霧吹のトップシークレット
目覚めるとそこはいつもの天井だ。 ただ、頭が痛い。
頭を抑える葵はそのまま起き上がり、リビングに向かった。まだ朝も早いので、家の中は静まりかえっていた。
冷蔵庫から水を出すと、コップに一杯飲んだ。業務用冷蔵庫があるのは、ここには若い衆がたくさんいて、一緒に生活を共にしている為だろう。キッチンから繋がっているリビングは、革張りの真っ黒いソファーが壁一面にずらりと並べられている。各ソファーの間にはサイドテーブルもセットに置かれていた。
壁には末恐ろしい虎やら龍やら鯉やらの画が掲げられ、暖炉の上には危ない刃物がコレクションされていた。
その横には不釣り合いなグランドピアノ。誰が弾くのか分からないが、次郎ではないと葵は次郎の極端に短い小指を思い出して感じた。
誰もいないリビングはとても静かで空気も綺麗だ。
一日中、365日、空気清浄機が回りっぱなしになっているため、タバコを吸うみなさまがいてもいなくても、柔らかいフルーツの香りの空気を、邪魔にならない程度に室内に循環させていた。
玄関で物音がしたので誰か起きてきたのかと思い、玄関に向かってみる。
「早いね」
不意に声をかけられびっくりした。
組長がジャージにサングラスで廊下を歩いてきた。そのジャージには、バッタ物で間違いないであろう、ハルマーニャと書かれたブランドのパクリがこれみよがしに刺繍されていた。
「あ、おはようございます」
ぺこりと頭を下げる葵は組長の後ろに次郎がいたのを発見した。
次郎は組長のゴルフバッグをゴロゴロと引きずっていた。
「今日は大学は入っていなかったね?」
組長は葵をサングラス越しに見ているが、真っ黒いサングラスは鏡と化し、葵自身しか映っていなかった。
「はい、今日は何もないです」
サングラスに映る自分を見て言った。
そう、今日は一日フリーだ。何もやることがない葵は、ゆかりとどこかに出かけようかとも思っていたが、あいにく彼女は彼氏とデートということで、あっさりと振られてしまった。
「じゃ、ゆっくりしてください」
組長は一言そう言い残した。
「パパー」
車の後ろから小さい子供の声。
ええええ! 組長さん、そんな小さな子供がいるんだ!
推定60歳くらいの組長に、小学生になるかならないかくらいの子供がいるなんて!
葵はその子供を見て、お目目をパチパチした。
「おおおお、来たか来たか。はいはい、おじいちゃんですよー」
組長は猫なで声でその子供をあやす。
え?
きょとんとするそんな葵を見て次郎は言葉を選ばずにこう言った。
「組長じゃなくて、若の子供っすよ」
思考が止まった葵は説明を求めるように次郎の顔を見続ける。
「あ? これだからガキはよ」
スリッパの踵をぺったんぺったんと鳴らして歩いてくる霧吹。
「朝一からテンションマックスで来んのは、ガキと高校生くらいだな」
寝起きで寝癖のついた頭をわしゃわしゃとかく。
「お? ここにも高校生でもねーのに、朝っぱらから目覚めてるお子様な大人が約1名いんな」
霧吹は葵を見つけてにやついた。そのまま葵の横を通り抜けると、「来い!」と犬でも呼ぶかのように自分の子供を呼ぶ。
「ちょっとやめてよ、犬じゃないんだから」
子供を追って玄関に入ってきた女の人が一人。霧吹と同年齢か、キレイめファッションに身を包んだ大人な女性が、「将権、やっと出てきたんだってねぇ」と、懐かしむように顔の筋肉を緩めた。
「おー、もう二度とごめんだけどなぁ」
「どう? 二年見ない間に将太大きくなったでしょ」
「子供の成長はやっぱあれだな、早いな」
子供の頭をぽんぽんと叩くと、気をつけてなと言い、将太に、組長の元に行けと言うと、その大人な女性とハグをした。
霧吹にまさかの子供。
彼のこの性格からしたら、子供の一人や二人、いや、三人四人...くらいがいてもさして不思議には思わないものの、お子様葵にはそれはそれは、ときたま流れる地球滅亡説のように、深刻な問題でもあった。
頭の中の霧吹メーターは80からマイナス100へ一気に急下降した。
自分だけが、ざわめきたてる町並みを映したモノクロフィルムの中にいるような、喧騒的なその中にぽつんと置かれた気分になりきっていた。
目の前でハグくむ霧吹とその奥さん。次郎がそんな二人を愛おしい笑顔で見守る。
そこは春のように暖かだがしかし、若干一部、雪が吹雪いているように心の中が寒くなる人が一人。
「じゃ、行って来るけど、元気でね」
「おー。またな」
ん? 行ってくるけど元気でね? どういうことだ? と、霧吹の奥さんが葵を二度見した。
「ん? この高校生が将権の新しい彼女?」
は?
「ちげーちげー」
「あ、そうなの。確かにタイプ違うもんねぇ」
クスッと笑うその女性は葵に会釈すると、さ、行きましょ行きましょと車へと入り込む。
なんだか感じが悪いなという気がした葵は、霧吹に目を移すが当人は子供の後ろ姿をただぼけっと見送っているだけだった。
次郎は車を見送りに外へ出るが、霧吹は見送りもせず、踵を返した。
「寝る」
そう言うと、ちゃっちゃと部屋へ...
「霧吹さん」
消え入るような声で呼んだ。
若干年が入って、小さい声が聞こえない霧吹はそのまま遠ざかる。
「霧吹さん!」
今度ははっきりと呼ぶ。
なんだとばかりに振り返る霧吹に、葵はさっきの人は誰かと問う。
「かみさん」即答だ。
やっぱ、そうなんだぁ。肩にでかい漬け物石が乗っかった思いの葵。
「前のな」
「......前?」
「そ」
「離婚したってことですか?」
「それ以外になんかあんのか」
ホッとする反面、複雑な心境の葵に霧吹は、くだらねー想像はすんな、終わったものは終わった。ぴしゃりと言い切り、あくびをひとつするとケツをぼりぼり掻きながら部屋へ入って行った。部屋が閉まるのを見送った葵は、組長ご一行を見送って戻って来た次郎と、また目が合った。
「葵さん、そんな辛気臭い顔しないでくださいよ」
几帳面に靴を直す次郎。
「ぜんぜん知らなかったんですけど」
「...言ってませんでしたからね、すみません」
「前の奥さんって」
「あ、若から聞きました? そうなんですよ、若が22だか23だか、いや、18だったかな?まぁ、そんなかんじの時のね、荒れ散らかしてた時分の出来事ですから」
「でも奥さん、だって...今...」
「美紀子さんは今再婚してますよ。野兎のあれとですけどね。ようやりますわ。だからちょっとばっかそこで若と修さんと美紀子さんには問題があるんですけどね、まぁそれは、その、大人の事情ってやつで今のところは...」
次郎がお茶を濁した。
なんか、なんか、なんか。
「でも葵さん、若とどうこうなろうと思ってるんだとしたら」
したら?
「諦めた方がいいっすよ」
「なんで?」
「俺らの稼業知ってます?」
「ヤクザ屋さん」
「困ったことにそうなんですよ」
自分のおでこをポンとおちゃめに叩く。だから、普通の生活を送ったほうが葵さんのためだと思いますよ。こんな世界、来ない方がいいに決まってるんですから。と、至極の道理を言う。
その言葉を葵は頭の中で考えて、まとまった答えを出そうと、言葉を出す準備が出来、口を開いた時には次郎は既にリビングに消えて行くところだった。