だから、霧吹の講義は当てにならんてパート2
三丁目の『あなた野病院』は夜になると開く病院でもある。
しかし今日に限っては早朝から開けていた。
眠そうな目をこすって病院の中にある人物を迎え入れたヤブ医者の『あなたの』は、三郎をそこらへんに待たせ、まず先に渡された現金を数えていた。もちろんカードなんか使えるわけもなく、ニコニコ現金払い一本が基本だ。
パイプ椅子に座ったあなたのは、金庫の中にある札束から、バラのものを出し、必要な分だけ自分の財布のマネークリップにストックする。
「三郎君、これがその葵ちゃんの部屋に残されたというメモかね?」
あなたのは一通り金をストックすると、慎重に金庫のカギをダイヤルした。
葵宅からなぜかあなたの病院に向かった三郎は、今までにあった一連のことをあなたのにいくぶん端折って話した。
『例の男が残したメモをあなたのに鑑定してもらえ』と霧吹からの命令により、今ここにいるわけだ。
あなたのはその手のプロでもあり、その手のあれこれでぶち込まれた経験もある。
その手には手術用の手袋がはめられ、バーコードヘアーの広いおでこには歯医者さんがつけているような特殊なライトが装備されていた。
「どれ」
おでこのライトのスイッチを入れて、手袋をはめた手でメモを取る。
特殊なライトでメモを照らし、ある薬品につけて、『クローゼットの中はいけませんね』
と書かれたメモをあぶっていた。
例の男は三郎がクローゼットの中にいたことを知っていた。
バカにされた三郎は頭に血が上り、今すぐ追いかけてとっつかまえたいと思ったが、霧吹に連絡した時に、部屋の中をひっくり返してそれを探しだし、メモを持ってあなたののところへ行けとの指示だったために、怒りをみぞおちの深いあたりに押し込めて、言われたことをやった。
「んー」
あなたのはうなり声を上げ、禿げ上がったおでこに皺を寄せた。
「どうっすか? いそうですか?」
メモに上がった指紋を特殊な機械で照合していたあなたのは、おもむろにライトのスイッチを消した。
「いませんねぇ」
机の上にメモを放り投げると腕組みをして三郎と向かい合った。
「ってことは」三郎も腕組みをした。
「素人の仕業でしょうねぇ」
「とうしろうか」
あなたのネットワークはとんでもなく広い。
全国のヤクザ屋さんの指紋があなたのコンピューターに登録されていると言っても過言ではない程、膨大な量のデータが入っている。
検索エンジンもびっくりな情報網は、どこで仕入れてくるのか不思議で仕方ない。
「カメラはありましたか?」
あなたのは思い出したように三郎に聞いた。
玄関に一つ、これです。三郎はあなたのにそれを渡す。
それを見たあなたのは、
「あぁ、これはやはり素人ですね。秋葉原で買えるたいしたことのない代物です」
そう言うと、自分の仕事は終わったとばかりにパイプ椅子からよっこらせと立ち上がる。
目で『帰りなさいよ』と言い、それに気付く三郎は速やかにその場を後にした。
素人の仕業ということは余計に誰だか分からなくなる。
家にカメラを仕込む程のもんだから、きっとこっちの界隈の仕業だと考えた霧吹ご一行だが、それはことごとく崩れ去った。
やはり、葵のご学友の一人が単独でやっていることに変わりはないとしっかりきっかり確認した霧吹ご一行は、いや、霧吹は、五千万の為に焦点を絞る算段に出た。
金にがめつい霧吹は、頂いた五千万は全て自分で使い切ってやろうと考えている。
舎弟の類もそんなことは百も承知なので、分け前があるとは思ってもいないが、よくもまぁこんな適当男に着いて行く気になるものだ。
と、あなたのがうっすら感じていることは内緒の方向で話は進む。
霧吹は今日も白いスーツを着ていた。
いつも通り黒いシャツをインするあたり、まことしやか、奇特な趣味だ。
「さっさとしろ!」
ちんたらしている葵に玄関から叫ぶ。
