サウナ室では消えないお絵かきにご用心
霧吹邸という名の要塞に戻ると、霧吹は応接室へ、葵は与えられた部屋へと無言で進む。霧吹の後ろ姿を無意識に目で追う葵は、応接室に消える姿を見ると、小さく溜息をつき自室へ戻る。
「おお、帰ってきたか」
霧吹の親父はもちろんのこと、霧吹組の組長だ。その風貌はカールラガーフェルドそっくり。そしてイケメンでも巣鴨あたりでは有名だ。この親父にこの息子。納得がいくが問題はその中身だ。
「いつ出て来た?」
葉巻をくゆらす組長に、その隣の座り心地の良いソファーにふんぞり返る息子霧吹。
「出たのはこの前だな」
「そうか698番」
「番号で呼ぶんじゃねーよ。で、なんだよ用事っつーのはよ」
「まずいことになった」
「何が」
「野兎組がはばを利かせてきた」
「潰せばいいじゃねぇか」
「修がからんでる」
まじかよと漏らし、天井に目を向けると、その天井からは丸い金の玉を持った龍の絵がこちらを見下ろしていた。
「修の野郎いつこっち出て来たんだよ」
「お前が出てくる時期に合わせたらしい」
「あのくされコロンビア野郎が」
「今ここで騒ぎになったらお前が危ねぇだろう。やっと出て来た身だからな。ここはひとつこれで話しを付けようと思う」
組長は右手の親指と中指、薬指を擦り合わせた。これは『お金』を意味する。
「あーそうかよ勝手にやれよ。俺はあいつに関わりたくねぇ」
面白くないとばかりにポケットからショートホープを出して火をつける。
「将権、俺じゃない。お前が顔を出して来い」
「は?」
咥えていたたばこを白いスーツのパンツ、股間部分に落とした。
後ろで控えていた次郎が咄嗟にタバコを拾い、その部分が燃えないようにパンパン叩いた。
「痛ぇだろうが!」
股間部分を叩かれた霧吹は、次郎の頭をひっぱたいた。
すいませんと頭を下げて下がる次郎に、例の部分が焦げていないかを確かめる。
「明日にでも用意して行って来い。今後はお前がここを背負っていくんだからな、丁度いい機会じゃねぇか。昔のわだかまりは綺麗さっぱり取って来いよ。チビの頃から一緒だったんだから、簡単な話でまとまんだろうが」
にこっと笑った組長の前歯には、全体的にダイヤモンドが埋め込まれていた。骸骨になったときにはさぞ高く売れることであろう。
葵は部屋にいてもやることがなく、電話も無いので友達にメールの一つも打つことができない。仕方なく早々にお風呂に入ってリラックスすることにした。
お風呂セットを持って無駄に長い廊下を歩く。右手に見える中庭はやはりどこかの日本庭園のようで、芸術的に刈られた植木に石畳は圧巻だ。自分がどこか老舗の高級旅館にでも泊まっている錯覚に陥るが、たまにすれ違うのは、パンチの効いた怖いお兄さんたちだ。
「姉さん、ご苦労さんです」
と言われ、「どぉも」と小声で言い、早歩きになる葵の心境は複雑だった。
丁度応接室から出て来た次郎は葵を見つけて声をかけた。
「どうしました葵さん、あ、風呂っすか?」
「あ、はい。いいですかね今?」
まだ時間も早いし、この時間は誰も使わないだろうと考えての行動だ。
「あ、だいじょぶっすよ。どうぞこちらへ」
極端に短い小指もしっかりと揃えてどうぞと手のひらを見せた次郎は、お風呂の方に葵を案内する。
「場所、分かりますよ」
と、申し訳なさげに次郎に声をかける。
「いえいえ、犬山の親父さんから預かってる大切なお嬢さんですから」
丁寧に言いながら風呂場まで案内してくれて、「それじゃ、ごゆっくり。失礼します」
次郎は電話を取り出し、誰かに電話をしながら来た道を戻って行った。
はぁ、なんかやりにくいなぁ。このシステムに慣れない葵はどう接していいのかその対応に困っていた。
「でもま、一ヶ月だもんね」
よし! と気合いを入れ、脱衣所に荷物を置いた。
でも...
着ていたワンピースを脱いで下着だけになった葵は、ふと疑問に思うことがあった。
「一ヶ月のうちに犯人が見つかったら、私はここにはいられないんだよね? ってことは、霧吹さんともお別れなわけだよねぇ」
ちょっとズキンと心が痛むものの、あんな下品な人...と、考え直すことにした。
あんな品の無い人のことがなんでこんなに気になるのか、恋愛経験の無い葵にはよく分からない問題だ。
たぶん、男の人と接するということが初めてに近いから、気になってしまうんだろう。
うん、たぶんきっとそうだ。じゃなかったらあんな変な人を好きになるわけが無い。
顔だけはいい、最低の男だ。そういう認識で行こうと葵は決意した。
「お風呂、お先にいただきまーす」
からりと引き戸を引き、適度に湿度のある風呂場に入る。そこはやはり温泉宿のようだ。いや、下町の銭湯とでも言おうか。目の前には滝が流れ、広い浴槽は何やら温泉の香りがする。サウナ室も備えられていて、しかもミスト室まである。シャワーも8台完備され、そこはどうみても『銭湯』そのものだ。
「うっわー、なんて豪華な」
体を隠していたタオルを取り、広い風呂に一人でのんびりと入浴を楽しむ。備えられているシャンプーはどこかの美容室のものだ。
「お金、かけてるんだぁ」
まじまじと眺め、使ってみるとやはりその感触は違う。
鼻歌なんぞ歌いながら肩まで湯に浸かり、汗をかいたところで一回流す。さっぱりしたところでサウナ室へ入って毛穴に詰まった汚れをぜーんぶ流して綺麗さっぱりしようとルンルンだった。
「暑いけど、気持ちいい!」
長い髪は一つにまとめ、タオルを下に敷き、汗を拭く用のタオルだけ持って、サウナ室に入った。
「よし、まずは10分から行こう」
10分を2セットして汗を流し、毛穴を開こうという魂胆だった。
それを繰り返すことによって、毛穴の汚れも落ちるし、その後、冷水で毛穴を絞めて肌を引き締めようと思って意気込んでいた葵は、サウナ室の中にかかっている音楽のおかげで、自分じゃない誰かがシャワーを使う音が聞こえなかったのが、ちょっとしたミスに繋がった。
そう、その通り。
霧吹が風呂に入ってきたわけだ。
もちろん脱衣所に葵の服があったわけだが、本人どこ吹く風。全く気にも止めずに、いつも通りにシャワーで体を流し、風呂に浸かり、もちろん行き着くところは...
