起きたら天井、変な奴の仕掛け
目覚ましの音で意識が戻って最初に確認したのは、嘘偽りない自宅の天井だ。葵は容赦無く飛び起きた。
「私...」
顔を両手で触り、体を確認する。掛かっていた布団をガバッとはぎ取り下半身を確認した。
問題無い。
膝小僧にバンドエイドが貼ってあるが、うちにあるようなモノじゃない。
「...誰?」
肘にも包帯が巻いてある。
「...なぜ?」
腰に鈍い痛みが走る。
ベッドの側に置いてある姿見で腰を確認すると......
「青あざ?」
車にぶつかった時にできたものであろう。
「なにこの変な匂いは」
葵は恐る恐る腰を触ると、何かを塗られたような形跡があった。スカートを下ろし、下着だけになってみた。
「肘、膝、腰にアザ」
それだけだ。意識が回復したのをいいことに昨日のことをしっかりと思い出してみる。と、その思考を遮るものを目の片隅に発見する。ベッドサイドに置かれた黄色い瓶。手にとってラベルを読む。
「...タイガーパーム...」
腰のこのすーすーするものの正体は、いやはやこれだと確信した。無意識に腰に手をやり、タイガーパームを真剣に見る。
「これって、喉に塗るやつなんじゃ...」
この件諸々について葵がよーく知ることになるのは、更にもう少しの時間が必要になるのだが、その時にiPhoneが振動した。車にはねられた時に壊したと思っていたが、しっかりと枕元で電話としてのお勤めをはたしていた。
手に取ると、『非通知』だ。やかましいくらいに大きな音でお知らせをしてくる働くiPhone。葵は仕方なしに出ることにした。
「もしもし」
「お? 出たか」
電話口からはぶっきらぼうな男の声。
「どちら様でしょうか」
「生きてるな」
「はぁ」
「無事なら何より」
それだけ言うとさっさと電話は切れた。
「生存確認?」
電話をかけてきた男は次郎だ。次郎は自分サイドの安全確保の為に、葵の生存確認をした。電話に出たということは元気な証拠だ。それを確認したらもうやることはない。言いたいことだけ言うとさっさと電話を切った。
「何今のは」
葵はしばらくの間そこに立ち尽くしていたが、今日は大事な大学の講義があるのを思い出した。時計を見るとまだ充分に時間がある。シャワーを浴びて、着替えて用意をする。シャワーの湯が擦り傷にしみて痛い。どうやって帰ってきたんだろうかと葵はシャワールームで悩むが、答えはどこにも落ちていなかった。
ワンルームのハイツは、可もなく不可もない。大学生の一人暮らしには丁度良い広さだ。
家賃は大学近くの居酒屋さんでバイトをして払っている。居酒屋のバイトには『まかない』がもれなくついてくるので一食浮く。1年生の時から続けている勝手知るバイト先でもあり、なにかと融通がきくので重宝していた。
薄いねずみ色の半袖ワンピースは胸下から切り替えされている。その境界線は黒いリボンだ。葵はテキストを大学バッグにぶち込むと、家のカギと携帯を持って家を出た。
腰が痛むがその他には異常はない。よって、普通の日常生活に支障がないと思い、医者には行かずに大学に行くという選択をした。
iPhoneの画面を見たが、真っ黒だ。
またあいつから連絡が来るのかと思うと、気分が滅入る。そもそも、なぜ私があの路地裏に逃げ込んだのが分かったのか・・・解せぬ。拳をぐっと握り、バッグに無造作にiPhoneを投げ入れた。どうせ他にくる電話も無い。せいぜい友だちからのメール程度だろう。家のカギを閉めて、小走りにバス停まで急いだ。
大学まではバスで一本だ。15分程度で着くので歩こうと思えば歩けるが、しかし、昨日のこともあり、今日はバスで行くことにした。バス停でバスを待っていると、どこかで見たような、ダックスフントのように長い黒塗りのリムジンが通過して行った。
どこかで見た気がすると思うも、そんな車に縁は無い。
気のせいか。しれっと去り行く珍しいリムジンのそのすぐ後に、普通のバスが来て、葵は一番後ろのシートに座る。
バッグの中から『代謝生理化学1』見た瞬間に投げ捨てたくなるような教科書を引っ張り出し、ぱらぱらとめくってはみたが、一気に睡魔が襲いにかかってきたので、仕方なしに教科書を閉じることにした。
教室に着くと、なんとその日は休講ときた。
なんだよ、もっと早く言えよ!と心で舌打ちするも、お顔は笑顔を保つ。どこで誰が見ているやもしれぬので、女子らしからぬ行動は、極力抑えていた。そんな時、背後に視線を感じ、素早く後ろを振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
1号館の掲示板に張り出された、『担当教授インフルエンザの為休講』の張り紙を見ているのは、葵ただ一人。他の学生はしっかりとネットで確認したので、わざわざ大学に出向く必要が無かった。機械音痴な葵は、大学の予定が大学のHPに出されるなんてつゆ知らず、このハイテクな時代に一人、時代錯誤なアナログで生活を送っていた。
iPhoneがその役目をこれみよがしに始めた。画面に表示された数字の羅列に眉を寄せ、スライドしその着信に答えた。
「電話してこないで」
「ふふ、冷たいですねぇ」
あの野郎だ。もうこれで何回目だろうか。はっきり言ってるのにまだ分かってくれない。
「昨日は追いかけっこの途中で消えてしまったから心配しました。でも夜遅くには家に帰ったんですね。良かったですよ」
「何それ」
もしかして家の場所まで知ってるとか?
「僕は葵さんの彼氏なんですから、心配しなくていいんですよ。ちゃんとなんでも知っていますからね」
「何が彼氏よ、気持ち悪い!顔も名前も知らない人のことを」
「環七 葵さん、僕はなんでもお見通しですよ。もうすぐ、あと何日かしたらあなたの前に姿を現します。それまで寂しいでしょうが、電話でのみの会話をお許しくださいね。ではそろそろ失礼します」
「ちょっと」
葵が言おうとするその前に電話は切れてしまった。とことん電話についていない。朝からかかってくる電話は、理不尽なまでにむかつく電話ばっかりだ。この野郎はいったいどこの誰なんだか、皆目検討のつかない葵は全神経を自分の周りに集中させた。教室の周りに危険人物気配探知のアンテナを伸ばしてみるが、そこに人の気配は感じない。
バッグを胸の前でぎゅっと掴み、全身に鳥肌を立てながら、足早に大学を後にした。