かばんを持ってダッシュしてきた葵、次郎さんに「すみません」と言い、霧吹の顔は見ないことにした。
3人揃ったところで大学へ向かう。今日もしっかり講義が入っていた。霧吹邸を出たあたりで、見慣れない白いリムジンが停めてあるのが目に着いた。
「若、あれって」
自分家付近に横付けされている白いリムジンに見覚えがある霧吹は、あからさまに嫌な顔をした。葵はそのリムジンを見て、霧吹の顔を見て、次郎の方を見た。が、誰一人葵に説明しようと思う人は、この車内にはいなかった。
白いリムジンの運転手が出て来て後部ドアを開け、中から出て来たのは、修だ。
春の風のように柔らかい微笑で近づく修、運転席の次郎に目をやると、次郎は頭を下げた。
霧吹がいる場所を正確に捉えている修は、勝手知った足取りで歩いてくる。
霧吹は舌打ちをひとつくれると、真っ黒い窓を少しだけ開けた。
「おはよう」
清々しい声で朝の挨拶をする修に、「なんだ」挨拶は省略した霧吹。
「葵さんいますね?」
霧吹は、あ?と眉根を詰めると目だけで修に消えろとやる。
葵はその声にびくりとし、体を強ばらせるが、死角になっているので修を見ることはない。雰囲気で、あまりよろしくないことが分かるが、息を殺して動向を見守る。
「なんで将権が葵さんの大学に着いていくの?」
「なんでここにいるのを知ってんだよ」
「昨日一緒にいたから、ここにいるんじゃないかと思って」
「いろいろあんだよ」
「昨日の話は覚えてる?」
「覚えてねーよ、じゃぁな」
霧吹は黒い窓をウィーっと閉めると「行け」と次郎に声をかけた。
修をそこに残したまま霧吹ご一行は大学へ向かう。
五千万の為に霧吹は犯人捜しを続行し、次郎はそれを手伝う。
葵は守ってもらいながら勉強し、三郎は多方面から犯人あぶりに精を出す。
四郎は家の監視を続け、霧吹組長はゴルフをしに千葉県は長太郎カントリーへと向かい、犬山は朝まで飲んだくれてきたのでこれから眠りにつき、野兎組長は健康維持と流行に乗っかっているために、朝のヨーガを行いにヨーガスタジオへと向かう。
犯人の例の男は、大学の準備をし、朝1のメールを葵に送る。
霧吹の携帯、もとい、葵の携帯にメールが届く。
「あ、それ私の」
葵が久しぶりに見る自分の携帯を懐かしがる。
霧吹はそれを無視し、メールを読んだ。
『今日は生態学ですね、大学でお会いしましょう。ところで昨日家にいたスキンヘッドの男はいったい誰ですか?まさか、浮気なんてしていませんよね?』
何それ......と泣きそうになる葵。
三郎から、犯人は素人でこっちの世界のもんじゃない。と連絡を受けていた霧吹は、「今日は何人くらいいんだよ」と葵に聞いた。
「...20人...くらいですきっと」
にやりと朝にはふさわしくない笑みを讃え、今日初めて葵と目を合わせた。
「その中にいるってわけだ。五千ま...いや、犯人が」
「今五千万って言いませんでした?」
葵が霧吹の目を覗き込む。
「なんの話だ? スキンヘッドか? あれは気にするな」
「五千万ってなんですか?」
「しつこい野郎だな。なんの話だ? 余計なことは気にすんな」
すっとぼけながらメールを閉じると、自分の内ポケに元葵の携帯をしまった。
「霧吹さん、私、携帯無いとけっこう困るんですけど」
自分の携帯が入っている霧吹の内ポケらへんをじーっと見る。
「なんでだよ」
「知らないと思いますから言いますけど、私にも一応友達がいるんですよね、だからメールとか、そういうの返さないと怪しまれますし、っていうか大学の予定もサイトで見れるから(最近覚えた)、けっこう不便です、無いのは...」
大学の予定がネットで見られるということを最近覚えたことは伏せておこう。
あ、そうか? と言うと霧吹はいとも簡単に自分の私物の携帯を葵に渡した。
「これでも使ってろ」
「え」
霧吹の携帯を受け取った葵はどうしたらいいものか考えるのに時間が...
