Ⅱ 異世界・ファスティアス国
「…あの、大丈夫ですか?」
意識が朦朧としていた心音の耳に、綺麗な女性の声が届く。
心配そうに気遣うその声に、心音ははっきりとしない意識の中、言葉を理解する。
(大丈夫ですか?…じゃないですよ!階段から落ちてあちこち痛いのなんのって……あれ?痛くない!!?)
パチッと目を開き、意識を覚醒させると上半身を起き上がらせた。
そこには綺麗な緑色の髪に、同じような緑色のドレスを着た女性が心音を心配そうに見つめていた。
しかし心音が目を覚ましたことに安堵し、女性は上品な笑みを浮かべた。
「よかった…倒れていらっしゃるから、心配しましたわ」
「え、あの…あ、ありがとうございます?……って日本語!!?」
「えっと…ニホンゴ…とは何のことでしょう?」
心音の言葉に戸惑いを見せた女性は見るからに日本人ではなかった。
一瞬何かのアニメのコスプレかな?とも思った心音だったが、見るからに外国人。という風な雰囲気が漂っていた。
そのため、心音は益々訳が分からなくなる。
するとまた別の声が、心音の耳に届いた。
「アンタ…もしかして異世界人か?」
「え…異世界人??」
(…てか、おじさんは…誰?)
突然話に割り込み、女性の隣に立つ髭の濃い男に、心音は首を傾げる。
彼もまた上品なタキシードに身を包み、どこかの貴族のように少しふっくらとした体型をしていた。
「なんだ?そんな事も知らずに、この世界に来たのかい?」
どこか馬鹿にしたように言う男性に、心音は少しばかりカチンときていた。
(目が覚めていきなり訳の分からない話をされたら、誰だって不思議に思うっての…!)
だが改めて冷静になった心音は、何かしら情報を持っている目の前の髭男を怒らせるのは良いことではないと判断し、気を静めるため息を吐く。
「まあ、説明するより見た方が早いのではないかな」
「見る…?」
髭男の言葉に立ち上がった心音を、男の隣にいた先程の女性が手を取り、数歩先の開けた場所まで案内してくれる。
よく見れば心音が倒れていた場所は、赤いレンガ造りの壁と壁の間。
よく洋画などに出てきそうな路地裏と呼ばれる場所に似ていた。
そして空を見上げれば、太陽が真上にあり、昼頃だと思われた。
(…此処、どこ?私…夕方、神社の階段から落ちたんだよね?…あ。あれか!夢か!
……いやいや、そんな訳…。とりあえず、少なくとも死んだ訳じゃないんだよね?だって頭に輪っかないし?)
そんな呑気な考えを浮かべ、頭に手をやる。
しかしそこには輪っか所か、たんこぶ一つ見当たらなかった。
不思議な事この上ない今の状況に、追い討ちをかけるように、心音の目に見たこともない光景が飛び込んできた。
「な、に…これ!?」
目を見開く心音の目の前には、忙しなく行き交う大勢の人。
女性たちは心音の隣にいる女性のようにドレスに身を包む者が多く、男性に至っては先程の髭男のようにタキシードのような格好をする者もいれば、薄着のタンクトップにズボンといった如何にも船乗りや商人風な服装の人達が多くいた。
そんな彼らが行き交うそこは、ヨーロッパ風の建物が立ち並び、パン屋やレストランの食事処や、それこそドレスやネックレスなどの売っている洋服店。
日本風に言うなれば“商店街”のような場所に、心音は立っていた。
「ふふ、此処はね国で一番活気ある街なの!何も知らないアナタでも、十分に楽しめるわ」
口元に笑みを浮かべた女性は、驚きのあまり固まる心音の背に手を置くと、一歩踏み出そうとした。
「ま、待って下さい!私は…!」
この状況についていけず、心音はパニックに陥る頭で必死に考えを巡らせる。
(お、落ち着け私!これは……そう!さっき言ったみたいに夢だって!そう、何か悪い夢…のはず!)
