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あとひとつ、たぶんもう一つ

 五千万は既に北の海へと移動してしまった事を犬山から聞き、霧吹はあからさまにふてくされていた。リビングには霧吹と次郎と犬山と葵の四人が、粗茶を楽しんでいた。

「良かった」と、ホッとする葵には犯人は見つかったが、訳合って青森に行くことになった、ということにしてある。

「これで一つ心配事が減りました」ありがとうございますと頭を下げる。

 あと一つ。私を撥ねた犯人ですね!しかもこれは2回やられてますから、なんとしても捕まえたい!

 許せない! とばかりに鼻息を荒くする。

 霧吹と次郎は目配せして、『やばい』と同じことを思う。犬山はなんとも言えない楽しさを噛みしめるように笑みを見せていた。

「叔父さん、本当にありがとうございます。もう少しで終わりますね」

 葵は心からホッして、顔の表情までもが柔らかくなったように見える。今までが緊張と恐怖から力みすぎていたのかもしれない。

「さて、午後からひとつ講義が入ってますから、行ってきますね」

 元気よく飛び上がり、湯飲み茶碗を持って出ていく葵に、

「お、じゃ行くか」

 霧吹も立ち上がる。

 ???

「えっと」

「大学だろ?」

「犯人は捕まって青森に。だか」

「おお、そうか。俺はもう行く必要は無いんだったな」

 思い出したように指を鳴らした。

「でも、来て頂けるなら来てください!」

「え? でももう誰も変なことしないっすよ」

 次郎が口を挟む。

「だってまた、はねられるかもしれないし」

 咄嗟に言い訳を考え、霧吹を上目遣いに見る娘っ子に対し、難しい顔をする犬山は腕を組み、ソファーに背を預けた。

「それは送ってけってことか? 俺を足代わりにするって?」

「いやだから、はねられたりしたら」

 困る葵に、さっさと用意してこいと言い捨てて次郎にカギをよこせと言う。

「運転しますよ」

 次郎が恐れ多いとばかりに頭を下げるが、『俺が運転していく』と、カギを寄越せと手を出す。犬山は何事か考えていたが、小さく笑うと、「じゃ、あとは宜しくな葵ー! 帰るぞ!」とリビングから大声で葵の部屋に向かって叫び、席を立った。

「若」

「なんだ」

「もしかして、その」

 次郎が何か言おうとしているときに犬山が玄関から霧吹を呼ぶ声が聞こえた。

「将権! 修が来てる」

 ブルドッグのように深い皺をおでこに寄せる霧吹と次郎。面倒くさい奴がまた現れたとばかりに溜息をついた。


「これからコロンビアに発つからさ、挨拶だけでもと思って」

 正統派な装いの修は、端から見たら真面目な好青年にしか見えない。

 五千万(実際は三千万)をごっそり持って行かれたことに怒り心頭の霧吹は、今にも殴りかかりそうな勢いだ。

 修の話によると、霧吹を出し置いて証拠を犬山にさっさと渡し、(自分は約束していないけど)霧吹が約束した三千万をごっそり頂いた。しかし犬山も金に上品ではないので、一ヶ月以内に見つけたらプラス一千万というのは、伏せた。従って修は最初に提示された三千万しか受け取っていないというわけだ。