「Gmailなら新しいの作れるだろ? 作ってそれを使え。番号はその辺押せば出てくんだろ」
何気にGmailなんて知っている霧吹にびっくりする葵。
あ、次郎さんだ。とすぐに気付く葵は次郎が機械に強いことを思い出した。
「ありがとうございます」
偶然にも霧吹の電話番号を知ることができた葵は少し気持ちがほっこりした。
「その電話はあまり使ってないもんだから、かかってくることはまず無いから安心しろ」
「霧吹さんのじゃないんですか?」
「俺のだ」
「なかったら不便じゃありません?」
「それは使っていない方だって言ったろ?こっちが俺がいつも使っているやつだ」
その手には最新鋭の携帯電話が握られていた。
葵は少しばかり残念な気持ちになったが、顔には出さず、そうですかと平静を装った。
教室には男女半々で席についていた。
霧吹はこの場にいないし、もちろん次郎もいない。
不安はそれだけじゃなかった。20人はいると思っていた今日の講義は蓋を開けたら10人しかいない。この10人の中に、葵を無駄に追いかける変な奴がいると思うだけで、気がおかしくなりそうだった。出来れば一番後ろの席に座りたいものだが、そこのところは既に学生に占領され、前に座るという選択肢しかなかった。
女子がだいたい前、やる気の無い学生は後ろ、はりきって仕方ない学生は一番前だ。葵は前の方のはじっこの席についた。
教室の前扉から入って来た生態学の教授は、痩せてがりがりの初老の男だ。しかし、その顔に笑顔は無い。あるのは不安だけだ。後ろを何回も振り返るその姿に葵は自分の感が当たったことを感じ取った。
霧吹が堂々と入って来た。
手を上げて学生に挨拶する様は、何様だ?
教室の中をざっと見回す霧吹。
学生10人全員が犯人候補だが、まず女子は省かれる。
その中に一人見覚えのある顔があった。
体育会系男子だ。
自動販売機のところで葵に話しかけていた奴に霧吹は狙いを定め、五千万はこいつか? とじーっと観察したが、何も汲み取れなかったようだ。
「あー...みなさまおはようごじゃいま...」
震える尻つぼみの声に学生は静まる。
ちゃんと聞こうとして、5センチ程みんな前に顔を出す。
葵もまた例外じゃない。聞こえるように左耳を傾けた。
「えー、今日は私の助手をご紹介しようかと...うにゃうにゃうにゃ」
やはり小さい声で最後の方が聞こえない。
「霧吹先生ですしゅにゃいにゃにゃい」
居ても立ってもいられなくなり、そそくさと壇上を霧吹に譲った。
あれ? あいつあのときのじゃね? と教室内がざわざわし始めた。
あの講義の時にいた学生が何人かいたようだ。霧吹に気づきにわかにざわめき立つ教室内。
葵の心境は穏やかじゃなかった。
やめて、やめて、やめてと心で唱える。
後ろの女子が、ちょっとかっこいいよね...などと、外見に騙されて淡い期待を込めている。
またも一番前にいた出来る(と勘違いしている)学生が余計な一言を挟んできた。
「先生、今日は先生が」
「あーあー、みなまで言うでない」
顔の前で手を振り、ついでに顔も横に振る。
前回のことがあったためか、霧吹はこの学生が自分に言ってくるであろう言葉を先読みした。
「生態学だろう?」
にたりと笑う顔には悪意しかこもっていない。
雰囲気のまるで違う霧吹に、学生は興味津々で耳をダンボのように大きくした。
「生態学ってのはよぉ」
葵は首を小刻みに横に振り、霧吹にやめて! と念を送る。
霧吹はそれを自分の周りに張ってあるバリアーによってはじき返した。
あたかもそれは、『地球全体バリア』にふさわしい。
「調達するところから始まる」
は?
