ウェルカム トゥ マグロ漁船
三郎は修と共に夜の川崎港にいた。
そこらへん一帯にはお魚の匂いがこびりつき、波止場に波が打ち付けられる音しか聞こえない。倉庫は真っ暗で、どこに何があるのか分からないが、寒さから言って冷凍物の何かを保存しているので間違いないだろう。
修の白いリムジンが港に横付けにされ、運転手が周りに気を配っていた。三郎は修の後ろを歩き、目的の倉庫へと静かに向かう。
「どのくらいで来るって?」
「へい、あと30分そこそこで到着するかと」
よーしとかけ声をかけると、4番倉庫のドアを音を立てて開けた。
倉庫の中には一人の男が手足を縛られて転がされていた。口には何もつけてないので、どんだけでも声が出る。
誰かー、誰かたすけてー。と声を大にして叫んでいた。
入り口のドアが開いた瞬間にころりんと体を転がした。
「おい! 助けてくれ!」
影になっているのか、修と三郎の姿は目に入らないようだ。
「助けて?」
三郎が指をばきばきと鳴らした。
「このヒモを取ってくれよ」
手足のヒモをアピールした。
「それは無理だな」
修は暗闇の中でタバコに火をつけた。そのオレンジ色の光だけが小さく光り、修の顔が闇に浮かんだが、一瞬の後、消えた。
「なんだよ、これはなんだよ!」
男は、自分を助けにきたんじゃないんだと悟ると、気がおかしくなったように叫びだした。
「バカは扱いやすくていいよなぁ」
修は笑いながら男に言うと、その男はぴたりと動きを止めた。
「まさか」
不気味に笑う修の顔は、楽しくて仕方ないといった面持ちだ。
「そうだよ、俺だよ、アホマッチョ君」
「アホマッチョ?」
三郎は修と男とを交互に見る。
こいつの後ろ姿はなんとなく例の奴に似てますが、こんなマッチョだったかはちょっと...と耳打ちした。
こいつはわざとサイズの合わない服を着て、ごまかしてたんだよ。こいつで間違いない。
「電話も見たしなぁ? コオロギ」
騙したのか! と罵声を上げるコオロギに、
「お前が葵ちゃんを騙くらかして、自分のものにしようとしたんだろうが。そのやり口は汚ねーだろ。誰だか分からない奴からの電話やメールで怖がらせ、不安にさせ、そこでひょいと出て行って、俺が守るとか反吐がでるような事を言い、自分に好意を向けさせようとする、その根性が気に入らねー」
自分で言ってて気分が高まった修は、吸ってたタバコを地面に投げつけ、コオロギの襟首をひっつかみ、座らせた。
「あ? だからよ...」
黄色く光る修の目は、野良猫のようだ。
「お前を立派な『漢』にしてやるよ」
にたりと笑う修に、あ、ボコられるんじゃないんだと知って力が抜けるコオロギ。
「修さん、俺にまず一発ぶん殴らせて下さいよ」
三郎は今だにコオロギにバカにされたと思っていた。
「まぁまぁ、三郎、それはもう忘れろや、そして俺に任せろ」
ぽんと三郎の肩に手を置いた修は、その一言で三郎を黙らせた。
目だけをコオロギに向け、苦虫を噛みつぶす思いの三郎だが、修には逆らえない。
「漢にするってどういうことだ!」
コオロギが話を長引かせてここからの脱出方法を考える為に、割って入った。
「葵ちゃんを自分のものにしたくないか?」
「そりゃ...したいけど」
ここからどうする? コオロギは無い頭で考える。
「よし! じゃ俺が一肌脱いでやっから、大船に乗ったつもりでいろ」
修はその綺麗なお顔をじゃがいもフェイスのコオロギに向けた。
「大船」
「おお、そうともよ!大船に乗ったつもりでいろ。安心してろや、1年そこそこでお前は大いなる『漢』だ」
両手を広げて言い放つ修は、霧吹と若干被るということを、三郎は自分の胸の奥にぐっと押し込んだ。
「ぼっちゃん、そろそろ到着するようで」
修の運転手が入り口のドアから声をかけた。
「よぉし! じゃ行くか」
三郎にこいつを連れてこいと命じると、三郎はコオロギを立たせ、無理矢理歩かせた。が、足首を閉められてるので、その歩みはペンギンのように遅い。
担ごうにもマッチョは重い。
仕方なく、そこにあった荷物を載せる一輪車に乗っけて運ぶことにした。
ぎゃーぎゃー騒ぐコオロギの頭を引っぱたき、三郎は少しだけ胸に鎮座するいらいらが収まった気がした。
「修ちゃんよ! こっちこっち!」
訛った声で修を呼ぶ声が頭上から聞こえた。
その声に反応し顔を上げる修は手だけで挨拶した。
ポフーっという汽笛のような音が聞こえ、そっちに目をやったコオロギの顔からは、さすがに血の気がさささーっと引いていった。
そこで目にしたものは、船だ。
