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蝶放つ

作者: 四谷ゆとい


 蝶は放たれた。彼女は月夜を舞い、その羽根で自由を謳歌する。

 死という絶対の闇すらも彼女を拘束する術を持たない。

 ああ、なんと潤しい夜だろう。




***


 分倍香苗には或る秘密がある。彼女はそれを口外しないし、またその秘密の核を担う存在も、その口外を望まない。それは籠の中に大切に仕舞われていて、静かにその蓋を開く機会を待っているのだ。


「絵里は起きないかな」

「この娘は鈍感ですもの、大丈夫よ」


 和室の端に置かれた雰囲気に溶け込んでるとは言いがたい木調のベッドの上で、いびきをかいているのはこの部屋の主である絵里だ。香苗と和服を着た女は部屋の真中でそれぞれ向い合って座り、一人夢を見ている彼女の間抜けな寝顔を振り返っていた。


「そもそもこの部屋へやって来てから早8年、絵里は私の事を一度たりとも認識したことがあった試しがないわ」

「白子の事を認識できる人のほうが少ないと思うけど」


 それもそうね、と白子は微笑んだ。その暖かみを感じさせる表情に、香苗は彼女のことを認識できない絵里の不運を哀れんだ。美しい顔立ちと人を惹きつける燃えるような赤い瞳、その名前の通り白く輝く薄い紫色の髪が表情の暖かさと大局的に少し冷たい印象を与える。

 開け放たれた障子の向こう側からゆっくりと昇って来る月の光が部屋を包み、床に二つの長い影を投じている。

 彼女がこの部屋に幽閉されてもう100年近くの年月が経っているという。肉体を失ってなお此処から離れることを許されない彼女は、その事情を知るものを失って50年、来る日も来る日も自分を「認識できるもの」が此処を訪れることを待ちわび、ただただ月夜にこの障子の隙間から外を眺める事のみを楽しみとしてここに居たと言う。

 丘の上に建つこの屋敷の丁度南に面したこの部屋からは麓の町の夜景が一望できる。絵里が家族にねだってこの部屋を自室としたのはこれが理由であり、最早この部屋が何の意味を持つ部屋かを知らぬ彼女の両親はそれを快諾したのである。一家に彼女を認識できるものは居らず、白子がその部屋に居る事を知る由はなかった。

 そんな部屋に香苗が来たのは2ヶ月ほど前の事である。

 彼女が深夜目を覚ますと、今日のように開け放たれた障子の前で、銀色の着物を纏い、一人外を眺める女が居ることに気づいた。霊障の類に多大な好奇心を寄せていた彼女は迷うこと無く彼女に話しかけた。


「まだあの子には言ってないんでしょう?」

「うん、絵里はオカルト苦手だからね」


 言った所で絵里が白子を認識できるようになる訳ではない。余計な話をきかせてこの家から引越しなどの大事になってしまっては元も子もない。彼女一家が此処を離れるということは、香苗もこの家の門をくぐる手段を失うことを意味するのだ。


 何かと口実を作りながらこの部屋に泊まり、その回数は既に両手では数えきれない程になった。そんなある日、叶えは白子に相談を持ちかけられた。


「ねぇ、私をこの籠の中から出してくれないかしら?」


 彼女は口元を扇子で覆い隠し、目下を流れてゆく列車の明かりをうっすらと細めた目で眺めながら、静かに投げかけた。


「私という蝶が羽ばたく力を失う前に、もう一度この広い世界を飛んでみたいと思うの。私が生まれた時分と比べものにならないほどに広く、そして美しくなった世界。それを知ってしまった私に、広大な花畑を前に地に堕ちることは許されない……蝶として生まれたのだから」


 静かに立ち上がった彼女は赤い目で目の前に広がる世界をさも羨ましげに見下ろした。


「そう思うことは罪かしら」


 その言葉に答えず、私はただ彼女の横顔を眺めていた。男と女が平等でなかった時代。彼女の家筋では女が生まれることが許されなかった。生きる権利のみを守られ、生まれながらにして籠の中に置かれた彼女が外の世界への開放を望むことに何の謂れがあるだろうか。

 魂だけとなった彼女を、例え天に昇るまでの僅かな間だけだとしても、この世界に放ってやることを香苗は誓った。現状として唯一籠を開けることができる者として、それをためらう理由はなかった。