?????クエスチョンだらけの学生に、教授も首をひねる。
葵も首をひねる。
次郎は、頷く。
「調達はそれ相応の置屋からみつくろうことができる」
ん? 置屋? みつくろう? 何?
「まずは、そこに生まれたままの姿で横に寝てもらい...」
静かに淡々と、目を閉じて、まるで何かを思い出すかのように言う。
「そしてそこかしこに色々な寿司の具材を乗っけていき...」
「先生! 講義を始めてもらえませんか!」
ガタリと大きく音を立てて立ち上がった葵は、逆に先を読んだ。
この先霧吹が何を言い出すのか察知した葵は、ちゃんとした教授に大きな声で言っていた。
「時間もないですし、始めてくださいませんか!」
みんなの視線が注がれる中、霧吹の内ポケの電話が振動した。霧吹は教室内を見渡したが、誰だか検討はつかなかった。
教室の後ろのドアで待機していた次郎に目をやると、次郎は小さく頷いた。
それを見て霧吹は、葵に向かいにたりと笑うと、先ほどと同じように手を上げて、何も言わずに教室を後にした。
「誰だ?」
「あの筋肉バカだと」
「あいつか?」
「三郎が言ってた奴と随分と違うんじゃねぇのか?」
「そこが気になるんですが、あいつだけが携帯を操作し、その直後に若の電話が...」
「五千万はあいつか」
獲物にロックオンした霧吹は、どうやってこいつをあぶり出すかを考えていた。
次郎が教室の後ろに陣取り、学生の行動をいちいちチェックしていた。ありがたかったのは人数が少なかったことだ。そのおかげで絞り出すには丁度良い機会になった。
大学の門の前に停車中の一台の白いリムジンの中に、修がいる。もちろん葵を待ち構えているのだが、それだけじゃなかった。なんとか霧吹の弱みを掴もうと静かに躍起になる修は、残念なことに、やはり霧吹と同類項のにおいがぷんぷんしていた。
いつまでも昔のことをねちっこく言いまくる修は、本当にそのお顔がもったいないくらいだ。
神様はなんと優しい方か。
こんな性格で顔もまずかったら、手を差し伸べる人すらいないだろう。
修は今現在霧吹にしている自分の無礼など気にすることもなく、ひたすらに昔のことを言い続ける。そんな修をいなし続ける霧吹は、実は大人な男なのかもしれない。
葵は霧吹から使えと渡された電話がバッグの中で振動したのを確認し、言われた通り誰にも分からないように、この中にいる犯人に気付かれないようにこっそりとメールを開いた。
『買えるぞ』
ん?
『帰るぞ』の間違いかな? きっと確実にそうだ。
って、今まだ講義始まってもいないんですけど?
しかし自己中心的な霧吹のことだ、来ないと分かると躊躇無く教室に踏み込んでくるのは目に見えて明らかなことだ。
バッグにノートやその他諸々をしまうと、小さくなりながら葵は教室を出た。ところで、声をかけられた。
「葵ちゃん、どうしたの?」
体育会系男子だ。
「蟋蟀さん」
体育会系男子はコオロギという名前だ。それが名字なんだか名前なんだかは定かじゃない。
「ちょっと、具合が」
葵はバッグを胸の前で抱え、ちょこっとずつ前に進む。
「じゃさ、食事でも行かない?夏だけど、ちゃんと食べないと体もたないでしょ」
葵の腕を掴む強引なコオロギに葵は、「夜は食事に行くので」咄嗟に出た。
「夜? 誰と行くの?」
目つきがかわったコオロギは、突っ込んだ質問を葵にした。
葵は今夜食事に行く約束なんか無いものの、咄嗟に言った自分の言葉に信憑性を持たせるために、
「あー...友達?」疑問文になってしまった。
「そっか、じゃぁ、また今度? かな」
コオロギは腕を放すと、優しい笑顔に真っ白い歯を見せた。
ごめんねと言い、背中に視線を感じながら車の停めてある場所へと急いだ。