しかも闇に浮かぶ怖い海賊船のようなものじゃなくて、『年期入ってますから自分』と言わんばかりの工作船だ。
いかつい漁師さんが数名、修に向かって大きく手を振っていた。
船を停めて、上陸した黒いおじさん。それがこの船のキャプテンだ。
「修ちゃん、毎度どうもね、助かるよ」
「いやいや、今回も宜しく頼むよ」
修は運転手に合図すると、運転手は大事そうにアタッシュケースを運んできた。
「じゃ、ひとつそういうことで」
運転手からアタッシュケースを受け取ると中身を確認するキャプテン。
「おし。今回はなんか多くないか? おまけってか? これで2年かな?」
「1年でいいよ。残りは好きに使ってくれ」
「ってことはこいつは1年後に戻すってことで?」
「そういうことだ」
「ふーん、めんずらしいね。海、しけなきゃいいけどね」
二人は、肩を揺らして笑うと、修はおもむろにコオロギを指差した。
「これね、マクロさん」
キャプテンの名前はマクロだ。キャプテン・マクロは指さされた方を向く。
「ほほう、これはまたいい感じの体格だ。こっちの方面で活躍できそうだーよ」
コオロギは体を強ばらせた。
「まさか」首を横に振る。
「漢になるってことは生半可なことじゃ出来ねー」
修はキャプテン・マクロに目で合図した。
「じゃ、行くか」
海焼けで真っ黒くなった顔に深い皺は男の証だ。コオロギの乗った一輪車を三郎と交代して押した。
ちょと待ってくれ! どういうことだ! と顔面蒼白で答えを求めるコオロギに、
「お前はこれから半年、この船に乗ることになる」
修はコオロギの悲しむ目に楽しそうに言った。
「これって」
コオロギは頭をフル回転させて助かる方法を考えた。
「そういうことだ、わざわざ川崎港まで出向いてくれたんだから感謝しろや」
マクロを目で見て、コオロギに目で諭す。
「どどどどどこに! まさか」
「そうよ、お前はこのマグロ漁船に乗っかるんだよ」
これが言いたかったとばかりに子供の顔になる修に、三郎もざまーみろと鼻で笑う。
運転手は車のトランクから思い出したように何かを出した。
「マグロ漁船で漢を磨け!」
修は上から見下ろし、コオロギは言葉もなくその場でフリーズした。
「ぼっちゃん、これを...」
運転手は修にあるものを手渡した。
「おお、忘れてた。よし、未来の漢よ、餞別にこれを渡す」
コオロギに手渡したのはシングルCDだ。
『そうだろ節』
「なんだよこれ」更に泣きそうになるコオロギ。
「これは、サブちゃんの歌だ」
「......」
「歌詞を良く読め」
「な、これはお前に捧げる歌だ。寂しくなったらこれを聞け」
よし行け! と手で合図する修に、キャプテン・マクロはニコヤカに微笑み船に荷物を乗せる。 何か喚き散らすコオロギだったが、そんなものは船に乗った瞬間に聞こえなくなった。きっと船内にいる漁師に圧倒されたんだろう。その後、運転手が車から出してきた台車に段ボールを数箱積んで、船に乗り入れた。
酒だ。
キャプテン・マクロは修に深々と頭を下げ、汽笛の変わりにライトを数回点滅させて、夜の海へと密航して行った。
コオロギはこれから半年間をこのマグロ漁船内で過ごし、海の男たちにもまれ、立派な『漢』となって帰ってくることだろう。しかし半年後には葵はあの家にはもういない。ということを、このときのコオロギは考えられなかった。霧吹や野兎を敵に回すと、自分の意図するべき道は進めない。ということを身をもって覚える21の夏の夜。
何事も、早めに経験することに越したことはない。ということだ。
コオロギは大学を休学するという名目で青森へと無理矢理連れられて行く。どんなに泣き叫んでも、ちびっても、声は陸には届かない。うらはらな気持ちを船に一緒に積んだまま出航したコオロギは、理不尽な事の進みに絶望感でいっぱいだった。
まかり通った話が通じるわけもない、それがその筋だ。
自分の甘さには、気付かない。そこが筋肉脳のいいところだ。
ラジカセを一つ、シングルCDを一枚、これが彼の今のところ唯一の私物だ。こぼれ落ちる涙をそのままに、CDに聞き入る『未来の漢(候補)』は、これからの半年でマグロの一本釣りを覚え、いかに傷を付けずに釣り上げるか、ということを経験で自分のものにするハメになる。
「しゃんめーや、にいちゃんよ! お? 諦めてマグロと友達さなれぃ!」
キャプテン・マクロの発する言葉は、もはやどこの訛りなんだか既に分からない。
頭を軽く叩かれ、「半年で陸に上がれる」と、希望的観測をコオロギに告げ、海の男たちは真っ暗い海の上で宴をおっぱじめた。
コオロギはこの夜から数日間、ひっそりと枕を湿らすことになった。