第1話 怠惰の悪魔、人類滅亡に青ざめる
怠惰軍の省力化支援室は、魔王城の最も奥まった一角にあった。
日当たりが悪く、通気も悪く、他の幹部が滅多に足を運ばない。要するに、誰にも気づかれない場所だ。
ぐうたらするめにとっては、理想的な職場だった。
「はぁ……」
薄暗い部屋で、するめは積み上がった書類の山の前にうつぶせていた。
黒い保守外套を椅子の背にかけ、大きめの黒縁メガネを額に押し上げ、半分伏せた目で遺晶板の画面をぼんやり眺めている。
画面には怠惰軍の日報フォーマットが表示されていたが、三行目から先が白紙だった。
「……めんどくさ〜い」
怠惰軍・省力化支援官兼古代遺産保守担当。
それがするめの肩書きである。
古代魔導文明が残した遺産——自動醸造酒蔵、音楽記録結晶、娯楽アーカイブ塔など——の保守点検を行うのが仕事だ。
もともとするめは、その古代魔導文明が遺産管理のために造った補助知性体の一体だった。
文明が滅んだあと魔族に回収されて「便利悪魔」として再利用されているわけだが、正直なところ、するめ自身にそういう大層な来歴の自覚はほとんどない。
自分はテンプレーターだ。量産型の管理AIだ。たまたま壊れずに残っていただけだ。
それが自己認識のすべてである。
とはいえ、管理知性体としての適性だけは本物で、古代遺産への接続・操作において右に出る者はほとんどいない。
だからこそ、他軍が誰もやりたがらない「地味で危険な保守業務」を、立場の弱い怠惰軍が押しつけられ、
その中でも一番有能なするめに仕事が集中するという構造が出来上がっていた。
怠惰軍。
名前だけ聞けば楽そうだが、実態は真逆である。
無駄な会議。日報。保守点検の義務。書類の山。省力化提案の義務化。そして他軍からの尻拭い。
怠惰を理念に掲げておきながら、内部だけはやたらと面倒くさい。
しかもその面倒の大半は、するめの直属上司が原因だった。
「するめくん」
ねっとりとした声が背中にかかる。
怠惰軍運営卿マドローム。自分では一切動かないくせに、部下にだけ異様に細かい男である。
「……何ですか」
「憤怒軍のヴァルガン将軍が、また領域を三つ焼いたそうだよ」
「はぁ」
「それに伴って、前線遺跡の保守点検スケジュールが前倒しになる。あと、暴食軍が略奪した区画の後処理と、傲慢軍に提出する四半期報告書の更新もある」
マドロームは自分の椅子に深く沈み込んだまま、するめの方を見もしない。
「全部、君がやってくれるかな」
「……わたしがですか」
「君の方が早いから。省力化だよ」
「それは省力化じゃなくて、負荷の集中ですけど」
「いい切り口だね。日報に書いておいて」
するめは心の底からため息をついた。
「……はぁ」
こうして今日もまた、怠惰の悪魔が怠惰軍で一番働いている。
◆
夕刻、するめは保守外套を羽織り、接続杖を片手に前線遺跡の点検に出た。
黒い外套の裾に走る古代文字は、普段はただの模様だ。だが接続杖を遺跡の端末に触れさせると、それが淡く光り、地図やログが虚空に投影される。
点検自体は手慣れたものだった。
結界の劣化率を確認し、動力炉のパラメータを調整し、暴走しかけた防衛装置を保守モードに戻す。
こういう作業は、管理知性体であるするめにしかできない。
正確に言えば、するめ級の管理知性体は他にも少数存在するが、怠惰軍が押しつけられたエリアではするめが実質唯一の担当者だ。
「……ん?」
遺晶板に流れてくる戦況データを何気なく眺めていて、するめの手が止まった。
前線の地図が、おかしい。
ヴァルガンの憤怒軍が制圧した領域が、先月の倍以上に膨らんでいる。
しかもその侵攻ルートは、するめが保守を担当している遺産群のすぐ近くを通っていた。
「……ちょっと待って」
するめは遺晶板を操作し、もう少し広域のデータを呼び出した。
人類側の王国連合の防衛線。勇者一行の動向。教会騎士団の配置。魔王軍各軍の進軍状況。
全部を俯瞰して、するめは眉をひそめた。
「……これ、普通に終わりますね」
人類が、ではない。
人類文明が、だ。
ヴァルガンの侵攻速度が異常すぎる。あの男は即断即決で、時間をかけることを何より嫌う。
「遅い。焼け」「効率が悪い。街ごと落とせ」——そういう男だ。
だから彼の進軍は早く、そして容赦がない。
このペースでいくと。
するめの頭の中で、管理知性体としての演算が自動的に走る。
——三ヶ月以内に、王国連合の主要都市の半数が陥落する。
——半年で、人類側の組織的抵抗が困難になる。
