霧吹の講義は当てにならんパート1
200人は収容できる大講堂には既に200人超えの学生が集まっていた。
ゆかりは入り口から入って来た葵を見つけると、手を振って、ここだよ! と合図し、葵も手を振り、小走りにゆかりのところへと向かう。
入り口のドアのところには、大学にはいささか不釣り合いな男二人が横柄な態度で立っていた。もちろんそれは霧吹と次郎に他ならない。後から入ってくる学生がその風貌にびびり、なんだかよく分からないが「お疲れ様です」と声をかける者もいた。
「おはよう! あんた、あたし朝からメールして電話もしてんのになんで返事しないわけ?」
第一声目は文句から始まった。
「あ、ごめんごめん今日電話家に忘れちゃって」
霧吹に自宅に置いたままにしろと言われたので、電話は家に置きっぱなしだ。もちろん友達に連絡する暇なんて与えられず、葵の都合など完全に無視されたわけだ。
「へぇ、忘れるなんて珍しいね。でもま、間に合って良かったわ。これ今日と来週の2回講義だからね」
「うん。落とすわけにはいかないしね」
「この教授厳しいって有名でしょ。見てよこの人数、4年生も混じってるってね。2年連続落ちてる人もいるみたいだから、超真剣にやんなきゃだよね。この単位が取れなくて、留年した人けっこういるみたいだし」
「だよね、てかちゃんと2年生の時に取っとくんだったなぁ」
葵は大学バッグからテキストとノート、ペンという最低限必要なものを取り出し、机に置いた。
時間ぴったりに大講堂に入ってきた教授は、薄いピンク色のスーツを着た、ブタのような...いや、小太りの大人な熟女だった。金縁めがねの奥に意地悪に光るその小さなつぶらな目は、学生いじめを楽しみにしているようにも見える。
と、その後ろから白いスーツを着た霧吹がのしのしと教授の後を着いてきた。
うっわ! なんで入ってくんのよ!
葵は体が硬直するのが分かった。手のひらにうっすら汗をかき、喉がほんの少し乾いてきた。
入り口のドアの横では、黒いスーツをしとやかに身に纏った金髪で短髪の次郎が霧吹を目で追っていた。
次郎の方がボディーガードに見える皮肉を葵はぐっとこらえた。
教授は渋い目で霧吹を見たが、上から何か言われたのだろう、そのまま自分の横に仕方なく置いておいた。霧吹は黒板の横に置かれていたパイプ椅子を1脚手に取り、教壇の真横に置き、手は相変わらずポッケに突っ込んだまま、足を組んで字のごとく、柄の悪さ満載でどっかりと座った。
ピンクのスーツの豚に似た教授は、口をあんぐりと開けたまま突っ立っていた。
輝かしい未来を思う存分に秘めた学生たちの綺麗な瞳は、暗黒にどっぷりと浸かりきっているくすんだ霧吹に注がれていた。
しーんと静まりかえった講堂は、時折響く咳の音しか聞こえない。
「みなさん、おはようございます」
とびきりの笑顔を見せて場の空気を自分色にがらりと変えた教授。
霧吹は学生の顔を片っ端から穴の空くように見ていき、不自然な輩がいないかを悠々と確認していた。その危ない風貌とそれに似合った顔の綺麗さに、数名の女学生が頬をぽっと赤らめたことなど、霧吹には分からなかった。
「えー、今日はいつもと違ったアシスタントがつきます。彼は臨時で入りますので、何かあれば彼が席を回りますから、そのときに質問等をして下さい。私の講義中は一切の私語を禁止します」
ぴしゃりと言い切った教授に、学生は神経を尖らせ背筋を正して椅子に座り直した。
教授は霧吹に挨拶をするように促し、前に出るように手を差し出された霧吹は、面倒くさそうな顔をすると、よっこらせと重い腰を上げ、
「そういうことだ」
マイクに向かい大きく頷き、椅子に座り直す。これではどっちが偉いのか、分からない。
ピンク色のスーツに負けず劣らず、教授の顔がピンク色に変化していくのを敏感に感じ取った学生は、何が始まるのかとわくわくした顔つきで二人の次の行動を待っていた。
「霧吹先生」
満面の笑みを霧吹に向けた。
あ? と、するどい目つきで教授の目を見る霧吹のセクシーな瞳に教授は一瞬クラっとした。
うずうずしだした体をこらえ、「せっかくですから、先生も一つ何か学生に話をしませんか?」
上からはまかり間違っても、この人には一切何も振るなと言われていた教授だが、この霧吹の態度には我慢ならなかったらしい。
予定と違うことをした教授にも、霧吹は動じない。
「生物学の講義ですから、何かそうですね、それにふさわしい話でも」
自分なりにできる最高の笑顔を学生に向けて、同意を求める。
教授に媚びを売るのを得意とする数人の学生が拍手でそれに答え、教授の顔色を覗った。
やめて! お願い! 拍手なんてしないで。この人に何か言わせちゃだめ! 絶対にダメ! よからぬことが起こりそうで怖い!