 静かな時が過ぎて行き月が真上にやってきた頃、香苗は徐に立ち上がる。


「それじゃ、始めるよ」


 その言葉に白子はただ微笑むと、窓の外へと視線を戻した。冷静を装ってはいるが、開放への喜びを隠し切れず落ち着かないといった様子に見えた。

 叶えは部屋の隅においてあった鞄から一枚の「紙切れ」を取り出した。表面に書かれている文字からどうやらそれが何かを司る魔符である事がわかる。


「これね、先輩が何かあった時のためにって渡してくれたんだ。本当はナイフとかに巻きつけて使うんだって」


 実際先輩から渡されたときには大きな鋼鉄製の針に巻き付いていたものだった。オカルト好きで心霊スポットやパワースポット巡りをする彼女を心配しての事だろう。

 まだ少し丸まりが残っている魔符を手に握りしめ、香苗は部屋の東側、床の間にある一本の柱の前に立ち深呼吸をする。左手に魔符を持ち、右手でその手首を支える。肩幅より広めに足を広げ、一気に柱へ魔符を押し付けた。

 その瞬間、何かがショートするような強い破裂音が聞こえ、同時に白い閃光が走る。磁石の同極同士を近づけたような強い反力に押され、香苗はその場に尻餅をついた。 閃光は壁を走り、天井に至ると四散し格子状に広がってゆく。


「み、見えない牢になってたんだ……!」


 水紋のように放射状に広がってゆく格子はやがて部屋を覆い、一際激しく光を発すると、再びの破裂音と共に霧散した。格子を構成していた「何か」がまるで雪のように宙を舞い、畳に落ちては溶けるように消えていった。

 しばらくその光景に目を奪われていた香苗だったが、一向に目を覚まさない絵里の寝返りの音で現実に引き戻された。思い出したように窓際を振り返ると、月明かりを背後に白子が立っていた。

 彼女は畳の向こう側、渡り廊下に立ち、こちらを見下ろしていた。顔は影になっておりその評定は伺えないが、彼女の紅の瞳が爛々と輝きこちらを見据えているのははっきりと分かる。


「し、白子……」


 香苗の言葉には答えず、白子は一歩前へ出た。畳を踏みしめる乾いた音に、何故か香苗の背筋に冷たいものが走った。


「な、何……どうしちゃったの……?」


 両者の距離があと2,3歩と迫った時、白子の顔に先程まで見せていた微笑みなど丸で幻であるかのような冷たい表情が浮かび上がった。凍りついたように動かない身体から汗がにじみ出る。


「香苗」


 やっと白子から発せられた言葉は、最早香苗の知る白子のそれではなく、底の見えない闇から沸き上がる、心臓を鷲掴みされるような響きをたたえていた。


「蝶は何にも拘束されず宙を舞う」


 白子は帯に手を当てる。そして円弧を描き頭上に振り上げられたその手には抜き身の脇差が握られていた。


「そこに理由はあると思うか?」


 ゆっくりと降ろされる腕。刃が月明かりを反射し鋭く光る。香苗は言葉を発することも出来ずにただ首を横に振った。


「その通りだ、そこに理由など無い。だが強いて言うとするなら」


 空を裂く鋭い音がした。いつの間にか腕は再び宙高く掲げられている。1つ違いがあるとすれば、その刃から紅い雫が滴り落ちている事。


「欲を満たす為、だ」


 その言葉が終わると同時に、白子の紫色の髪が、白い肌が、銀色の着物が、返り血を浴びて赤く染まり出す。彼女は左手を前にだし、噴出す血を実感し、人を斬ったという事実に酔いしれるようにまだ温かい飛沫を感じていた。


「お前も美しい花だ。実に瑞々しい。お前に停まれて光栄だったよ」


 白子は踵を返し廊下へ出た。白く静かな月光が、紅にそまった彼女を妖しく照らし出す。妖艶なその姿はまるで闇に静かに揺らめく炎のようだった。

 血の滴る脇差を鞘へ収めると、未だに明るさの衰えない市街地の夜景に視線を落とした。


「だが私は蝶ではない。蜜は要らぬ。満たすべきは食欲ではない」


 ガラス戸をすり抜け外へと降り立つ。頬を撫でる冷たい夜風が彼女の開放を静かに祝福していた。


「この手で生を謳歌する花を美しく散らせたい……恐らくこれは」


 白子はかけ出した。庭を支える積石を踏み、車道端に立っていた道路標識を越え、目下に広がる美しい夜景に飛び込む。


「支配欲」





 蝶は放たれた。彼女一族の雌にのみ流れる血の「欲」を満たす為。彼女は月夜を舞い、その羽根で自由を謳歌する。死という絶対の闇すらも彼女を拘束する術を持たない。ああ、なんと潤しい夜だろう。

 だが、放たれたものは本当に蝶であったのであろうか?

にゃー

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