ヤブ医者にはお世話になっております
3丁目の『あなた野病院』は、看板がない病院だ。
つまり、ヤブ医者のもぐりと言うことだ。
そんな病院は危ないマンションの一室に構えてある。小型モニターが6台置かれ、年中無休で監視されている、そんな病院内のなんちゃって診察台に葵は寝かされていた。
その脇には虎と龍の絵の描かれた金屏風が不釣り合いに配置され、その裏にはパイプ椅子が二つ。
白い召し物を召した男二人が、開脚のように股を広げて座っている。
一人は白衣の初老のおやじ。バーコードヘアーにグレーの色が入っためがね。にこやかに笑う左側の犬歯には金が巻かれていた。
もう一人は白いスーツの男。霧吹だ。その無駄に長い足をこれみよがしに組み、クロコダイル風の型押しの靴を惜しげもなく披露していた。黒いシャツに赤いネクタイ、胸元にはこぼした赤ワインの染み。
トン...
と軽い音を立ててお粗末なテーブルの上に「1センチの束」が置かれた。
「もうね、話しが早くて大好きですよこういうの」
ヤブ医者は「1センチの束」の紙の束の中の1枚を、親指と人差し指でつまみ、軽く振る。
「ふん...いやね、お得意様の霧吹さんを疑う訳じゃないんですよ、ただの習慣で...」
確実に「1センチの束」であることを確認し、内ポケにいやらしくしまう。
「俺はそういうちんけな真似はしねーよ」
霧吹は、椅子にふんぞり返って鼻の穴を広げた。
「いやいやそれにしても、お勤め明けにやっかいなもん拾ってしまわれましたねぇ。ぼっちゃんもその綺麗なスーツに血のような染みまでつけちゃって、匂いからするとワインでしょうが、まぁ、だいたいお察ししますが......ひいちゃいました?」
「俺じゃねぇけどな。出所したてでこりゃぁ、どうにもなんねぇだろうよ」
「はは、確かに仰る通りですね。私も出たての頃はしばらくオトナシクしていたものです」
「だろうなぁ、今となっちゃ分かる気がするよ」
霧吹とヤブ医者はしばらく感慨に浸っていたが、3分と持たなかった。ヤブ医者はパイプ椅子から立ち上がると、腰をとんとんと叩いた。
霧吹も後にならう、その後に次郎もならう、の後に舎弟4人もならう。
「で、どうなんだよ、あなたのさん」
このヤブ医者の名字は『あなたの』というらしい。どうせ偽名だろうが。
「ふむ。見た感じは無事ですね」
「それじゃ困るんだよ、俺だって分かるだろうが。血が出てねぇっつーのが不安じゃねぇか」
「どれ」
ヤブ医者は葵の頭のてっぺんからつま先までを眺め、触手診察と称し、いろいろと触る。
「問題ないでしょ。しんどい程度の打撲とちょっとした脳しんとうですね」
「ほんとだな? このまま返して問題ねーな」
「帰して?」
「いや、返してだ」
「問題ないですね」
「よし」
ホッと胸を撫で下ろす霧吹は次郎にこの女を家に送れと命じた。が、住所が分かるものは無かった。
「若、この携帯電話はぶっ壊れてますから、ちょっと使い物には...」
次郎が差し出した葵の壊れた携帯。
「ふむ、学生証がスカートのポケットから出て来ましてね」
霧吹にそれを渡した。
環七 葵...新東京都大学3年
「かんなな...変な名字だな」
「下のローマ字は、かんなあおいってなってます」
「......まぁ、なんでもいいだろ」
「霧吹のぼっちゃん、後ろをご覧なさい」
ヤブ医者が手でひっくり返せと合図した。
「おお、住所か。これはてっとり早い。次郎、帰りに携帯を買い換えて、ここに送っとけや」
「へい」
「じゃ、また頼みますわ、あなたのさん」
「こちらこそご贔屓にして頂いて・・・親父さんに宜しく」
恭しく(うやうや)頭を下げると、満足したように霧吹は病院を後にした。
次郎はいまだ目覚めない葵に目を移す。
「ずいぶん汚れちゃったけど、綺麗な顔してますね」
「ははは、やはりそう思いますか?ぼっちゃんの好みだと思うんですけどねぇ」
「確かにそうっすね、若が手を出さないなんて...明日雪でも降るんじゃないっすかね」
「あ、そうそう、連行する途中で起きられちゃ迷惑でしょうから、少し盛っておきますね」
「すいません」
「しかし、今までのぼっちゃんだったらねぇ、そのまま放ったらかしにするようなものを、
なんでここまで持ってきたんでしょうかねぇ、不思議ですねぇ」
にやりと笑う口元から金色の輝きが放たれた。
「そんなに変わるもんなんですかねぇ、箱の中ってぇのは...」
一度も箱の中に入ったことのない次郎のつぶやきを、ヤブ医者はかわいらしい子供でも見るような大人の目で見つめた。
何も知らない葵は、車にはねられた上に、何やら睡眠薬のようなものまで盛られたこととはつゆ知らず、すやすやと眠り姫の気分に浸っていた。
次郎は葵を自宅に送り届ける途中に携帯ショップに寄り、同じ機種のiPhoneを買い、中身も元通りにしてもらった上で、自宅の中に運び入れた。
自分のベッドの中ですやすや眠る葵は、自分がどうしてここにいて、どうやって帰って来たのかを理解するまでには、もう少し時間がかかることになる。