野兎 修
その連絡を聞いた霧吹は渋い顔をした。
三郎はもう葵の部屋にいる必要がなくなり、霧吹に言われたとおりの場所へ向かうべく用意を始めていた。明日の朝一番に戻ることになり、持参してきている麻袋に荷物をまとめ、例の男が残して行ったメモをポッケにしまった。このメモは、あいつを見つけ出して一発ぶん殴るまでは捨てられないとばかりに握りしめ、歯ぎしりをした。
次の日の夕方、JR蒲田駅東北口に霧吹と次郎、なぜか葵の姿があった。
でかいリムジンは細い路地を抜けるのに苦労して、何回も切り返してやっとこさ目的の場所へ到着した。狭い場所には軽自動車がよく似合うとはこういうことか、無駄に長ったらしいリムジンは蒲田には似合わない。
その辺一帯は、昭和を感じさせる懐かしの寂れた通りが存在し、悠々自適に暮らす野良猫が多く生息していた。
野良猫の聖地、野良人間の聖地でもあるここには、さまざまな人が集まってくる。
そのビルの4階が目的地の事務所だ。
勇気の印を詰めたアタッシュケースを次郎が持ち、霧吹は相変わらずセンスの悪い白いスーツ、阪神タイガースを思わせる虎柄のネクタイ、夕方で太陽も消え入りそうな時分にもかかわらず、サングラスをし、踵を鳴らしながら階段を上がった。
その後ろを葵が置いてかれないようにぴったりと着いてきた。
「ちょっと霧吹さん、なんなんですかここは」
葵はこの雰囲気違う地域に危険な空気を感じた。
「なんてことねービルのなんてことねー仕事だ」
答えの無い答えを突きつけ、次郎が真っ黒いドアを開け、中に入る。
そのあとに二人も続く。
ビルの中は真っ白で統一されていた。
壁も床も置いてあるものも全てが、白、白、白。霧吹がそこに立つと、どこにいるのか分からなくなるくらい、白一色の部屋は、蛍光灯の光も手伝って、目がしぱしぱする。
あぁ、だからサングラスをしていたのかと気付く葵は、知らないうちに目を細めて鼻の上に皺を寄せていた。
「霧吹の若旦那、お待ちしておりました」
恭しく頭を下げる野兎組の若い衆。
当たり前のような横柄な態度の霧吹は、黙ってその後をついて行く。
葵も着いて行こうとしたが、若い衆に止められた。
「お嬢さんはここでお待ちください」
野兎組のデブッチョが一番近場の席に案内した。
「え、あの」
先に歩いて行く次郎と霧吹を目で追う。
「そこに座ってろ」
振り向きもせずに言い捨てる霧吹。
さ、どうぞと促され、言われた通りにそこに座って待つことにした葵の後ろには、おっかない顔をしたお兄さん5人が突っ立って、椅子に座る葵を見下ろしていた。
兎になったのは葵の方だ。
虎の檻に突っ込まれたような気分に、気持ちが落ち着くことはなかった。
霧吹はやっとサングラスを外し膝に手を置き、頭を下げた。
そこには紫色のスーツを着た時代錯誤の親父が一人、社長椅子に座って左右に揺れていた。
「ご苦労なこってな」
「野兎のおやっさん、その節はどうも」
「話はある程度聞いてるが、そろそろ修が来るから二人で話しんしゃいよ」
「おやっさんとじゃないんで?」
「もうそろそろお前達の時代が来るだろう、そのときの為にもわだかまりは取っておきんしゃいって」
野兎は冗談めいた口調でぬらりぬらりと話しをすると、おもむろに立ち上がり、いまだ少しだけ頭を下げてる霧吹の肩を叩き、
「なかなか可愛らしいお嬢さんを連れてきたもんだ」
これまでに何人もの人を騙くらかしてきましたというのを物語る口元、その舌はきっと二枚舌だろう。
「この業界の子じゃないね?」
「預かってるだけでして、そんなんじゃないですから」
そうかそうかと面白く笑うと、少し待っててくれと言い残し、部屋を後にした。
事務所のドアが何の前触れもなしに開き、若い衆が一斉に頭を垂れた。
葵が椅子の背もたれに手を置き、振り向いた先に見たものは、霧吹と瓜二つな顔をした男がにたにたと笑いながら入ってくるところだった。高そうな真っ黒いスーツに、磨き抜かれた靴。葵に一瞥くれると、そのまま行き先を葵の方へ変えた。
蛇に睨まれた蛙は固まるしかなかった。
どうすることも出来ない葵はただただ固まり、ガマガエルのように脂汗だけを滝のように流すハメになった。
「君だれ?」
優しい物言いは霧吹とは正反対だ。
「あ、あの」
顔はそっくりだが、雰囲気の優しくなった霧吹似のイケメンに、肩の力が抜けた葵。と、左手を持たれ、手の甲にちゅっとやられた。
うっわー!!
