君とホットケーキ
その日はとても静かな朝だなって思った。
日曜日だったし、わたしの住むアパートの人たちはほとんど社会人。だから、朝の六時に起きてもいつもと違って静か。
十一月の肌寒い空気でも、わたしの眠気を一気に覚ましてくれない。よく眠れなかった朝はいつもそうだ。
それでも、今日は遅刻する訳にはいかない。
わたしはキッチンに立って、フライパンを用意した。
彼を起こさないように慎重に。出来るだけ音を立てないように、ゆっくりと冷蔵庫を開けた。
彼、晴斗先輩に用意する朝食。これが最後になるかもしれない。
だから、わたしは自分が好きなホットケーキを作ることにした。
本当なら、晴斗先輩の好きなものを作るんだろうけど。わたしは、媚を売ってまで好かれようなんて思わない。何か違う気がするから。
そんなことをするわたしは、本当のわたしじゃないと思う。
だから晴斗先輩が初めて褒めてくれたホットケーキにした。
「よし……」
焼く時にいつも思う。どうして一枚目って、うまくいかないのかって。
フライパンが熱すぎるとか、ホットプレートがいいとか、そういった情報は知っている。
知っているからと言って上手く焼けるとは限らない。
ホットプレートなんて用意するのが面倒だし、場所を取るし、洗うのが大変。
だからいつもフライパン。
わたしはゆっくりとお玉で生地を掬いあげた。
綺麗なフライパンに投入される生地。とろんとちょっぴり粘り気のある生地は、上から一直線にフライパンに抱きつくように落ちる。
不思議とまるく広がったそれは、じっくり時を待つ。この待っている時間、わたしは嫌いじゃない。
でも、今日は待つことが苦痛。いろいろ思い出してしまうから。
「ふう」
白い息が自然と吐き出されて、ため息が出たことに驚いた。悩んでいるんだって証明しているみたいで、わたしは好きじゃない。
『お前、おれのなんなの?』
晴斗先輩にそう言われたのは昨日のこと。
高校、大学、社会人と、状況が変わっても付き合い続けてきた。それはお互いに好きだと思っていたから。
そう思っていたのはわたしだけ?
『どうしても、駄目ですか?』
何回も何回も告白して、一つ上の晴斗先輩が高校を卒業するその日にやっと恋人になれた。
それからいろいろあったが、ずっと付き合い続けてきた。
『歩美』
そう優しくわたしを呼ぶ声が好き。ちゃんと見ていてくれてるような気がするから。
水族館にも、動物園にも、遊園地にも行った。
映画なんて、どれだけ観たかわからない。
好きな美術館の庭でお弁当を広げたり、夏祭りにも、イルミネーションも見たりして……。
そっか。もう、イルミネーションの時期になるんだね。
幸せだった日を思い出すと泣けてくる。何か、涙脆くなったかもしれない。
わたしは二十三歳になっていて、社会人としての第一歩を踏み出したところ。
先に歩き出している晴斗先輩にはまだまだかなわないけど。努力しようと毎日、必死だ。
仕事も大変だけど、わたしの希望で晴斗先輩と同棲を始めていた。
『歩美がしたいなら、するよ』
投げやりな言葉に聞こえるけれど、それが晴斗先輩の優しさだって知ってる。
でも、何でだろう。すごく寂しく感じた。
幸せいっぱいの時の言葉も、ケンカの末に吐き出された言葉も、変わらない気がして。
よくわからない、もやもやした感情がわたしを責める。
「なんなのって……」
それってもう、別れたいってことだよね。
もう一緒にいたくないってことだよね。
プツプツと生地に穴が見え始めて、ホットケーキを返しながら、またため息が出てしまった。
「ほら、失敗」
ムラのある焼け方に、今日三度目のため息が零れた。
「……どうしてかな」
晴斗先輩が寝ているであろう部屋を見たら、涙が溢れてきた。
涙がフライパンの中に落ちて、ジュワって音をたてた。
すぐに消えちゃう涙。すごくあっけなくて、急に寂しくなる。
「なんで、失敗しちゃうんだろう」
お皿にのせたホットケーキは、まだら模様。
一枚目は必ず失敗。そんなこと、わかってた。わかっていたはずなんだ。
わたしは構わず二枚目を焼くことにした。
* * *