——一年後には、人類文明の大部分が機能を停止する。
つまり。
酒を作る技術者が消える。
流通が止まる。
劇場が閉じる。
音楽が途絶える。
遊技も、宴会も、祭りも、全部終わる。
だらだら楽しむ平和な文明が、終わる。
「…………」
するめは遺晶板を閉じ、腰の携帯酒瓶を手に取った。
一口あおる。安い果実酒の、甘酸っぱい味が口に広がった。
「……困ります」
人類を救いたいわけではない。
そんな高尚な動機は一ミリもない。
ただ——文明が消えるのが困る。
酒がなくなったら困る。
つまみ文化が消えたら困る。
音楽が聴けなくなったら困る。
古代の娯楽アーカイブが失われたら困る。
世紀末になったら、ぐうたらできないではないか。
「はぁ……ほんと、めんどくさ〜い……」
するめはもう一口酒を飲んで、渋い顔で遺晶板を開き直した。
今度は勇者一行のデータを呼び出す。
女勇者リュシア。真面目で正義感が強い。戦闘力は悪くないが、情にもろく判断が遅れがち。
女賢者セレス。冷静で観察力が高い。頭はいいが、実戦で頭の回転が追いつかない場面がある。
女戦士ガルナ。脳筋。直感型。突撃力はあるが単独行動で危うい。
三人の戦績を見て、するめは静かに断言した。
「これ普通に負けますね」
勇者一行は弱くはない。だが、ヴァルガンの軍勢を相手にするには、情報も装備も補給も足りていない。
このまま放っておけば、半年以内に壊滅する。
「…………」
するめは酒瓶を置き、接続杖を握り直した。
しばらく考えた。
考えたくなかった。考えると面倒なことになるのはわかっていた。
でも——今年の果実酒の仕込みが、もう始まっているのだ。
南部の醸造区画で、人間の技術者たちが、今まさに新酒の準備をしている。
するめが何度も保守点検して、ギリギリ動かし続けている自動醸造酒蔵を使って。
あの果実酒が、するめは好きだった。毎年の新酒を楽しみにしていた。
それが——消える。
「……はぁ」
するめの指が、遺晶板の上を走り始めた。
勇者一行が今いる位置。周辺の地形。魔王軍の哨戒ルート。結界の死角。補給物資の隠し場所。
小さな裏工作だった。
魔王軍の通信を少しだけ遅延させる。哨戒兵の巡回ルートに微細なノイズを混ぜる。
結界の穴を一箇所だけ、ほんの数時間開けておく。
それだけだ。
大胆なことは何もしていない。
ただ、ほんの少しだけ——勇者一行が「たまたま」生き延びやすくなる程度の、小さな調整。
するめは作業を終えると、遺晶板を閉じ、酒瓶を手に取った。
「……テンプレーターですから。大したことはしてません」
誰に言い訳するでもなく、そう呟いた。
◆
その夜。
勇者一行は、窮地から脱していた。
ヴァルガンの先鋒部隊に追い詰められていたはずの彼女たちは、なぜか哨戒の隙間をすり抜け、結界の死角を通り、補給を受けて態勢を立て直していた。
偶然、と言えば偶然だった。
だが——リュシアは、感じていた。
「……誰かが、助けてくれています」
焚き火の前で、リュシアは静かに言った。
対面のセレスが、少し首を傾げる。
「それは根拠がありますか?」
「根拠はありません。ただ——こんなに都合よく、私たちが生き延びられるのは、おかしいんです」
ガルナが干し肉を齧りながら割り込む。
「考えすぎだろ。運がよかっただけだ」
「……そうかもしれません。でも」
リュシアは焚き火の向こう——暗い森の奥を見つめた。
「敵か味方かはわかりません。でも——私たちに手を差し伸べてくれている誰かがいるとしたら——」
その目に、決意の光がちらりと灯った。
「私は、その人を見つけたい」
セレスは首を傾げたまま、黙ってメモを取った。
ガルナは干し肉を飲み込んで、大きく欠伸をした。
◆
そのころ。
するめは、省力化支援室の椅子にもたれて果実酒を飲んでいた。
遺晶板の画面には「勇者一行:生存確認」の文字が表示されている。
「……まぁ、生きてるならいいです」
一口飲む。甘酸っぱい。
「果実酒文化が消えるのだけは困るので」
するめはそう呟いて、遺晶板を閉じ、目を閉じた。
明日もまた、マドロームに仕事を押しつけられるだろう。
明日もまた、日報を書かされるだろう。
明日もまた——怠惰の悪魔なのに、たぶん一番忙しいだろう。
「……はぁ。めんどくさ〜い」
果実酒の瓶を抱えたまま、するめは椅子の上で眠りに落ちた。
人類文明を救おうなどとは、一ミリも思っていなかった。
ただ、好きな酒が飲めなくなるのが——困るだけだ。