「じゃ、修ちゃん元気でね」

 犬山はさっと挨拶だけすると、外に待たせておいた車に乗り込んで家路へつく。今日は霧吹邸の前には、ゾロ目の怖い車がてんこ盛りだ。

 四郎も仕事のしがいがあって喜ばしいとばかりに監視の目を強めていた。

 霧吹だけは頭の中から五千万が抜け出せず、マカオに出向いてにゃんにゃんするはずだったことが出来なくなったもどかしさに胸が潰されそうだった。

「そんなことでわざわざ来るとは思わねーけどな」

「そうだね、残念だけど三千万も一緒に船に乗ってるよ」

 五千万という値段がついていたはずだが、修はそれを最後まで聞かされることはなかった。

 犬山のおやっさんはやはりこのことしか言ってねぇのか。

 霧吹は少しばかり勝ち誇った顔をした。

 金ごとごっそりマグロ漁船に乗せ込んだってことからして、修はこの勝負に勝てばなんでもよかったと見える。ようは、なんでもいいから霧吹に勝ちたかったわけだ。

「21そこそこの男をずっとマグロ漁船には乗せておけないでしょ?」

 修は真面目な優等生ぶっているが、自分がマグロ漁船に乗せたことは、そう、棚上げだ。

「一生いりゃぁいいんじゃねーのか」

「ま、いいけど。でね、葵ちゃんいるでしょ?」

「またそれか」

「いいから早く出してよ。そこに隠れてるのは知ってるんだからさ」

 犬山を追って玄関まで来た葵は修の声が聞こえた為、死角になる角のところに、身を潜めていた。

 霧吹はそんな葵に、来いと手招きする。

  恐る恐る顔を出す葵は、小さい声で挨拶した。

「何、そんなに怖がらないでよ。将権と違って僕は何もしないよ」

「何聞き捨てならねーことを!」

「ぼっちゃん、時間が」

 運転手が腕時計に目をやり、時間が無いことを告げた。

「あー、時間が無いからちゃっちゃと言うね。葵ちゃんさ、こいつには気をつけてね。気を抜くと襲われるからね。三ヶ月もすれば僕は日本に戻ってくると思うけど、それまでに君たちがどうこうなってなかったら、僕と一緒になろうね」

 無茶苦茶なことをサラリと言う修の目は本気だった。

 無言の葵に修は、「そういうことだから考えといて」

 目をしっかり捉えた。

「おい待て、酒乱は嫌いなんじゃなかったのか?」霧吹が葵の酒乱っぷりを持ち出した。

「飲ませなきゃいいだけ」

「しかもお前にはよ」

「それ、葵ちゃんに言ったら将権が犯人なの、言うからね」

 しれーーーっと末恐ろしいことを飄々と(ひょうひょう)言う。が、よーく考えれば小学生の喧嘩のようなもんだ。

 お前が言ったら俺も言う。みたいなね。

「そういうことだから将権、僕がやるって言ったらやることを、知ってるでしょ?」

「もうおめーは死ぬまでコロンビアにいろよ」

 野良犬を追い払うように手で『あっち行け』とする霧吹に、じゃ、行って来る。と葵にウィンクし、霧吹に笑顔を叩きつけた修は、飛行機の時間に間に合わなくなりそうな為に、小走りで玄関を後にした。


 修が事務所で葵に言ったこと。


『霧吹はこの世の物とは思えないくらいに残忍な遊び人だから、いまだ経験無しってことを言った瞬間に襲われるよ。それに今も何人もの女がいるから君のことはただの子供としか思っていない。だから、それは伏せた方がいい。でも安心して、僕はそんな乱暴なことしないから。優しくするよ。あ、彼女としてね。それ以上は無理だけど』


 葵は自分がまだ未経験なのをどうして修が知っているのかを思うと、納得がいかないわけだが、どうにもこうにもその答えを確認することが出来ないので、頭の片隅に置いて機会を覗おうとしていた。

 そんな矢先に、仕事でコロンビアに行くことになって日本を離れることになった修に、『よかった』と小さく安心したがしかし、あまりにも理不尽極まりないことを言う修に、この人もまた霧吹サイドの人間なんだと気付いてしまった。

 ようは、修は葵が霧吹と仲良くやっているのが気に入らないだけで、それさえしなければ何もしてこないんだなと、鈍い葵でもすぐに分かった。


「行くか」

 ちゃりんちゃりんとカギを振り回し、静かになった家から出た。

 車内は二人きり。

 いつもは無駄に長いリムジンだけど、今日は普通のセダンだ。いつもくっついている次郎は、最後まで本当にいいんですか?と、遠回しに着いて行きたいとアピールしていたが、結局最後までその願いは叶わなかった。えらい時間が経過したように感じたが、まだ5分少々だ。

「なんか緊張しますね」

 葵は車内の無言に耐えられなくなり、霧吹に声をかけた。

「しっ」

 霧吹は左手で葵の腕を抑えた。

 うわ!