「お疲れ様でした」
「あなた、しっかりしてよ? もうトラブルはごめんだからね!」
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
「言葉だけじゃなく態度で示して欲しいわ」
「……はい。本当にすみませんでした!」
結局、作ったホットケーキはあまり食べられず、そのまま休日出勤。
いつもと変わらず、わたしは先輩に怒られる。
今日何度目の謝罪かわからない。
入社してから、何度も失敗を繰り返していた。
わたしは薄々、感じていた。この仕事に向いていないんじゃないかって。
でも辞める勇気もなく、ダラダラと続けてきた。
ただ何となく会社に行って、社会人としての心構えも何もなくて、だからまた失敗してしまった。
同僚や先輩にまで休日出勤させてしまって、本当に何をしてるんだろう。
「……すみませんでした……っ」
顔を上げると誰もいなかった。静かなオフィスに残されて、わたしは頭を下げ続けていたのに。
誰も、優しい言葉などかけてくれない。
そりゃ、そうか。
失敗ばかりで成長もない奴のことなんて、本当なら辞めさせたいはず。
今回のことで、もしかしたら……。
「しっかりしろ、歩美!」
気づけば、いつもの癖でスマホの確認をしていた。
時刻はお昼前。日曜日が半分終わってしまった。
「……えっ」
時間よりも、わたしは履歴を見てびっくりした。
電話が五件。メールも三件。全部、晴斗先輩からのものだ。
「今更……今更、なにを話せばいいの?」
今朝、晴斗先輩が寝ている部屋のドアをこっそり開けた。晴斗先輩は寝ていて、わたしは少しだけ安心した。
『晴斗先輩、行ってきます。……バイバイ』
そう言って部屋を後にした。
本当に別れちゃいそうだから、絶対に言わないって晴斗先輩に言ったことがある。
だから「バイバイ」なんて言ったことはなかった。
『また明日ね』
という言葉を多用していた。覚えてないかもしれないけど。
メールを確認するのも怖くて、そのままバッグにスマホを入れた。
別れ話だったらどうしよう。
わかり切っていることだ。遅かれ早かれ、別れはやってくる。
わかっていても怖い。逃げだとわかっていても、今日は晴斗先輩に会いたくない。
「帰ろう」
帰ろうって、どこに?
わたし、どこに行けばいい?
もうあのアパートには帰れない。今は、帰りたくない。
いつもだったら、会えることが嬉しくて早足になるはずだった。
今日みたいな日は、ランチに行こうって誘うのに。
平日なら晩ご飯は何を作ろうかなって、考えながら会社を出るのに。
「疲れたな……」
歩くたびに、足は前に進むことを拒否しているみたいに重い。
エレベーターに乗ると、虚しさがこみ上げてくる。
泣きたくなってくる。
ホットケーキと同じだ。わたしは失敗したんだ。
初めての恋。初めての仕事。どっちも失敗。
ホットケーキの一枚目は失敗。
だったら、二枚目はうまくいくの? 最初からうまくいくことはないの?
「歩美!!」
「……え」
エレベーターを降りて、会社から一歩外に出ると、いきなり呼ばれた。
聞き慣れた声。しかも大声。周りにいた人たちが振り返って見てる。
オフィス街の通り。
わたしと同じように仕事帰りの人も、家族で歩く人も、恋人と駅に向かう人も、みんなが注目する。
「歩美!!」
また呼ばれて戸惑う。
まだお昼前。晴斗先輩は、いつもだったら家でごろごろしているはずだ。
でも、わたしの好きな紺色のマフラーを巻いているのは、紛れもなく晴斗先輩。
呼吸する度に白くなる息。走ってきたみたいで、髪は乱れてるし、呼吸も早い。
わたしは立ち止まったまま、動けなかった。
「晴斗先輩……」
帰りたくないなんて嘘。
わたしは、やっぱり晴斗先輩に会いたかった。
傍にいてほしかった。
「歩美」
動けなかったその間に、晴斗先輩はわたしの目の前に立つ。
「歩美っ」
「晴斗先輩……」
人目もはばからず、彼が抱きしめてきた。
ちょうど胸に顔を埋める形になるので、晴斗先輩の鼓動が聞こえる。
「ごめんなさい」
「なんで謝ってるの?」
