意味だろう。何か、策を練らないと不意すらつけない。
時間にすれば瞬きにも等しい距離。自分の腹部に触れてくる拳を歯ぎしりしながら見つめていると、
ボッ!
青白い炎が、男の腕にまとわりつく。さすがに驚いたのか、動きが少しだけ鈍った。
(…………あ)
そこからは、時間がやけにゆっくりと感じられた。スローモーションの世界で、瞳に捉えたもの。
(……白夜?)
肩にいる白狐の視線が、しっかりと男を捉えていた。




