第6話 勇者一行壊滅寸前、するめが本気を出す
ヴァルガンが、ついに動いた。
「全軍総攻撃。今日中に片をつける」
低く短い命令が、魔王軍全体を揺らした。
憤怒軍の主力部隊。暴食軍の兵站部隊。嫉妬軍の遊撃隊。すべてが一斉に前線に押し寄せた。
人類側の防衛線は一時間で三箇所が突破され、王国連合の後方拠点にまで火が及び始めている。
するめは省力化支援室で遺晶板を見ていた。
画面が真っ赤だった。
「……最悪です」
戦況データが次々と更新される。人類側の拠点が落ちるたびに、地図上の色が変わる。
勇者一行は、ヴァルガンの主力部隊と正面衝突するルートに入ってしまっている。
「あの人ほんと仕事が早いんですよ……」
するめはため息をついた。
が——今回は、ため息で済む状況ではなかった。
遺晶板の地図を拡大する。
そして、するめの顔色が変わった。
「……娯楽アーカイブ塔」
古代魔導文明が残した、最大級の文化遺産。古代の音楽、映像、遊戯、文学——ありとあらゆる娯楽が記録・保存された巨大施設。
するめが何年もかけて保守し続けてきた施設。
それが——ヴァルガンの総攻撃の戦線上にあった。
このまま戦闘が拡大すれば、娯楽アーカイブ塔は戦場に飲み込まれる。
するめの手が、遺晶板の上で止まった。
しばらく——五秒ほど、するめは何もしなかった。
それから。
「……はぁ」
するめは立ち上がった。
保守外套を羽織り、接続杖を握り、黒手袋をはめた。遺晶板を懐に入れ、携帯酒瓶を腰に下げた。
省力化支援室を出る直前、マドロームが声をかけた。
「どこへ行くんだい?」
「保守点検です」
「今? 総攻撃中だよ」
「だから行くんです」
マドロームが少し驚いた顔をした。とても珍しいことだった。
するめは振り返らず、歩き出した。
◆
するめが本気を出すと、世界が少しだけ変わる。
まず、古代魔導通信網をフル稼働させた。
前線すべての遺跡に設置された中継局を接続し、戦場全体のリアルタイムデータを一人で処理する。管理知性体としての演算能力を、初めて全開にした。
次に、結界システムを再構築した。
ヴァルガンの先鋒部隊が攻め寄せている三箇所の防衛線に、古代の結界を再起動させた。完全な防壁ではない。だが、侵攻を遅らせるには十分だった。
さらに、補給路を確保した。
古代の転移装置の一部を起動させ、孤立しかけた人類側の拠点に物資を届けた。
転移装置は本来なら使用に厳重な手続きが必要だが、するめは保守担当として正規のアクセス権を持っている。
そして——情報を流した。
勇者一行に、ヴァルガンの部隊配置、攻撃パターン、弱点をまとめたデータを匿名で送った。
今回は微弱な誘導信号ではない。遺晶板のデータを丸ごと、勇者が持つ方位磁石に投影した。
するめの外套の古代文字が、激しく光っていた。
普段の淡い光ではない。全力で古代遺産に接続している時の、まぶしいほどの輝き。
「処理負荷が高いので……少し黙っててもらえます?」
誰にともなく呟いて、するめは走った。
遺跡から遺跡へ。中継局から中継局へ。結界装置から転移装置へ。
実質——するめが戦線全体を裏から支えていた。
◆
勇者一行は、するめの介入にまだ気づいていなかった。
だが——戦況が変わり始めたことには、気づいていた。
「リュシア! 敵の動きが鈍ってる!」ガルナが叫んだ。
「結界が——再起動している……!」リュシアが息を呑む。
「方位磁石に……データが映し出されています」セレスが目を見開いた。「敵の部隊配置、攻撃パターン、弱点——すべてが——」
三人の目が合った。
「あの方だ」リュシアが言った。
「間違いありません」セレスがうなずいた。「この規模の介入は、今までとは次元が違う。通信網、結界、転移装置、情報——すべてを同時に運用している」
「すげえ……」ガルナが呟いた。
「仮説ですが」セレスの声が、ほんの少し震えていた。「今、戦線全体を支えているのは——あの方、一人です」
リュシアの目から涙が溢れた。
「あの方は——なぜここまで——」
「考えている暇はありません」セレスが立ち上がった。「あの方の介入を無駄にしないでください。今が、反撃の好機です」
ガルナが大剣を構えた。
「おう! あいつが走ってくれてるなら、俺たちはぶん殴る方を担当だ!」
三人は、戦場に飛び出した。
◆
何時間経ったのか、するめにはわからなかった。
外套の古代文字は光り続けていた。接続杖を握る手が震えていた。遺晶板の画面がぼやけていた。
だが——娯楽アーカイブ塔は、まだ無事だった。
するめは結界をもう一枚張り、転移路を確保し、通信を中継した。
その間に——勇者一行がヴァルガンの先鋒部隊を食い止めた。
戦線は膠着に持ち込まれた。ヴァルガンの総攻撃は、その日中に決着をつけることができなかった。
日が沈むころ。
するめは、娯楽アーカイブ塔の前にいた。
古代の巨大建造物。壁面に刻まれた無数の文字。中には、失われた文明のありとあらゆる娯楽が眠っている。
するめは塔の壁にもたれかかり、地面に座り込んだ。
外套の古代文字の光が、ゆっくりと消えていく。
接続杖を手放し、携帯酒瓶を開けた。一口飲む。
「……無事でしたね」
するめは、塔を見上げた。
「娯楽アーカイブが壊れたら……さすがに、立ち直れないので」
小さく呟いて、もう一口飲んだ。
◆
戦場の反対側。
勇者一行は、互いを支えながら後退していた。
全員、傷だらけだった。だが——生きていた。
「あの人のおかげです」リュシアが言った。
「ああ」ガルナがうなずいた。
セレスは黙って、遠くを見ていた。戦場の向こう——古代の巨大な塔のシルエットが、夕暮れの空に浮かんでいた。
「あの方は」セレスがゆっくりと言った。「敵であるはずなのに、敵とは思えない」
リュシアは涙を拭いて、うなずいた。
「ええ。あの方は——敵ではありません」
ガルナは塔の方を見て、小さく笑った。
「今度こそ、ちゃんと礼を言いたいな」
三人は、夕暮れの中を歩いた。