 右腕を抑えられた愛は、石像のように固まった。その中心で心臓がばっこんばっこんと高波を上げて血液を打ち付けていた。


 よし、そうだ、そこだ! そのまま行け!

 霧吹は掴んでいる葵の腕に力を込めた。

 何が? 何言ってんだろう。

 独り言を言う霧吹に動揺するも、よしよしよしよしそこだ! 行けこら! 逃げろ逃げきれ! と般若はんにゃのような顔になる霧吹に、何も言うことは出来なかった。


「ゆっしゃーーーーーーーーーー!」

 ゆっしゃーー?

 がはははははと豪快に笑い始めた霧吹はついに頭がおかしくなってしまったのか?

 葵は今すぐここを脱出したいと心底思った。放された腕はまだ痛い。

「よぉし! お前今日は大学休め」

「え????」

「行き先が変わった」

 そう言うと霧吹はUターン禁止道路なのに、Uターンをかまし、大学を背に行き先を勝手に変えてしまった。

「霧吹さん何言ってるんですか? 私今日行かないと」

 大事な単位なのにぃぃぃ

「はははは。こりゃいい日になるぞ」

 高らかに笑う霧吹、なんでそうなるのか理解に苦しむ葵。

「どこに行きたい?」

 唐突に聞かれた葵は何がどうなっているのか分からない。

「どこって? なんで?」

「いーからさっさと言え」

 不機嫌になられると後が面倒くさいので、

「あーじゃ、どこでも」

 どこでもいい。取り立てて行きたい場所も無かった。

「よぉし、どこでもいいんだな? 後悔すんなよ」

 ニタリとする霧吹は右耳に指を当て、必要なくなったイヤホンを胸元に落とした。

「イヤホン???」

 左耳には無かったので葵は気付かなかったが、

 霧吹は右耳にイヤホンをはめ、何かを聞いていたようだ。

 信じられない!

 この言葉を何回言ったか知れない。

 葵はそのイヤホンを憎々しく(にくにく)睨み、

「何聞いてたんですか!」

 手を伸ばしてイヤホンをぐいっと引っ張った。霧吹の内ポケから小型ラジオが引っ張り出され、腿の上に落ちた。

「おいこら! 壊すんじゃねーぞ。まだあと1レース残ってる」

「1レース?」

 葵は耳にイヤホンを当てる。


 いやぁ、最後逃げ切りましたね...これは大波乱ですよ。いやぁまいった。誰が予測しましたかこの展開? やりましたね、これは大逃げですね。逃げ切って、ゴールイン。

 霧吹が熱心に聞き入っていたのは、なんてことない競馬中継だった。

「競馬ですか!」

「競馬は男のロマンだろうが」

 葵からイヤホンを奪い返すと、耳にセットした。

 どの辺りがロマンなんだか説明してもらいたい葵だが、この霧吹の喜びっぷりったらあんた、とんでもないテンションだ。

「で、いくら勝ったんですか?」

 一万? 二万? そんなもんで喜んでたらほんと怒る! しかも大事な講義を勝手に休めって言うんだから、はした金だったら、殴る!

 長く一緒にいすぎたせいか、白いはずの葵は黒く染まりつつあった。

「驚くなよ」

「驚きませんて」

「息止めんなよ」

「止めません」

「ちびるなよ」

「バカにしてます?」

「893万だ」

 !!!!!!!!!!

