霧吹の北極な目と白パンツな葵の心
「いいですね霧吹さん、遠目から静かに見守って下さいね!」
昨夜はあのまま霧吹邸に泊まることとなった葵は今日も大学の講義がある。
そこで、早速ボディーガードの役目が回ってきたとばかりに、はりきる霧吹に念を押した。
自宅に帰っていない為昨日と同じ服なのが許せないところだが、まぁ仕方あるまい。
「おーよ、そこんとこは大丈夫だよ。犬山のおっさんにも言われてっからよ」
相変わらずの白いスーツに黒いシャツ。しかし今日はネクタイが紫色だ。その真ん中には日の丸と鶴の絵が描かれている。
お下品極まりない。
さらさらの黒い髪の毛を念入りにとかし、鏡の前で決めポーズをしている霧吹に、一抹の不安を覚えるも、遅刻するわけにはいかない。これはどうだ? とポーズを変える度に舎弟の次郎に聞く霧吹に、絶対に『かっこいいっす』しか言葉にしない次郎。
そんな二人を葵は遠目に見守る。
しかしそんなことにいつまでも付き合ってはいられない。大学バッグから電話を取り出しながら「行きましょう」と声をかける。
「おう」
やっと鏡から放れた霧吹の後ろに、チンピラスタイルの次郎も続く。
『今日はどちらから学校に来られるんですか? 自宅からじゃないですねぇ』
急に足を止め、口を覆う葵の背中に霧吹がぶつかった。その後ろに次郎もぶつかる。
「おい! なんで急に止まんだよ、危ねーだろうが。人は急に止まれないんだぞこら」
何も言わない葵に次郎がどうしたものかと声をかけるが、携帯の画面を凝視したまま動かない。
後ろから携帯をひったくる霧吹は目を細めた。画面を覗き、顔をしかめ、意味がわからないとばかりに葵に視線を戻した。
「なんだこりゃ」
「あの男です。たぶんどこかで見てるんじゃ」
「んなことあるかよ。うちは中も外も監視カメラが盛りだくさんだぞ。猫の子一匹だって見逃せねー造りになってんだから、どっかから見てるなんて間違っても無理だ」
霧吹が携帯を見たまま言った。
霧吹邸は、さながら要塞だ。
外壁は分厚いコンクリートで固められ、四方八方には監視カメラ。有刺鉄線がグルングルンに巻かれ、そこには電流すらも流している。中に入るにもいくつものゲートを突破しなければ入ることは出来ないし、いたずらにも侵入してこようとするイカサマタコサマ野郎には、容赦なく鉄拳が降り注がれるようにできている。
家の中もそうだ。いたるところにカメラがついており、一括して確認できる監視部屋も存在している。まぁ、霧吹邸と言ってもようは組事務所だ。
若い衆が盛りだくさん居て、その生活を共にし、365日監視の目をひからせているのも確かだ。そんなところに入り込める隙は、無いに等しい。
いやむしろ無い。
「若...ちょっといいっすか」
次郎が霧吹から電話を受け取り、中を手際よく調べ始めた。
「葵さん、これ、誰かに渡したり貸したりしたことあります?」
「え? いいえ。ないと思いますが」
「例えば学校でトイレ行くときとか机に置いてったりしたことは?」
「大学でですか?んー......あったかもしれないですけど,
わかりません」
「それがなんなんだよ」
霧吹が携帯を操作し続ける次郎に苛立つ。
「これですよ」
次郎は霧吹と葵に画面を見せた。
「これって...」
「そうっす、GPS」
「...スカイラインか?」
2年間ほど浦島太郎状態だった霧吹は、それが日産スカイラインじゃないという事実を飲み込むのに約2分ほどの時間がかかった。
放っておくと、スカイラインGTーR、またの名をヒツジの皮を被った狼の話に2時間ほど費やしそうな勢いだったので、次郎はさささっと流し、話を葵に戻すことにした。
あきらかにぶーたれた霧吹がそこにいたが、あえて見て見ぬ振りをした。
「てぇことは、どっかの誰かがこいつを勝手に動かしたってことか?」
「へい、そうなりますね。葵さんがなんらかの形で電話を手放した時にでも細工したんでしょうね」
解除します。と言い、GPS機能を切ろうとした次郎に待ったをかける霧吹。
「そのままにしとけ。いい考えがある」
にやりと笑う霧吹は、素晴らしくいい顔をしている。葵はそんな霧吹の笑顔にどきりとするが、すぐに視線を下に落とした。
「学校に行く前にお前の部屋に寄る」
リムジンに入り込んだ霧吹は、隣に座る葵に声をかけた。
「え?うち?」
学校って高校と勘違いしてるのかな? 大学なんだけどな。とふつうのことを思う葵だが、これまた霧吹と次郎だって、真面目だ。といったことを心の中で疑問に問う葵だが口にするのはやめた。
「まず、充電器にぶっさして置きっぱなしにしろ」
葵は言われた通りに卓上充電器に電話を乗せた。
このまま葵の電話はしばらく誰もいない自宅に置き去りにされることになり、舎弟の一人が留守番をするということで話がまとまった。
「荷物を詰めろ」
「はい?」
「スーツケースあんだろ?服やなんか、ひとまず必要なものを詰めろってんだよ」
部屋の真ん中でポケットに両手を突っ込んだまま偉そうに命令する霧吹は、葵を上から見下ろしていた。葵は腑に落ちないものがあるが、目の前にいる男が怖いので言われた通りに手際よくスーツケースに荷物を詰め込み始めた。部屋の中をうろうろする霧吹に、使いたくない無駄な神経を使いながら、大学のモノや服などを詰め込んだ。
「おっほほーい」
何語だか理解に苦しむ言語が耳に届く。
葵が嫌な予感をぷんぷんと感じながら霧吹を捉えると、葵のパンツを手に取って喜んでいた。
「ちょっと!」
ダッシュした葵は霧吹の手に握られた自分のパンツを奪取した。
「何してんですか! 人の下着で!」
小さく丸め、後ろに隠す可愛い葵の姿に、霧吹の心臓に住み着き始めた子猫が、またもかりかりと心臓をくすぐり始めた。
『いや、ダメだ。手を出すんじゃねぇ。このクソ猫が!』
と、黒い言葉で心臓の子猫に一喝すると、面白くなさそうに子猫は唾をぺっと吐いて引き返す。
「しけたパンツ履いてんなぁ、もっとこうセクシーなのはねーのか? 真っ白い普通のババパンツばっかこんなに持っててよ、黒や赤や、真ん中開いてるのなんかねーんか?」
まままままま真ん中開いてる????? どんなパンツよそれ!
