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第90話






 全身が麻痺したように動かない。痛みも感じなかった。疲労さえも感じない。ただ身体が鉛のように重い。


 こんな感覚は初めてだ。

 何故、こんなことになったのか。ぼんやりとした意識の中で浮かぶのは、瞳に生意気な光を宿した少女。霊力も体捌きも経験値も、全てが劣っているクズ同然。そんな小娘ごときに、俺が負ける?


『私とあんた、何が違うの?』


 苦い記憶が蘇る。

 首を絞めて、火傷を負わせて、彼女の髪を掴んだ、あの時。無様に泣いて、命乞いをしてくると思った。だが、内心は腹立たしくてたまらなかった。

 こちらを睨みつけてくる小娘の顔が、記憶を掠める。もしも、あそこで柚月が唾でも吐いたら、本当に心の底から笑ってやれたのに。堂々と勝ち誇ってやったのに。


 柚月は何も捨てなかった。心も、誇りも。東雲でさえも。夏宮を前にしても、自分が大切にしているもの全てを護り通した。あの状況で敵を侮辱すれば、柚月は報復を望んだことになる。一瞬でも自分を取り巻くもの全てを忘れて夏宮を憎んだなら、心おきなく踏みにじれた。


 所詮、おまえもその程度なんだよ。誰だって自分の身が一番可愛いもんな?


 そう笑って、彼女が護ってきたものを自身の手で潰させるつもりだった。だが、柚月は『それ』をしなかった。いたぶられ、嬲られ、力尽きて倒れても、自分が護ってきたものたちに泥をかける真似はしなかった。

 夏宮は胸中で歯ぎしりをする。


 さっさと堕ちてしまえばいいものを。

 絶望に涙しながらも、他人を責めない。憎まない。何度、傷つけられても、世界を呪ったりはしない。

 掌からこぼれ落ちたものに涙しても、最後は必ず戦うことを選ぶ。


 だから、柚月は嫌いだった。似ている瞳を知っていたから。


 柚月の挑むような瞳が、燐の瞳とすり替わった。






 単なる気まぐれだった。

 あの女と朱堂と、三人。少しだけ刺激的だったから、付き合ってやっただけ。


 その先の展望もない。

 根拠もなしに、いつまでもずっと続くと思っていた。もちろん、そんな漠然とした希望はすぐに失われる。双方の当主候補が死亡した時点で、内乱が激しさを増していく。


 夏宮には、微かな予感があった。彼女は、きっと朱堂を選ぶ。互いに満更でもない様子なのは知っていた。皮肉屋の燐が上機嫌に笑うのは、朱堂の前だけだ。朱堂も、ごく自然に燐を想うようになる。その好意を彼女が受け入れるのも時間の問題だとも踏んでいた。


 案の定、内乱を止められないと知った時、燐は強引に朱堂を地球に戻した。彼の意見も訊かず、自分の一存で。柄にもなく慈悲心でも湧いたらしい。二度と会えなくてもいい。朱堂には生きてほしいと願ったのだ。それでいて、夏宮には『死ね』と言ってきた。許せなかった。無性に腹が立った。今まで募らせてきた憎しみが、ここで爆発する。

 だから、彼女を殺した。

 理由なんて、それで充分。怒りと激情に任せて燐の胸を刺し貫いた。衝撃と感触は覚えていても、彼女の表情を思い出せない。苦痛と屈辱に歪む最期の時を忘れてしまった。それだけの存在だったと受け入れて、終わるはずだった。


 なのに、憎しみが消えない。燐を殺しても終わらない。終わらせてなるものか。彼女にまつわるもの全てを消し去ってやる。否定してやる。


 夏宮の気が晴れるまで。何を犠牲にしてでも。

 例え、募る憎しみで彼女自身を忘れても。







 朱堂に引っ張られる形で、クレーターの底から這い出る。

 柚月は脱出した直後に座り込んだ。もう一歩も動けない。大きな怪我はないが、あちこち擦り傷だからけで全身が怠くて重い。山登りでもした後のようだった。今日は、もう何もできない。いや、したくない。全身が疲労を訴えてきた。


 ひとつ溜め息が洩れた瞬間だった。


「小娘が……ッ」


 低く唸る声なのに、はっきりと耳に届いた。

 柚月の全身が総毛立つ。


「よくも、クズの分際で……」


 陥没した地面の底から、風が這い上がってくるようだった。熱気を含んだ紅蓮の火の粉。目にした瞬間に鳥肌が立った。


 これは彼の怒気だ。

 背筋に冷たいものが走る。這いずる霊気は勢いを増して、膨れ上がる。


「化け物か、こいつ」


 頭上から朱堂の舌打ちが聞こえてきた。

 とっさに見た彼の表情でわかる。柚月は手加減をしなかったし、確実に夏宮の動きを封じた。全力でぶつかって傾けた結果。余裕もない油断もない、それだけに動くことすらできないと思い込んでいた。朱堂の目から見ても限界だと判断したのに。