 開いた口がふさがらない。そして息が止まった。

「ちょっとちびっただろ」

 ウエットティッシュを差し出すあたり、本当に男が出来ていない。

「なにそれ」

 葵は差し出されたウエットティッシュを叩き落とし、口元を手で拭った。

「これが万馬だな」

「すっごい」

「これが俺の実力よ」

 なんの実力だか分かったのんじゃないけど、霧吹はすこぶるご機嫌だ。

 葵はこめかみ辺りを痒くもないのに掻き、頭の中で踊っている893という数字を捕まえるのに必死だった。

「よし、まずは換金しに行って、それからメシに行くか」

 ニコッと笑った霧吹はやはり素敵なお顔だが、赤ペンを耳の後ろに滑り込ませ、競馬新聞片手に競馬場にいることを想像すると、知らないうちに眉間に三本の線が入った。

 その皺は深く、葵は無意識のうちにその皺を伸ばそうと、こめかみに力を入れていた。


 換金した霧吹一行はそのまま巣鴨へ直行した。どこでもいいと言った葵だが、まさかのスナックとは思いもしなかったようだ。24時間営業の『スナック赤パンツ』は昼間は巣鴨のお年寄りのオアシスとなっていた。みたらし団子に渋い茶で話に花を咲かせるおばぁたちを横目に、奥のVIPへ入る。

「って、なんでここなんですか」

 葵は周りに気を配りながら静かに怒る。

「どこでもいいって言っただろうが。この辺じゃここが一番落ち着ける」

「でもここって!」

「あ、ママ、ちょっと」

 葵の言葉は無視し、奥にいるママに声をかける霧吹は慣れた手つきで指を鳴らす。はいはいとエプロンで手を拭きながらやってきた『ママ』は、そのへんにいる小綺麗なおばちゃんそのものだ。

「いつものフェラガモ丼をくれぃ」

 はいはいと呆れた顔でキッチンへ戻るママは、葵には見向きもしなかった。

 あぁ、女の人連れて来るのなんて普通のことなんだなぁと、葵がちょこっとだけ嫉妬する。

「でも霧吹さん、フェラガモ丼ってなんですか?」

 それってなんかのブランドなんじゃ?

「動物虐待だから私のところじゃそう呼んでるんだよ」

 キッチンからママの声が飛ぶ。ってことは...

「もちのろんで、ここのオリジナルだ」

「で、将ちゃん、大勝ちしたんだって?」

 何も言ってないのになんでそんなことが分かるんだろうか。

「この時間にここに来てこれを頼む時は、大勝ちのときなんだよ」

 優しそうなママは、オリジナルのなんだかよく分からない丼を運んできた。食べるのも憚れるが、それはそれで失礼にあたる。

「験担ぎ(げんかつぎ)だな」

 ほれ食えと箸を渡された葵は、言われる通りに箸をつけた。

「このお嬢さんは何、将ちゃんの女かい?」

 霧吹の隣に座ってビールをひっかけるママは、やはりその手の人なんだとうすうす実感する。

「何言ってんだよ。こんなガキ相手にしねーっつんだよ」

「ガキで悪かったですね」

 むかっときた葵は言い返して丼をかっこんだ。

「あーそう、あんたも大変な男を好きになっちゃったねぇ」

 酒を飲みながら葵にウィンクするママは、若い頃はぶいぶい言わせていたに違いない。目が生き生きしていたし、年はとっても目の輝きだけは光を増してた。

「好きじゃないですし」

 どっかの教授のように尻つぼみになった。

「かたぎのねぇさんは、こっちに首突っ込まないほうがいい」

 葵の目をギロリと捉え、落ち着いたトーンでたんたんと言った。

 あぁそうか、そうだよね。

 霧吹さんはヤクザの若頭で(どうしようもないけど。本当にこの人で大丈夫なんだか不安だけど)