がっちがちに固まる蛙は脂汗を垂れ流す。
くすりと笑う霧吹似は、これでもか! といった笑顔を披露した。
「修、手を出すんじゃないよ。将権の客人だそうだ」
奥から現れた紫色のスーツのおじさんに葵は釘付けになる。
「ふーん、君、将権の物なんだ」
一気に冷たくなる修と呼ばれた男。
「物とか、そんなんじゃないですから!」
人をまるで物のように! 憤慨する葵に余裕の笑みを見せると、紫色のスーツを着たおじさんが出てきた部屋に入って行った。
「葵ちゃんだったね、ちょっと聞いてもいいかな? またなんで君のような子が将権と?」
「あ、はぁ、あの、大学でちょっといろいろありまして、犬山の叔父さんに相談し...」
「なんと! 犬山のところのお嬢さんでしたか! それはそれは失礼しました」
おい! と後ろの若いのに一声かけると、違う部屋へとまた場所を変えられた。そこで、疑問に思っていたことを聞くことにした葵は、まずこのおじさんの名前から聞くことにした。
話をするのに、その人の名前を知らないなんてことはとても失礼だ。
「野兎 将修」
消臭剤のようなへんてこりんな名前に面食らう。
どうやら野兎のおじさんはさきほどの修の父親であり、霧吹の親父さんとは違った意味での兄弟分ということだ。どうして兄弟なのか理解に苦しむ葵は本当にこの場にふさわしくない。よって、霧吹と修は幼なじみにあたり、子供の頃はよーく一緒に走り回って遊んでいたらしい。ただ、高校時代にちょっとしたことでもめてから仲が悪くなり、今ではお互いライバル視するようになってしまった。ということだ。
その内容までは話してくれなかったけれど、野兎のおじさんも霧吹の親父さんも、昔のように仲良くなってくれたらいいのにという気持ちに変わりはないらしい。
なんだかよく分からないけれど、あの二人にはなんかあると感じた葵は、泥沼に入り込まないようにしないと、くわばらくわばらと用心することにした。
霧吹と野兎修は久しぶりの対面となった。
「久しぶりだな」
先に口を開いたのは霧吹だ。
「2年振りだろ。お前が箱入りする前に一度会った」
箱入りという言葉にむっとした霧吹だが、ここはひとまずスルーすることにした。
いくら仲が悪くなったとは言っても、そういうときにはしっかりお互いに顔を出すことにしていた。よって、霧吹が別荘に収監されるその前に、修は挨拶におとずれていたわけだ。喧嘩をしているとはいえ、やはり兄弟のように育ってきた二人だ、片割れがいなくなるのは寂しいのだろう。しかし、そこはプライドの叩き合いで、一歩も譲らない姿勢を崩すことはなかった。
修がいろいろとやってきた行動の中で、霧吹がどうしても許せないと感じていることをしてしまっている修は、そんなところでも悪かったと少しばかり思っているのかもしれない。
「将権、外の女はお前の女か?」
唐突に叩きつけてきた修の言葉に霧吹は明らかに機嫌を悪くした。
「それがお前になんか関係あんのかよ」
放った霧吹の言葉に、修は満足そうな笑顔になった。
「あのね、昔からそうなんだけどさ、将権は気に入った子のことになると無口になるって分かってる? あの時もそうだったし、年月経った今もそうなんだね」
「おめーもいちいち金玉の小せぇ野郎だなぁ。いつまでもそうやって昔のことをいまだ持ち出して、ねちねちとまぁ、女かおめーは。いい加減にしろ」
「その捨て台詞もそう」
「修さん、話しを進めましょうや」
次郎がこの二人の水掛け論を収めるべく中に割って入った。
「次郎も大変だね。僕の方につけばよかったのに」
修は霧吹がカチンとくることを言って、霧吹の態度の変わりっぷりを確認して満足してから、仕事のことに話を戻すことにした。
「これで手打ちといこうや。これ以上出す気はねーぞ」
霧吹きは次郎にアタッシュケースの中を見せろと合図し、次郎がそれに従う。
中身を確認した修は、ふんと鼻で笑った。
「いいよ」
思ってもいない答えに霧吹と次郎はきょとんとした。
「こんな昔ながらの争いなんてそんな古くさいこと、僕には興味無いから。これからはもっとここを使ってやってかないとヤクザなんてすぐ潰れてく」