 夏宮がいまだに意識を保っていたことに戦慄する。


(……ううん。そうじゃない。動けないから『別の何か』を使ってる)


 茫然と見つめていた柚月が気付いた。

 いくら、夏宮が恵まれた身体能力を保持していても必ず限界はある。朱堂が読み違えた可能性もあるが、別の可能性もあった。とっくに力は底ついた。だから、別のものを削っているのではないか。それも生命のような『替えの利かない』特別な力を。

 思い至った瞬間、柚月はぞっとした。


(……こいつッ!)


 今、夏宮という男の強さと怖さが理解できた気がする。

 圧倒的な身体能力を有し、倫理観が破綻している思考回路など、比較にもならない。自分自身の生命を縮めても、決して折れない。選択を貫き通す、凄まじいまでの執念。


 いけない。

 今度こそ、絶対に止めなければ。

 柚月は立ち上がろうとして失敗する。両足がおかしい。がくがくと震えて動けない。


(……もう……力が……ッ!!)


 最後の一滴まで使い果たした。それでも、立ち上がって拳を握る。

 彼を止めなければ――――


「《四方一尺 因果剥離》」


 直接、頭の中に響くような透き通った声音がした。


「《破呪 始結(しゆ)解放》」


 端的な言霊が、一瞬にして流れを変える。

 抑揚のない低い声音とは裏腹に、爆発のように膨れ上がる気配。誰の霊気かは、すぐにわかった。


「《禁呪縛 対象【紅の獅子】》」


 見れば、片膝をついた東雲が両者の間に入る位置で、術を展開している。

 夏宮の目が驚愕に見開く。白銀の光は、彼に向かって伸びている。


「この術式は────ッ?」


「そう。これが燐姫の答えです」


 続きを引き継ぐ形で東雲の声音が割って入る。

 夏宮の身体に巻きついているのは、水晶の数珠だった。それだけで、現在の状況を察する。


「あの女……ッ!」


「彼女を理解できないなら、これからの生涯をかけて考えればいい。時間は、たっぷり残っているでしょ」


 素早く印を結びながら、東雲は語る。

 燐姫から譲り受けた術。それを彼に対して使用する意味。前もって、彼女が備えて準備しておいたもの。東雲の手に渡ったことで疑いようがない。


 燐姫の意志を。

 夏宮を想う気持ちを。


 白銀の粒子を纏った東雲が袖を振る。夏宮めがけ、ぴたりと指さす。


「《紅蓮の炎 闇の深淵に沈め》」


 それが何の術であるかを察し、夏宮の表情が一変する。当然、東雲は冷淡に言霊を紡ぐ。


「止め……」


「――――《発動》」


 ドンッ!!

 真上から落下してくるような衝撃に襲われる。

 強烈な白銀の光に目を開けていられない。

 地面に伏せて、突風のような霊力の塊に耐える。砂埃を巻き上げて呼吸すら奪われた。きつくまぶたを閉じること、十数秒。徐々に風の威力が弱まっていくことに気付く。


 何も感じなくなった頃、柚月が恐々と目を開けると、眼前に白銀の粒子が輝く。顔を上げるれば視界一面、粉雪のように降り注いでいた。幻想的な風景に茫然としていると、


「おいおい……死んでんじゃないだろうな」


 朱堂の声に、ハッとなる。

 倒れたままの夏宮はぴくりとも動かない。柚月の全身から血の気が引いていく。もしかしたら、万が一のこともある。手加減などできない全力の応戦で、生命に関わる怪我をさせてしまったら。坂を下るようにして、夏宮に歩み寄る。下を覗き込む柚月と目が合うと、生きてると目線で合図した。

 ほっと安堵するのも束の間、見上げる朱堂がじろりと睨んでくる。


「漣。なんか、拘束するもん寄越せ」


 こちらを見て当然のごとく要求する。気付けば、東雲が隣に立っていた。

 彼も特に文句をつけるわけでもなく、あちこち汚れた袖を振る。きれいな放物線を描いて、朱堂の手に収まったものは思ったよりも小さい。おそらく、縄のような拘束ではなく、勾玉のような霊具の類だろう。治療するにしろ、拘禁するにしろ、今までのように暴れられては困る。動けなくなったところで、霊力を封じる処置を施すのだろう。朱堂は、再び夏宮に向き直り、彼を担ぐ姿が見える。