サウナ室だ。ここ以外に行く場所があるはずがない。
にやりと笑う霧吹には恥ずかしさのかけらも無ければ、葵がどう思うのかすらその眼中になかった。
葵は、目を閉じて呼吸を浅く、流れ出る汗を感じていたところ、ふわ~っと冷たい風が足下に届いて目を開けた。
え?
サウナ室のドアに目をむけると腰にタオルを巻いた霧吹が、いたずらに笑いつつ葵を見ていた。
「!!!!!!!!」
あまりのことに声も出ない葵はしばらく思考回路が遮断された。
「おう、先客か」
完全にいることを知ってはいたが、一応言ってみた霧吹は躊躇することなく中へ入った。
「ちょ!」
思考回路が繋がった葵は急いでタオルで胸を隠す。
が、遅かった。霧吹きにばっちり見られていた。
信じらんない×100
言葉を失った葵は正面に座って自分の目を見続けるにやけた霧吹から目が離せなかった。
なぜなら霧吹きの体には水で流しても消えないお絵かきが体一面にほどこされていたからだ。胸から肘にかけては、カラフルな色の鯉や波のお絵かきが、芸術品のように描かれている。胸には怖い顔をした人の顔のような絵まで入っていて、鬼のようにも見えるし、はたまた般若にも見える。
釘付けになった。
やっぱヤクザ...
「ヤクザだな」
霧吹は簡単にペロった。
「犬山のおやっさんには内緒にしとけと言われたが、そうもいかねぇだろ? いずれ分かるわけだしな。でも安心しな。下手なことには巻き込まねぇよ」
膝に腕を置き、前屈みになる霧吹の腰に巻かれたタオルのその下から、ナニかがこんにちはをしそうなっている。
葵は意識的に見ないようにしたが、心臓はばっくんばっくんだ。
「だからよ、お前も俺に惚れるなよ」
なんの根拠があるのか、いきなりの発言に面食らう。
「そんなことはきっとありませんから」
顔を横に背けたが、まったく自信は無かった。
「んじゃ、先に出るからゆっくり入れや」
そう言うと、うっすら汗をかいて濡れた髪をかき上げ、立ち上がった。男を知らない葵ですらドキドキするほどのセクシーさだった。かき上げた時に腕に入る筋肉といい、六つに割れた腹筋といい、細いけど筋肉質な体はそれだけでたまらなくそそる。
サウナ室に葵を残して出て行く霧吹の背中一面には、それはそれは立派な虎さんが桜吹雪をバックに、何やら岩だかなんだかの上でポーズを決め、牙を剥きだしにして葵を威嚇していた。
「あ、そうだ」
何かを思いだしたように振り返る霧吹は、やはり無駄にもったいないくらい、いい顔をしている。
「な、なんですか」
「お前の裸だけ見たんじゃフェアじゃねーだろ? ま、残念なくらい貧相な胸だったけどな」
そう言うと、腰に巻いてたタオルを取り、
「いいです! いいです! いいですから! やめてください!」
葵は片手で胸を隠しているタオルをおさえ、もう片手で顔を覆ってその申し出を拒否した。
「あ? そうか、見ねーと後悔すんぞ」
やはり品のないことを言ってタオルを巻き直す。
照れている葵を楽しむように、がはははとがさつに笑いながらサウナ室を後にした霧吹、残された葵は静まりかえったサウナ室で、なんのためにわざわざ霧吹が入ってきたのか、貧相と言われた胸のことはさておき、この事件を理解するのにけっこうな時間を費やすことになる。
「葵さんすいませんでした」
お風呂を上がったところで次郎が葵に声をかけた。
「......いいえ」
きっと次郎はなんでも知っているんだと思うと腹立たしくも思う。
「これを」
何やらばつが悪そうに言いながら差し出したグラス。
「何これ」
次郎は白い液体の入ったグラスを葵に差し出した。
「さ、さぁ。若が葵さんに渡せと言ってましたので」
葵は白い液体の入ったグラスを受け取るって匂いをかぐと、牛乳だ。
ブチンと自分の頭の血管の切れる音を聞いた葵はその牛乳の入ったグラスを次郎に突き返した。
「けっこうですから!」
ぷりぷりしながら部屋に引き返し、勢いよく戸を閉める。
ほんっと最低な奴! あんな最低最悪な男、今までに見たことがない! 一瞬でも、あれ? ちょっといいかな? と思った自分に腹立たしくなった葵は、お風呂セットを床にドンと置くと、そのまま布団にゴロンと横になった。
こう言う場合は、さっさと寝るにかぎる。