自分のこめかみをとんとんと叩き、綺麗な顔に綺麗な笑みを浮かべた。
「ヤクザなんてなくならないけどね。手を変え品を変え残ることは間違いないけど、違う分野の開拓だってしなきゃいけないし、進化しなきゃいけない時期だよ」
「相変わらずごたごたと面倒くせーな」
「わかった、将権に分かるように手っ取り早く言う」
いらっとした霧吹と、次郎、それに修と、勇気の印を詰めたアタッシュケースの時間がしばし止まった。
「あの、霧吹さんとさっきの修さん? は、なんでそうなったのか、やっぱり教えてはもらえないんでしょうか」
「なんでそんなにあの二人が気になるのかね?」
将修はにたりと笑い、二枚舌で唇を舐めた。
「いや、なんかすごいそっくりだし、あ、顔だけですけどね、兄弟かななんて思ったんですけど、昔そんなに仲良かったなら今のその状況はもったいないような気がして」
「君は一人?」
「兄妹もいないし、親もいません。小さい頃に両親は事故で...それから犬山の叔父さんに育ててもらったんです」
ちょちょぎれる涙をシルクのハンカチで拭きまくる将修は、もうぼちぼち、おじいさんの域の年齢のせいか涙もろくなってきていた。
「そうかそうか。それは大変だったなぁ。察しますよその心境」
と、手鼻をかみ、いや、参ったと一声。
「実はな」
将修は、葵の身の上話に感情移入してしまい、いとも簡単に二人の昔話を暴露し始めた。
話の内容のトッピング具合からして、その舌は二枚なんかじゃなく、三枚も四枚もあるようにすら見えた。
修が高校の時に初めて好きになった女を霧吹が奪ったというのが発端で、二人は険悪になった。しかし、それが本当のことかどうかは二人にしか分からない。
あー...霧吹さんならやりかねないなぁと思う葵は、心の中の霧吹メーターが百から八十に降下した。
で、一悶着あって殴り合いの喧嘩もした。
結局その女は全く違う第三者に持ってかれて揉め事は収まったんだが、二人のわだかまりは収まらなかったということだ。
そしてその喧嘩が今に至ると。
「なんて子供の喧嘩なの」
ぽろっと言ってしまった葵を見て、げらげら笑う将修。
「そうだろう? 笑えるだろう? でも本人たちはいたって真剣だからよ、これからどうなるか、もう少し楽しませてくれ。いやしかし、あの二人は飽きないからねぇ、もう少ーしだけこの老人に楽しみを与えておくれ」
将修は完全にこの二人を自分の娯楽の対象としている風だ。
そんな意地悪な紫色のおじさんを見て、葵はやめましょうよとは言えず、頷くしかなかった。
「将権、さっきの子をその金と一緒に僕に渡しなよ」
霧吹の対面に座った修は、挑発するような目で霧吹を捉え、体を前傾させた。
「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「口を挟むな次郎」
次郎が割って入ったところで霧吹がそれを止めた。
次郎は何か言いたげだったが、ちらりと修を睨み、すごすごと後ろに下がった。
「どういうことだよ」
霧吹は森の熊さんもぶっ倒れるようなするどい眼光で修を睨みつけたが、そんなスナイパーのような視線を修は闘牛士のように勇ましく受け流した。
「高校のときのお返しだよ」
「また始まったか。二言目にはそれだ。お前もいい加減忘れろよ」
嫌気が差すとばかりに霧吹は横を向き、自分の後ろにいる次郎にタバコを出せと手を伸ばした。
「返事は?」
修は相変わらずの笑顔を顔に貼り付けている。
「ふざけんなよ」
「本気だけど。それが出来ないならこの話は無し」
「だからもういいだろうが」
「そうはいかないよ。まだまだ許してない。これが最後だよ、どうする」
修はソファーの背もたれに背中を預け、帰ってくるはずの模範解答を待つ。
霧吹は修の目を見て放さない。
そのままの格好でタバコに火をつけて、肺に深ーく一服入れる。
たばこの煙を修の顔に向けて吐き、修はその煙を黙って顔に受け止めた。
同じ顔をしているのに一方はにこやかな笑顔、そしてもう一方は今にも飛びかかりそうなくらい恐ろしい顔をしている。
「......分かった」
