第5話:永遠の歌姫
その部屋は、甘い香油と死の静寂に満たされていた。
公爵家の主寝室。豪奢な天蓋付きのベッドの対面にある、アンティークのドレッサー。その特等席に、私は「置かれて」いた。
(……動けない。指一本、動かせない)
私は自分の姿を鏡越しに見つめる。
そこに映っているのは、陶器のように白く滑らかな肌、ガラス玉の瞳、そして不自然なほど整った顔立ちをした、ビスクドールだった。
かつてエリーゼと呼ばれた私の肉体は、エドアルド様の魔術によって削ぎ落とされ、あるいは圧縮され、この美しい「器」の中に封じ込められてしまったのだ。
意識だけは鮮明だった。
恐怖も、屈辱も、後悔も、すべてが生々しく残っている。
なのに、瞼を閉じることさえ許されない。乾くことのないガラスの瞳で、私は永遠にこの部屋を見つめ続けなければならないのだ。
ガチャリ。
重厚な扉が開き、二人が入ってきた。
バスローブを纏ったエドアルド様と、薄絹のネグリジェを身につけたミリア。湯上がりの二人は、発光するほどに美しく、そしておぞましい。
「あら、見てエド様。エリーゼちゃん、今日もとっても可愛いわ」
ミリアが私に近づき、冷たい陶器の頬を撫でる。
やめて。触らないで。悪魔。
私は心の中で絶叫する。けれど、喉からは音一つ漏れない。
「そうだね。前の騒がしい口より、今の沈黙の方がずっと魅力的だ」
エドアルド様が私の髪――かつての私の髪を植え付けたもの――を指で梳く。その瞳には、かつて私に向けた軽蔑すらなく、ただ愛用品を愛でるような無機質な満足感だけがあった。
「ねえ、エド様。私、気分がいいの。……彼女に『あれ』をお願いしてもいいかしら?」
「もちろん。彼女も、僕たちを祝福したくてうずうずしているはずだからね」
エドアルド様が指をパチンと鳴らした。
その瞬間、私の内側に刻まれた呪印が熱く脈動した。
(いや……嫌っ! やめて!)
意思とは裏腹に、私の口がカタリと開く。
肺などない空洞の胸から、魔力によって生成された空気が喉を震わせる。
「ああ……」
私の唇から紡がれたのは、天使のように透き通ったソプラノの歌声だった。
「なんて美しいお二人なのでしょう……」
「闇夜に咲く薔薇、血濡れた絆……」
「永遠の愛を、誰が邪魔できましょうか……」
(違う! 私はこんなこと思ってない! 貴方たちなんて死ねばいい! 呪われろ!)
心の中では罵詈雑言を叫んでいるのに、口から溢れるのは二人を称える愛の賛歌だけ。
旋律は優雅に、歌詞は詩的に。私の魂の慟哭は、最高のBGMへと変換されていく。
「ふふ、嬉しい。ありがとう、エリーゼ様」
ミリアは恍惚とした表情で、エドアルド様の首に腕を回した。
私の目の前で。
瞬きもできない私の、目と鼻の先で。
「愛しているよ、ミリア。君の敵はすべて排除した。ここは僕たちだけの楽園だ」
「ええ、エド様……。私、幸せすぎて壊れてしまいそう」
二人の唇が重なる。
生々しい水音。熱っぽい吐息。絡み合う視線。
そのすべてを、私は見せつけられる。特等席で、最前列で。
――地獄だ。
殺してくれと願っても、私は人形。老いることも、死ぬこともできない。
彼らが愛し合い、老い、死んでいった後も、私はこの屋敷に残されるのだろうか。埃を被りながら、誰もいない暗闇で、愛の歌を歌い続けるのだろうか。
「……素晴らしきかな、我が主……」
「……世界で一番、お似合いの恋人たち……」
私の歌声が高らかに響く中、二人はベッドへと倒れ込んだ。
シャンデリアの煌めきが、ガラスの瞳に反射する。
かつて私が夢見た「輝かしい未来」は、確かにここにあった。ただ、主役が私ではなく、そして私が舞台装置に成り下がったという点を除けば。
永遠に続く夜が、今、始まったばかりだった。
(完)