 私はただの大学生。住む世界が違うって言いたいんだ。

 でも。

「でもまだもう一つ事件は解決していませんから!」

 的外れなことを言う葵にママは、何、将ちゃんまだ言ってないの? と、あきれ顔で意味深なことを言った。

 し! っとジェスチャーする霧吹、勘ぐる葵はやはり何もくみ取ることはできなかった。

「私思うんですけど」

 霧吹とママは葵が何を言い出すのか予測も出来ず、いや、する気もなく、葵の言葉に適当に耳を傾けた。

「せっかく大勝ちしたんだから、一番高いシャンパンの一つでも飲みたいですよね」

 霧吹とママにしか分からない話に、自分だけのけ者にされたと感じた葵は、ちょっとくらい意地悪を言ってやろうと、つっかかってみた。のが、大間違いだった。

・・・・・・・

 ふーん、威勢のいい子だねぇ、気に入った。

 ちょっとどころじゃない意地悪な顔を見せて、ママは一番高いシャンパンを取りに行った。

「いやいやいや、いいから! こいつに酒を飲ませると面倒くさいことになるから! いらないよー!」

 大げさな手の動きでママを止める霧吹だが、葵は、やった! 何でも言ってみるもんだな。とばかりにママの後を追った。

「何よ将ちゃんあんた大勝ちしたのにうちに落とす金はないってのかい?いつからそんな湿気た煎餅みたいな男になったの? あー、悲しい、悲しいわぁ」

「言ってねーだろそんなこと、じゃ、いーよあれだよ、持ってこいよ」

 霧吹は葵の豹変振りを恐れたわけだが、ママは葵で遊びたいらしい。

 霧吹の気まぐれで大学も休まされたわけだし、このくらいしてもバチは当たらないだろうと、実は酒が好きな葵はしめしめと心で思い、わくわくした気持ちでシャンパンボトルを選び始めた。

 そんな葵をママは、物珍しそうに眺め、「何、あんたは天然? それともただのおバカなわけ?」葵の一挙手一投足を追いながら、聞いた。

「なんですかそれ。私はそう思うことをしているまでです!」

 シャンパンなんて分からないのに、ラベルを読んでみる。

「なんで?」

「なんで? ってだって、思っていることはやっておかないと、その気持ちは腐りますから! って、小学校で教えて貰ったことなんですけどね実は」

 「そうなんだ。面白いこと言うねあんた。腐るねぇ。ふふ」

 意味深く笑ったママは、ほれ、シャンパンなんて分からないでしょうが。と、葵の手からするりとボトルを抜き取り、違うボトルを出してきた。それは大事そうにしまわれていた物だったが、きっととびっきり高いのだろう。

 あぶく銭は捨て金だと言わんばかりに葵に笑いかけ、これにしようと言い、席に戻った。


 案の定酔っ払ってドラ猫に変わった葵は手が付けられなかったが、ママは葵が気に入り、どんどん飲ませ、失態をぶっかます葵で大いに遊んでいた。

 自宅にいる次郎を呼び出し、半ば強引にこのドラ猫を車に押し込むことになった。

 しかしママだけは葵がリピートする「例の言葉」を聞いて、すこぶる楽しそうに、葵をけしかけては大笑いしていたけれど、霧吹と次郎は勘弁極まりないという顔を、これでもか! という程に全面に押し出した。

 次郎がいつもの無駄に長いリムジンを運転し、ついでやってきた三郎が霧吹が乗ってきた車を運転した。

 葵の絡みは車に乗ってまでも続行され、うっとうしそうにかわす霧吹。

「霧吹さん! やっぱり私と一緒に付き合いましょうって! きっとそれが一番合うと思います! 私たちは、たぶん似合うっ!」

 なんの根拠があるのか、葵しか知らないその理由。酔っ払った時からずっと言い続けている例の言葉とはこのことだ。かっ飛ばす葵に誰一人ついていくいことが出来ない。かろうじて相手にしているのはママだけだ。