「信じられない! もういいですから霧吹さんはそこらへんに座ってて下さい!うろうろされると気になって荷物片づきませからっ!」
真っ赤になった葵は霧吹をどうにかこうにかベッドに座らせ...
「なんでベッドに入るんですか!!」
勝手にベッドに入り込んだ霧吹にびっくりして後ろに隠していたパンツを落とした。
「パンツ落ちた」
めざとく見つけるのが霧吹だ。
「もー!!!」
困りはてるも、この人は自由な人なんだと考え直し、こういう場合はできるだけ早く荷物を詰めることが大事なんだと割り切り、荷物整理に専念した。
しばらくするとすーすーという寝息がどこからともなく聞こえ始めた。
え? まさかの? まさか?
葵は荷物を詰める手を止めた。
ベッドに入り込み、おとなしくなった霧吹をまさかの疑惑でゆっくり見ると...
寝てるし!!! やっぱり。
さらさらの黒い髪の毛が顔にかかっていて、鬱陶しそうに目にかかっていた。目鼻立ちのいい小さい顔は、顔だけ見ればモデルにもなれるだろうというくらい整っている。
問題はそのバカなところとそれに比例する性格だ。顔のいい男はたいがいバカだとはよくいったものだ。
この男に関して言えば、確実にその言葉は当てはまる。
葵はそーっと霧吹に近づき顔を覗き込んだ。綺麗な顔...まつげは長いし肌も綺麗、寝顔がきれいな人は本当に綺麗な人なんだ。
そして、男なのにヒゲが無い。
「しゃべらなければ、とってもいいのに、ほんとに残念」
小さい声で言い、目にかかった前髪に手を入れ、後ろに...
パシッと手首を掴まれビクッとする葵。
「しゃべったらもっといいの間違いじゃねぇのか? こら?あ?」
そのセクシーなハスキーボイスに加え、変な魅力を発する霧吹の瞳に見つめられ、目が泳ぐ葵。
ドキドキしてまともに霧吹の顔が見られない葵は、恋愛経験皆無なため、この場合、どういった態度が適切なのか、はかり知る天秤すらも持ち合わせていない。
そんなときにする行動はただひとつ。
ただただ、どぎまぎするしかなかった。
「パンツはしまったのかよ?」
葵の手首を放し、目を閉じて二度寝に入りそうになる霧吹。赤くなる葵は手を放されて若干ホッとして、気づかれないように息を吐く。
そんな葵を見て見ぬふりをしながら笑いをこらえる霧吹の目には、涙が溜まっていた。笑いをこらえている証拠だ。
「早くしねーと遅刻するぞ」
「そうだ!」
すっかり忘れていた。葵は時計をちらっと見てまだ余裕があることを確認し、今日は車で行けるからまだ大丈夫だ。と少しだけ気持ちにも余裕ができた。
スーツケースいっぱいに物を詰め込みながら、気になってちらりと霧吹を盗み見する。
...寝てる。
「一応、できました!」
ひとまず必要なものは入れたから大丈夫。2、3日分あればいいよねきっと。
「よし、じゃ行くか」
面倒くさそうにベッドから起きると、スーツケースを軽々と持ち上げた。
「あ、いいですよ! 私持ちますから」
慌てて持とうとする葵を手でいなす。
「残りはそのうち次郎に取りにこさせるから」
「残り?」
「ほとぼりが冷めたころにでもこの家の物は全部運び出す。うちの空いている部屋に投げ込んで、新しい家が決まり次第おさらばだな。まぁ、あれだ、どこぞのクソガキをとっつかまえてからだけどな」
「...2、3日くらいここに帰らないだけでいいんじゃないんですか?」
「2、3日で捕まえられりゃ俺は必要ねーって話だろうが」
「...その...2、3日分しか入れて...ないですけども」
目を見れないけど...
絶対的に上を向くのは恐いんですけれども...
北極の氷のように冷たい霧吹の目が、自分を見下ろしているのを五感でひしひしと感じる葵は、小さい体を更に小さーくして嵐が過ぎるのを待つことしかできなかった。
「アホが」
霧吹は持ち上げたスーツケースを乱雑に床に置き、激しく開けると、タンスの中とクローゼットの中の服や、その辺に置いてある小物までをもぶちこんだ。そして一番大事なパンツも忘れずに全部ぶっこんだ。パンツをしまう時にだけ笑顔になる霧吹に、もはやその素敵なお顔は必要ないから捨ててしまえと言いたくなる。
スーツケースはリムジンの後部座席に突っ込み、それと一緒に葵も突っ込み、一路大学へと歩を進める。いや、タイヤを進める。
葵は隣に座る霧吹を意識してか、少なからず緊張してしまうわけだが、これから先、葵に降りかかる恥ずかしい事件のことなど、この時の葵にはこれっぽっちも想像できなかった。
ええ、これっぽっちもね。