霧吹は灰皿じゃなく、大理石のテーブルに一服しかしていないタバコを押しつけた。
修はその一連の動作を笑顔のまま目だけで追う。
「それじゃ......奪ってみろよ」
潰したタバコをテーブルに放り投げた。
「え?」
修の顔から笑顔が消え、霧吹と同じくらい黒い顔になった。
「昔俺がやったように、今度はお前が俺から奪え」
にやりと笑った霧吹の笑みは修にそっくりで、黒い顔をした修は霧吹にそっくりだ。
同じ穴の......だなぁと、心の中で溜息をつく次郎は、何食わぬ顔をして二人の子供の喧嘩を見守ることしかできなかった。
「そもそもあの子は将権のものなの?」
修の顔に笑顔が戻った。フル回転で思考を巡らせた結果の結果が頭にたたき出された。
ん? そういや、俺のものじゃなかったような気もするが、一緒にいる限り、俺のものだろう。いや、そうなるだろう。と、自己中心的な考え方の霧吹に次郎が口を挟んだ。
「修さん、葵さんは犬山のおやっさんの大事な客人で、ある奴から守ってくれと頼まれてるんですよ。ですから、修さんが思っているようなんじゃないんですよ」
「やっぱりね。だったら奪うんじゃないよね」
簡単! とばかりに霧吹に微笑みかける修は絶対の自信を覗かせていた。
口角を上げてにやつく霧吹は、この上なく怖いお顔になっていた。
アタッシュケースに詰められている勇気の印を受け取ると、修はお洒落な仕草で霧吹よりも先に部屋を出た。
霧吹は今しばらく部屋でじっとしていた。
「若」
気にした次郎が声をかけたが本人は知らぬ顔だ。
「おう、行くか」
霧吹はようやく席を立ち、修の後を追うように外へ出た。さっきまで葵がいたところに、その姿は無く、ついでに修の姿もなかった。霧吹は眉間に皺を寄せ、入り口前で立ってる修の若い奴らに声をかけた。
「おい、ここにいた女はどうした?」
「ボスと一緒にこちらに」
修の舎弟の一人が手を差しだし、隣の部屋へ案内した。
ホッとする霧吹と次郎はその舎弟に続き、隣の部屋へ案内された。
部屋の中へ入ると、そこには野兎のおやっさんと修が葵を囲んで何やら話をしている最中だった。
葵はたじたじモード全開でどうしたらいいのかの対応に困っているように見えた。
目の前に、見た感じからして悪そうな男が二人並んでいるわけだから、一般人の葵にしてみたりゃそれは末恐ろしい絵に映ったことだろう。
「おい、帰るぞ」
霧吹は葵にそう言い捨てた。
その声に反応した葵は、起き上がりこぼしのように、ゆらゆらと揺れていた体を唐突に起き上がらせ、霧吹と次郎の方に小走りで走って来た。
『助かった!』別に何をされていたわけでもないけれど、この場から逃げ出したい葵は咄嗟に小さく声に出していた。
野兎のおやっさんと修が葵の言った一言に、ぷふっと顔を見合わせて笑ったことなど葵は気付く訳もなく、呼ばれてすぐに立ち上がるそんな動作は、まるで「来い!」をされている犬のようにも見えた。
「それでは葵さん、その話はまた後日ということで」
修が席を立ち、葵に声をかけたが、葵はそんな修を見て、頭を小さく下げただけだった。
霧吹と次郎は何の話があったのか検討もつかない。修と野兎将修の表情を見れば、聞いたところで何も言わないし、見返り無しでは教えないというのは、一目瞭然なので、ここで何かしら聞くのもバカらしいと思った二人は、何も言わず、事務所を後にした。
帰りのリムジンの中で葵は霧吹の顔を見ることなく、自分のつま先をじーっと見つめていた。手渡したワインも飲むことなく手ににぎられ、その味が変わっていくことにすら気付いていない。ワインは、「さっさと飲め!」と言っているが、当の葵にはそんなワインの言葉は通じず、修に聞いた何かしらの話を考えるのに精一杯というかんじだった。
それを知ってか知らずか、三歩歩けばすぐに忘れる霧吹の出来のいい脳みそは、葵が何に悩んでいるのかなんて気にするわけもなく、酒の事で精一杯になっていた。
残念な葵は、修にされた話を誰にするともなく、自分の心に閉じ込めて闇に葬りさるしか方法がなかった。
それをバックモニターで確認する次郎は、溜息混じりに首を横に振った。