心音は一気に頬をつねる。
けれど痛さは本物で、心音の目に涙が浮かぶ。
それは痛さ故の涙なのか、この状況への恐怖なのか心音自身も分からなかった。
「なに、心配する事などないよ、お嬢さん。異世界人は珍しくもないし、なんなら私達が君の面倒を見てあげるから」
「ええ!大賛成よ!」
遅れて後ろからやってきた髭男が、心音の肩に手を回す。女性も最初に握っていた手に力を込めた。
ああ、なんて優しい人達だろう。
見ず知らずの私に、こんなに優しく…などと思う心音ではなかった。
(さっきから異様に私に触ってくるし、何だか…本心じゃないみたいに見える…。)
心音が二人を訝しみ、一歩も動くことをしないでいると、髭男たちの表情が変わった。
それは今までと同じような笑みを浮かべているが、伝わってくる感情に笑顔とは裏腹の苛立ちに似た感情があることに心音は気づいた。
「此処にいたって、何もありゃしないよ?」
「そうそう。俺達と一緒にくれば、何不自由なく暮らせるぞ?」
ついには言葉使いまで変わった髭男達に、心音は恐怖を覚え離れようとした。
だが男には肩に手を回され、女性には赤くなるまで強く手を握られ、逃げることは叶わなかった。
「さあ、俺達と一緒に来い!!」
「!!…やっ、放して!」
(…誰か…助けてっ!!)
助けを求めようと心音は大勢の行き交う人々を見る。けれど誰もが見て見ぬ振りをし、心音と目を合わせる者はいなかった。
(…なん、で…っ)
恐怖と絶望。
二つの感情に、心音の体から力が抜ける。
それを見た髭男がニヤリと口角を上げ、強引に歩き出させようと一歩踏み出したその時。
「何をしている。」
たった一言。それだけなのに相手を一瞬にして凍りつかせてしまいそうな、男性の声が響いた。
ビクッと体を震わした髭男と女性は、ゆっくりと声の方に顔を向ける。
「答えろ。」
低く重い声に「ヒッ!」と短く悲鳴を上げる髭男たちに、心音も其方へ視線を向けた。
そこには綺麗な長い銀髪を肩の辺りで一つに結い、金の細工が施された目元だけの仮面を付け、青色のマントを羽織った男性がいた。
仮面の所為もあり、表情は読み取ることが出来ない。
けれど低く発せられたその言葉には、確かに怒りの色が滲んでいた。
「お、俺達は…何もしていない!」
「そ、そうですわ!この者が具合が悪くなったと言うものですからっ!」
髭男と女は顔を青くし、心音から離れる。
それを見た仮面の男は、サッと心音の腰に手を回した。
普段の心音ならば「痴漢!スケベ!」と、暴れるなり何らかの行動をしただろう。
だが震える足で立つのもやっとだった心音は、崩れ落ちそうになるのを無言で支えてくれた男の行動に感謝した。
「もういい。…二度と手を出すな」
「ヒィッ!!?」
仮面の奥から鋭く睨まれ、髭男と女は走り去っていった。
「たす、かった…の?」
呆然とそう呟いた心音に、仮面の男が答えた。
「あれは“人攫い”の一味だ。別の名を“異世界人身売買者”だ」
「え…!?」
人身売買。聞いたことはあるが、現実味のないものだと感じていた心音は、自分が今まさに売られそうになっていたことを知り、身震いする。
それと同時にある違和感のあった言葉を思い出す。
「あの…異世界、人身売買者…って…」
不思議そうに訪ねた心音を放し、仮面の男は彼女を見下ろした。
「…まず最初に、礼を述べるのが礼儀じゃないのか?」
「はい?…あ、えっと…助けて頂き、ありがとうございました」
気に障るような言い方に一瞬ムッときた心音だったが、助けてもらったことは紛れもない事実だったため素直に頭を下げた。
それを無言で見つめていた仮面の男は、そのまま何も言わずに心音に背を向ける。
「え、ちょっと!?」
「これからは気をつけるんだな」
「あ…。ま、待って!!」
ギュッと心音はマントを掴んだ。
掴まれた男の方は立ち止まり、振り返らずに口を開く。
「なんだ。」
「あの…」
心音は小さな声でそれしか言えず、マントを掴む手は震えていた。
それは先程の恐怖が残り、一人此処に取り残されるのに抵抗があった事と、いきなり見知らぬ場所に一人という状況に不安が心を占めていた為だった。
一度周りの人達に見捨てられた心音は、そこに助けに入ってくれた目の前の人物に頼る他なかった。
(…なんて言ったらいいのか、分からないよ。…どうしてこんな…)
混乱する心音の目に涙が溜まっていく。