晴斗先輩に言われて、訳がわからなくなってしまった。わたし、なにに謝ったんだろう。
「ホットケーキ、うまく作れなかった」
ふと思い出した朝の出来事。
一枚目どころじゃなく、みんな失敗だった。
思い出して、泣けてきて、わたしはその勢いで聞いてしまった。
「わたしと別れたい?」
「そんなこと……」
「だって昨日っ」
溢れる涙を抑えるなんて出来なくて、晴斗先輩の胸に顔を押し付けた。
「ごめん」
「あれが、本心なんでしょ?」
「違う」
「だって、晴斗先輩……っ」
どうしてか、晴斗先輩を遠ざけようとするわたし。
好きなはずなのに嫌われてると思うと、こうやって抱きしめられていることさえ違うと思えてくる。
「歩美。おれ、そんなに頼りないか?」
晴斗先輩の言葉は予想していたものと全く違って、わたしは思わず顔を上げた。
「確かにおれ、歩美より一年くらいしか上じゃない。それでも、彼氏なんだよ」
「……晴斗先輩」
「一人で悩んでる歩美見てるとイライラするんだよ。なんで、頼ってくれないのかなって」
「だって……わたし……」
「相談したってどうしようもないって、最初から諦めてさ」
確かにそうだ。
晴斗先輩とは仕事の種類から何もかもが違う。
だから、相談しても仕方ない。晴斗先輩を困らせたら駄目だって思ってた。
「仕事だって、歩美が悩んでるの知ってる」
「……晴斗先輩」
「今のままじゃ駄目だってことも」
「だから……辞めようって……」
「諦めんなよ!」
ちょっと怒ったような顔をしていた晴斗先輩が、頬を赤く染めた。
「晴斗先輩?」
「告白してくれた時みたいにさ、もっと頑張れよ」
「え?」
「諦めた顔するなよ」
優しく諭すように言われて、ただ見つめることしか出来なかった。
どこか悲しそうな顔をしていて、また涙が溢れ出した。
「何度も挑戦して、告白してくれる歩美。本当に輝いてたから。だからさ、おれ……」
晴斗先輩は横を向いてしまった。
「だから、好きになったんだよ」
今まで、晴斗先輩の言葉を聞いたことがなかった。
わたしが行きたいと言えば行く。やりたいと言えばやる。
晴斗先輩は自分の意見を言わない人だった。わたしの希望はなんでも叶えてくれた。
でも、だからこそ寂しかった。付き合っているのかさえ、わからなくなってしまった。
「おれ、歩美が好きだから。バイバイなんて言うなよ」
「ごめん……」
きっと頼ってくれなくて、晴斗先輩も寂しい想いをしていた。
同じように本心がわからなくて、わたしも寂しかった。
「ごめんな」
「わたしこそ」
付き合うって難しい。
ただ一緒にいるだけじゃなくて、ただ手を繋ぐだけじゃなくて。
キスしたり、抱きしめたり、それはまた別のことで。
お互いに支え合って、信頼し合って、頼って頼られて。それから……。
「愛してる」
気持ちを伝えなきゃ、わからない。
「おれも愛してる」
わたしは背伸びして、晴斗先輩にキスをした。
瞬間、ホットケーキの味がして笑ってしまう。
「あんな失敗作。食べてくれたの?」
「歩美が作ってくれたから」
なんとなく恥ずかしくなって、また俯いた。
「今日から始めよう」
「え?」
「ちゃんと付き合おう、歩美」
「……うん」
「それに、仕事のこともな。相談に乗る」
「うん」
すごく、すごく時間がかかったけど、やっと恋人になれた。
やっと頼れる場所を見つけた。
晴斗先輩の気持ちがわかって嬉しかった。
まだら模様なホットケーキでも、いびつなホットケーキでも、それでも甘くて美味しい。
わたしたちの恋みたいに。
「晴斗先輩、わたしと付き合ってください!」
「もちろん」
わたしは改めて、晴斗先輩にキスをした。
お読みいただきありがとうございます。
短編・長編を含め、小説家になろうで初めての完結作品となります。
普段はファンタジー中心に、しかも三人称で書いていますので、かなり作風の違うものになっていると思います。
また晴斗先輩サイドの話もあったのですが、全てカットしてしまいました。いつか、どこかで公開出来たら……と思っています。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。