葵は心の中で神様にお祈りをした。
神様はそのお祈りを却下した。
「ねぇ、葵。あの霧吹ってアシスタント? けっこうかっこいい顔してない?あたし、ちょっとタイプかも」
目をキラキラ輝かせ、乙女の顔になるゆかりは黒髪を手の甲で後ろに払った。
「そそそそうかなぁ、私はあんまり。てか早く講義始めればいいのにね」
焦った。
「しっ!」
ゆかりが葵に、静かに! と唇に人指し指をつけた。
教壇に目をやると、なんと...
霧吹が立ち上がり、ふんぞり返って教授と場所を交換しているところだった。
どうぞとレディーライクに振る舞う教授に、悪魔の笑みを見せる霧吹。
ほんのり教授が照れた風に見えたけど、きっと他の学生は気付いていない。
教壇に立ち、ふんぞり返り、ぐるりと講堂の中を見回す霧吹は、なぜかそれなりの貫禄があった。
「生物学か。あぁ、そうかよ」
学生はその低くてハスキーな声にギクリとなる。ただの酒焼けと言ってしまえばそれはそれで聞こえが悪い。
「先生! 生物とはそもそもどんな定義なんでしょうか」
どこにでも一人はいる、はりきって発言する優等生ぶる学生。
発言したのは女学生だ。
そこに我も我もと便乗する媚びを売るのを得意とする学生数名は、ちらりと教授の方を覗い反応を確かめた。
教授はにこやかに頷き、その学生らをチェックし、手元のメモ帳に何か書き込んだ。
「生物の定義だと?」
霧吹はその学生を睨んだ。
「お前はどう考えるんだ?」
男は度胸とはこのことか。
大人数を目の前にしても動じない霧吹は質問を交わす術も持っていた。
「生物とは生きているものであり、生きているとは生命があるいうことであり、そして現在...」
「しゃらくせい! だまらっしゃい!」
せっかく学生が発言しているのを、いとも簡単に遮った。
豆鉄砲をくらった顔をした学生は、霧吹の次の言葉を待った。いや、待つしか他に方法は無かった。
「そんなもんじゃねーだろうが、ぉあ? 生物ってのはよ...」
教卓の両サイドに手をつき、何かを発見した子供のようにいたずらに笑う霧吹に、葵はそれはそれはとても深く嫌なものを感じた。
教授は、背筋を正し、霧吹の言葉を待った。
「生物ってのはなぁ...」
ごくりと唾を飲む学生。
神様お願いします!
と、再度頭を下げまくり、神様に、一生に一度のお願いをする葵。
神様は葵のお願いを秒殺した。
「まずはそこに押し倒ーし!××に××を××して!××を開ーき!××をどうにもこうにも激しく叱咤激励しぃぃ!
うっっっぅすぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱんっ! と体力の持つかぎり激しーく! ぅぶわっほい! あいしゃいしゃいしゃいしゃい! と上下にすばやくやれぶぁぁ! どんどんどんどんどんどんと音のシンフォニー!うるぁー! ごるぁぁぁぁ! やんのかわれごるぁぁぁぁぁ!!!!! あぁ? うううううほーーーーーぅわっふぃ(鼻から深呼吸)そしてふわっふぅぅぅここで一服だ」
タバコを吸うまねごとをする霧吹。
全学生は口をあんぐり開けて全く動かない。
葵は顔を両手で覆い、ゆかりは硬直していた。
教授は肩を落とし、めがねはずり落ち、黒板に背を預けて立っているのがやっとだった。
次郎だけは大きく頷き、拍手をする真似をしていた。
「どうよ?」
これが生物学ってぇもんだよと、どや顔の霧吹は、してやったりという顔をしていた。
放送禁止用語を言いまくり、なんとそこには振り付けまで丁寧に入れてやったのだから、それはそれはどん引きされたことだろう。
お決まりの空き缶が転げ落ちる音が講堂に響き渡る。
一瞬の静寂の後、
「帰れー!」
「変態!」
「いかさま!」
「とっとと去れー!」
「消えろ! 二度と来るなボケ!」
素敵なまでの罵声がこだましたのは言うまでもない。
霧吹は自分に投げつけられたペットボトルやペンやゴミなどを、「ぅわっぷ」と言いながら避け、素早く割り入った次郎に腕を取られ、怒り狂う学生と呆然としている教授を残し、教壇を後にした。
葵は信じられないと言った衝撃の表情だ。その顔には怒りが溢れていた。荷物を雑にバッグに入れ、「私気分悪いから帰るね」とゆかりに言う。ゆかりはこくこく頷き、力なく手を振った。荷物をひっつかんで講堂を後にする学生が大多数を占めているその中に、葵も混じり、消え去った霧吹と次郎の姿を探した。
大講堂の後ろの席に、夏なのにニット帽を目深に被った男がいることなど誰も気付かない。口元には笑みを浮かべ、片手にスマホを持ってにたにたしていた。
『葵さん、さすがに今のじゃ気分も悪くなりますよね、でも大丈夫、もうすぐ嫌なことは全て忘れさせてあげます』
メールを送信し終わると、その男も学生に混じり、静かに講堂を後にした。
葵の姿を探したが、既に講堂の中にはいなかった。どこにいるのかのだいたいの検討がつく男は、余裕の笑みで講堂を後にし、葵のいるだろう場所へと向かった。
三郎は葵の部屋でワイドショーを見ながら電話番をしていた。
そこへぶるぶるぶるぶると充電しっぱなしの葵のiPhoneが振動した。
『葵さん、さすがに今のじゃ気分も悪くなりますよね、大丈夫、もうすぐ嫌なことは全て忘れさせてあげます』
「あ? くされ坊主が。こいつか? 若が言ってたクソ生意気っぽいガキってのはよ」
眉根を寄せると、自分のシャカシャカジャージのポケットから電話を出し、『若』に電話を入れる。
「あ、若、お忙しいところ申し訳ないっす。え? 今取り込み中っすか? いやその、え? 学生にボコられそう? 何言ってんすか...は? フルボッコ手前だからちょっと待て? 勘弁してくださいよ、そんな冗談に付き合ってる場合じゃないっすよ。いやね、例の奴からメールが来たんすよ」
三郎はメールの内容を言うと、このあともメールが入るかもしれないからしっかりと電話番をしろと命じられ、仕方なくワイドショーの続きに見入ることにした。悪魔で仕方なくだ。仕方なくお昼の主婦向けの番組に魅入っていた。
「もう! 霧吹さん、なんてことしてくれたんですか! あんな、変なこと言って! みんなびっくりして固まってたじゃないですか!」