 こいつを修に押しつけてしまいたい衝動に駆られている霧吹きは、スナック赤パンツでスイッチが入ってからというもの、この葵の愛の告白攻撃を永遠に聞かされていた。

「無理」

 これしか言わない霧吹の言葉は、葵の耳には届いていない。

 まとわりつく葵をなんとか自分からひっぺがし、行け! と命令する霧吹は、それでもにゃんにゃんと絡みつく酔っ払った子猫な葵を、そろそろフルボッコにしたい衝動にかられた。

「お前は本当にうっとうしいな!」

 葵の頭を手で押しやり、遠ざける。遠ざけるには十二分に広さのある車内。

 なんでそんな冷たい事を言うんですか!と、ぶーぶー言う葵を無視すること数分、すっと力が抜け、葵がおとなしくなった。

 ん? やっと寝たか?

 シートに座る葵の顔を覗き込んだ霧吹の目が大きく開かれた。

 してやったりだ。

 葵は一瞬の隙をついて、霧吹の唇を奪ってやった。

  普通は男から奪いにかかるものだが、何も知らない何の経験もない葵から奪うとはなんたることか、ビア樽か、タルタルソースだ。ぷはっと唇を放す葵の目は、夜の猫の目のように真っ黒がかって妖しく輝いていた。


「てめぇ。やってくれたなぁ」

 下を向いて肩を揺らして笑う霧吹は顔を上げると、さかりのついたボス猫の顔に早変わりしていた。いや違う。それはボスザルの貫禄と言ったほうが言葉がいいか。

「どうなってもしらねーぞ」

 葵の腕を無理矢理自分の方に引き寄せると、顎をぐいっと乱暴に上げ、びびる葵はさておき、派手やかな女遍歴で育んだその手腕を惜しみなく発揮した。


『だからぁ、初めての子に霧吹さんはきっついですってば』


 と、赤パンツのすだれ女子に言われたことを頭の片隅で思い出すが、背中にお絵かきされている虎と、頭の中に住んでる大虎がその言葉をシャパリと噛み切った。

 全身に力をこめてびびりまくっていた葵はだんだんと脱力していき、最後には虎に食べ尽くされそうになった。それから徐々に体が熱くなっていくのが分かった。と、そこで霧吹邸に到着した。


「若、到着で」

 次郎が間一髪間に合った!とばかりに、ふーーーーーっとなっがい溜息を鼻から出した。正気に戻った後部座席の二人、葵は酔いも冷める方向に進み、自分がどうなっていたのかも分からない。

 霧吹は、暴れん坊になった背中の虎をどうどうとなだめ、大人の対応を試みる。

 後部座席のドアが次郎により開かれ、葵が先にでて、霧吹が後ろから出る。三人の中にはやや何とも言えぬ空気が流れ、流れの悪い下水道みたいに嫌な感じになった。

「霧吹さん」

 しっかりとは酒が抜けきれず、まだほのかに酔いの回っている葵が、流れの悪い下水道を吸引器で吸い取り、流れがよくなった。

「さっきの、本気ですからね。私、ママさんにはああいうふうに言われましたけど、でも、そんなの関係ないと」

「酒が抜けてから言てみろ」

 言葉を遮り葵の頭を軽く叩いた霧吹は先に玄関を入った。葵の背を少し押し、どうぞと招き入れる次郎はどうしていいのか分からない表情を浮かべていた。靴を脱いで家に上がった時には、霧吹は既にリビングに消えて行くところだった。

「葵さん」

「はい」

「おやすみなさい」

「おやすみ...なさい」

 何時間赤パンツにいたんだか定かじゃないが、もう夜もとっぷり暮れていて、気付いた時にはここに到着していた葵は、車の中で自分が霧吹にしたことなどまったく覚えていなかった。