それを感じ取ったのか、仮面の男は振り向くと心音の手を握った。
「……。ついて来い」
少し乱暴に、けれど握る力は優しく、仮面の男は心音の手を引いて歩き出した。
あの髭男たちに向けた低い声ではなく、落ち着かせるような優しい声と、自分より少し大きな手を見つめ、心音は少し安堵する事が出来たのだった。──
どこへ向かうのか。そんな疑問を口にすることなくついて来る心音に、仮面の男は静かに口を開いた。
「貴様はこの世界の者ではない。その服装からしても、貴様は異世界人だ」
「それって…私はトリップみたいなことをしちゃったってこと!?」
驚きのあまり仮面の男を凝視する心音に、男は頷く。
「誰かがお前を喚んだのか。もしくは何らかの影響で起きた狭間に巻き込まれたか、だ。トリップ…という言葉は知らないが、とっとと戻る方法を探して、元の世界に帰った方がいい」
「そんな…」
仮面の男の話に、心音はぺたんと座り込む。
それは余りにも現実離れした内容に、気が抜けてしまった為だった。
「へたり込んでいる暇があったら、歩け」
「っ…。」
冷たく言い放った男に、心音は足を蹴り飛ばしたくなったが、今の状況では目の前に立つ男の言うことが正論だと、自分を奮い立たせた。
立ち上がった心音を満足そうに見つめていた仮面の男は、またスタスタと歩き出した。
「ここは“ファスティアス国”。商売を起点とした国だ。それこそこの国生まれたばかりの赤子でさえ、年が七つになれば仕事をしなくてはならない国なんだ。」
「え、七歳で!?」
男に遅れぬよう、少し早足になっていた心音は驚きの声を上げる。
七歳と言えば小学校一年生くらいの年だ。彼女も小学校に通っていたその頃など、平仮名やカタカナを習っていただろうと思い返す。
そんな年の子供まで働かなくてはいけない国が在ることに、彼女は驚きを隠せなかった。
「だがそんな年の子供が働ける場所などない。だから…あの者たちのように人攫いを仕事にする者が多いんだ。
小さな者でも、集まれば大人の力と同等にもなる。そして大人になれば、それを本職にする。
…この国の者はその光景に慣れている。そして慣れているからこそ、見て見ぬ振りをしてしまう。でなければ…自分たちが生きていけないからだ。」
スタスタと歩きながら、仮面の男は心底その現実にうんざりしているように言った。
それを黙って聞きながら心音は、はぐれないように男の隣に並んで歩く。
「そんなの…酷い」
それは心音の本心だった。
けれどその言葉に男は立ち止まると、彼女からは見えぬ目を鋭く光らせた。
「嘸や平和な世界から来たようだな。…こんな世界から、とっとと立ち去れ…異世界人」
「………。」
(そりゃあ…帰り方が分かってたら、今すぐ帰ってるわよ!だけど…)
右も左も分からない見知らぬ場所で、どうやって帰る方法を探せばいいのか?
心音には今どうすべきかも分からなかった。
頼れる相手、知り合い、家族すら今此処にはいないのだ。
一人暗闇に取り残されたように、心音の目の前は真っ暗になった。
「……。おい…お前、名は?」
「へ?…御加瀬心音、です」
呆然と立ち尽くす心音の耳に、仮面の男の声が届く。
その声はどこか優しげだった。
しかしそれはすぐに嫌みな言い方へと変わる。
「簡単に名を明かすなど、軽率だな」
(なっ…!アンタが聞いたからじゃない!)
怒りのまま声に出そうとした心音を見て、男は口元しか見えない顔を和らげた。
「ふ…異世界人は皆こうなのか?」
「!?…それを言うなら、貴方だっておかしな仮面してるじゃない!」
そう反発した心音に、仮面の男はふっと笑うと歩き出し、こう言った。
「これは俺の仕事上、仕方なくしている物だ。それと…助けてしまった以上、放っておくことはしない。そこまで俺は、鬼ではないからな」
「あ…」
その言葉に、心音の目の前が少しだけ明るくなったような気がした。
「だから、安心しろ。」そう言われているようで、心音は少しだけ笑みを浮かべると男に駆け寄った。
「そういえば、貴方の名前は?」
「俺は…そうだな“シルバ”。とでも呼んでくれて構わない」
「そっか…ありがとう、シルバ!」
「既に呼び捨てか…」
ムッとした表情を浮かべる仮面の男…シルバの隣で、心音は声を上げて笑った。
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