「今俺に近づくな」
冷たくあしらわれ、葵はびくりとする。
「この中に例の奴がいる」
「うそ」口元を覆う葵。
「話しかけるんじゃねーぞ。俺はその辺からどいつか探る。お前は勝手にそこらへんにでも座ってろ」
そう言うと霧吹と次郎は葵をその場に残し、何食わぬ顔をして、こっそりと隅っこの方に隠れた。
一人にされた葵はどうしていいか分からず、自動販売機前のベンチに腰を下ろしたが、この中に例の犯人がいるんだと思うと、勝手に心臓がドキドキしだした。
誰なんだろう。
ポーカーフェイスをし続けるも、心の動揺はどこかに出るものだ。せわしなく髪の毛を触ったり、足をむやみやたらに組み替えてみたり、目がきょろきょろと泳ぎまくっていた。
「おい、あいつはバカか? あんなに動揺してたら妖しいじゃねぇか」
霧吹は廊下の死角になる部分から葵とまだ見ぬ犯人に神経を集中させていた。次郎もまわりを見渡し、そういった怪しい輩がどこにいるのかに、全神経を集中させていた。
iPhoneがうっとうしく振動した。
『葵さん、具合が悪そうですけど大丈夫ですか?』
「具合が悪いのはお前の頭だな」
三郎は文句を垂れて、すぐさま若に電話をする。
「あ? 具合が悪そう? いるな。この中にいる」
しかし、今さっき自分がした変態講義のおかげで、学生がほぼ全員講堂か ら抜け出して来ているので、自動販売機の前には50人前後の学生がたむろっていた。
「クソ! これじゃ検討もつかねぇ」
電話を耳に当てながら霧吹が吐き捨てた。
『あれ? 今日は電話忘れちゃったのかな? 今日の洋服も素敵ですよ。良く似合っています』
三郎はそれを読み上げた。
「どこだ」
俺の五千万。
次郎も妖しい男を捜すが、相手は学生だ。妖しい奴なんて皆無に等しい。みんな携帯片手に何かしているので、みんなが一様に怪しくみえてしまう。
葵を見ることができる場所は...
「葵ちゃん、なんかさっきのすごかったね」
葵の元に一人の男が声をかけてきた。
見るからに体育学部の学生だが、この男はもっさいくらいにでかい頭と顔を持った、どう好意的に見ても中の下のような学生だ。白い半袖シャツからは逞しい筋肉のついた腕がのぞいていて、日焼けした顔に真っ白い歯は、青春の匂いがぷんぷん漂っていた。
「あ、うん。ねぇ、なんか、へんな人だったよね」
「どうしたの? なんか元気なくない?」
「あ、ちょっとなんか夏バテ? かなぁなんて」
「そっか、ちゃんと食べなきゃだよね。どっか食べ行く?どうせ今日の講義、もう無いだろうから」
「え? そうなの?」
「学生に肩を貸してもらいながら、教授帰ってったよ」
「だよねー、あんなん聞かされた後じゃ何もできないよね」
霧吹のどうしようもない講義のおかげで、教授は気分を崩し、『休講』とし、数名の学生を伴って職員室へと戻って行った。
「おい、次郎、あいつは誰だ? あのもっさいおと...」
霧吹の携帯が違う着信のお知らせをしてきた。
「なんだおやじか。今取り込み中なんだよ」
霧吹の顔が険しくなった。
「分かった、すぐ向かう」
かったるそうにそれだけ言うと、次郎に「帰るぞ」と言い、次郎は葵に目で合図した。 葵は何か危険な香りを感じたが、話しかけてきた男に、「ん、また今度ねありがとう」それだけ言うと、バッグを胸に抱え、先にずんずん歩いて行くガラの悪い二人を追いかけた。
リムジンに乗った霧吹は、近づきがたいほどのオーラを放っていた。一言も話さず腕を組み、眉間に皺を寄せて何かを考えているようにも見えた。
話しかけるなオーラをバリバリ全開で背中に背負っていたので、誰一人として霧吹に話しかけるものはいなかった。
さわらぬ神にたたりなしだ。