 自分が酒のおかげでオープンな性格になるということをうっすら自覚し始めた葵は、次郎が言った通り、この大胆な行動に出た自分に恥ずかしくなり、穴があったら入りたいと思うことになる。のは、しらふになって今までのことを思い返した時のことだ。ということを自覚するには、まだまだ経験が足りなかった。


 霧吹はリビングのソファーにだらしなく背を預け、自分の心臓をカリカリしてくる苛ついた子猫を、肩で大きく呼吸をしてなんとかなだめた。

 お疲れ様ですと後から入って来た次郎に、「おい、あいつなんとかしろ。そろそろやばいぞ俺は」と、自分の気持ちが爆発寸前なことを認識し、でも手を出すわけにはいかない!というもどかしい葛藤と戦っていた。

「なんなんだあいつは」

 霧吹が次郎に久しぶりにとまどいの顔を見せた。

「でも若、葵さんのことをはねたのが若だって知ったら」

「俺じゃねぇだろうが、一回めはあのバカで二回めはおめーだろうが」

「確かにそーっすけど、葵さんって何気に考え込むタイプっぽいっすから、自分をはねた犯人絶対探すって言い切りますよ」

「面倒くせー女だなぁ」

 頭をわしゃわしゃと掻く。


  その頃犬山は、いずれ霧吹にやられてしまう娘のことを思うと腹立たしくなってきて、自宅に飾られている日本刀の切れ味の良い刃を、白いポンポンで念入りにトントンし、いつ何時どうこうなっても、その切れ味を思う存分発揮できるように、準備だけは怠るまい! と考えていた。

 そうして、うじうじと霧吹に邪悪な念を送っていた。


「ぶえっくしょい、あいやー」

 きったないくしゃみを一発かまし、『飲み直しだ、酒を持ってこい』と次郎に命令する霧吹は、暗い部屋に銀色に輝く葉巻カッターでお高い万円の葉巻をシャパリと切り落とした。

 そんな二人は、リビングの影で葵が二人の秘密の話を聞いてしまい、青くなっていることなど、知る由も無かった。



 やっぱり、あの長ったるい無駄な車は確実に見覚えがあったんだ。

 二回もぶつけられた。厳密には、はねられたんだから忘れるわけがないんだよね。と、葵はしばしリビングの傍らで息を潜め、霧吹と次郎のろくでもない会話を耳をダンボにして聞き入っていた。

 その話の内容はなんともお粗末なものだった。

 橫浜は寿町のいかさまカジノでの裏稼業のことや、違法すれすれのグレーゾーンでの商売、はたまた、ほにゃららの上がりのせしめに始まり、総合警備と名乗った地域の安全点検のお代、諸々を聞いていて耳が痛くなる話に葵はついて行けそうもなかった。

 でも、もう犯人は分かってしまった。

 霧吹が犯人だ。

 たぶん霧吹は運転しないから、その舎弟たちが運転していた車にはねられたんだけど、でも、その責任は霧吹にあるに決まっているが、あの汚い霧吹のことだから、自分じゃないと突っぱねるに決まっているだろう。

 これって私に運が回ってきたもんじゃないの?

 だんだんと黒くなっていく葵は、少しずつお勉強もできるようになった。はねたのが霧吹なら、それなら..

 葵の心臓らへんには、にわかに悪い顔をした子猫がポッと現れた。

それを理由に経験の無い葵は、『そうだ! 京都行こう!』ばりに、『そうだ! 赤パンツに行こう!』と思い立った。

 そう、思い立ったが吉日。実行あるのみだ。だいたいの場所は分かる。どうしたらいいのかを、霧吹をよ~~~く知っているであろう、赤パンツのママに相談しようと心に決め、手をグーにして力を込め、首を一つ振り、手で壁を押して自分の部屋へ小走りに戻って行った。

 この先、霧吹がいなくなるとも知らずに、前向きな葵は前向きに一人で歩き出した。


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