 そこで、自分の役目が終わったことを実感できた。柚月は、へなへなとその場に座り込む。


「や、やった……」


 全身に力が入らない。動かそうと思っても、震えて感覚が麻痺してしまう。緊張が解けて、腰が抜けることもあるんだろうか。

 よっぽど身体に無茶をさせすぎたようだ。我が身に起きたことをようやく感じ取れて呆然とする。そこへ、いきなり白銀の光が胸に飛び込んできた。


「白夜」


 九つの尾を目一杯揺らして、頬を擦りつけてくる。そこで、視界が滲んだ。鼻の奥にも感じる痛みをこらえる。


「ごめん……ありがとう」


 おずおずと謝ってみたものの、白夜の反応は変わらなかった。今まで何かを堪えていたのか、キュンキュンと鳴いて胸に顔を埋めてくる。どうやら迷惑をかけられたとは思っていないらしい。怪我の具合も心配だったけれど、これだけ元気なら大丈夫かな。ひとつ溜め息をついて、柚月は立ち上がろうと思っても無理だった。


 てか、立つってどうやるんだっけ。

 白夜を肩に乗せてやれば、ふっと目の前が暗くなる。視線を落とした地面には、人の形の影ができていた。


「やい、この流血娘」


 皮肉げな声音が頭上から降ってきた。

 柚月が視線をあげると、陽の光を背負った召喚士が間近にいる。その表情は、とことん意地の悪い笑みを浮かべていた。


 見惚れる暇もない。




「そんなに生傷つくって、満足か」


「しょ、しょうがないじゃんか。無我夢中で……」


 久々の悪口が懐かしい。

 のろのろと言い訳をしていると、東雲が手を差し出してきた。いつもなら、ひとりで立ち上がっていたけれど。柚月はゆるゆると腕をのばす。白夜が右肩に移動してきた。指先が触れると、掌で強く握り込まれた。ゆっくり引っ張って立たせてくれたのに、柚月の足がふらついてバランスを崩してしまう。


「あッ……」


 投げ出されるような浮遊感を覚えるより先に、優しく抱き留められた。東雲の胸に両手と頬を押しつける形で倒れ込む。

 すぐに体勢を立て直そうとしても、背中に腕を回され身体を離すことができない。


「漣……?」


 柚月が顔をあげると、真剣な眼差しにぶつかる。

 視線を逸らせずにいると、近付いてきた唇がそっと重なった。わずかに身じろぎすれば、背中を抱く腕が強く締めつけてくる。驚きと息苦しさで、薄く開いた唇から吐息がこぼれた。

 けれど、そんな少しの隙間さえ、東雲は許してくれない。角度を変えて唇を塞ぎ、深く繋がりを求めてきた。上を向かされ、絡みついた舌を吸われる度に、身体の芯が甘く痺れる。

 頭の中は、とっくに熱に侵されていた。柚月は何も考えられず、目を閉じる。疲れ切った身体は、だるさも忘れて熱い熱に支配される。

 甘い疼きを持て余す。このもどかしさをどうにかしたくて、柚月は無心になって東雲に応える。出口が見えないのに不安はない。時が過ぎるほど、彼の存在を間近に感じるようで。初めての感覚に戸惑いつつも、拒絶なんて柚月にはできなかった。呼吸も熱も食らい尽くされるような口づけから解放されたあと。

 額を寄せて、互いに目を伏せる。言葉も視線も不要だった。今は、この温もりだけを感じていたい。東雲の背中に手を回せば、こめかみに優しく口づけを落とされる。夢のような心地よさに、抜け出せない。再び、目を閉じて身体を預けていると、



「ありがとう」



 優しい言葉を残して、手を離された。

 ほんの少しの寂しさに手をのばしても、開けた視界の先は光に包まれて。


 ふわりとアスファルトの地面に降り立つ。

 あったはずの傷は全て消えていた。少し疲労は残るものの、身体のだるさもない。ぼーっと地面についたつま先を見つめること、数秒後。


「柚!」


「蒼衣さん!」


 春日と長谷川が血相を変えて、校舎裏から飛び出してきた。

 反対方向からは日下部と伊集院まで。皆が、驚いた顔で駆け寄ってくる。


「なんて無茶を……怪我は!?」


「大丈夫ですか!?」


 問い詰めてくるふたりにも、柚月の反応はどこか鈍い。


 それもそのはず。

 胸の中は、ふわふわと夢見心地のまま。


「うん……大丈夫」


 熱に浮かされたまま、惚けたように。




「だいじょうぶ……」




 それだけを繰り返した。











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