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第2話:深淵より愛を込めて


 夜の王都を駆ける公爵家の馬車。

 豪奢なビロードの座席には、重苦しい沈黙と、甘く腐ったような熱が満ちていた。


「……う、うう……っ」


 私の腕の中で、婚約者のミリアが小刻みに震えている。


 純白のドレスには、先ほどの愚かな女――エリーゼがかけた赤ワインが、まるで吐血の痕のように生々しく広がっていた。


 私はハンカチでその汚れを拭いながら、煮えたぎるような昏い歓喜を必死に抑え込んでいた。


(ああ、可哀想なミリア。僕の可憐な天使。たかがドレスを汚されただけで、こんなにも怯えて震えているなんて)


 彼女は生まれつき体が弱く、心も硝子細工のように脆い。

 先ほどのエリーゼとかいう新興貴族の娘の暴挙。あの程度の嫌がらせ、社交界では日常茶飯事だが、温室育ちのミリアには耐え難い恐怖だったに違いない。

 私は彼女の細い肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。


「大丈夫だよ、ミリア。もうあんな不快な場所には戻らなくていい。僕が守ってあげるからね」


 私の言葉に、ミリアの震えが一層激しくなった。

 彼女は私の胸に顔を埋め、くぐもった声で呟く。


「……許せない……」

「そうだね、僕も許さないよ」

「あんな女……私のエド様を、あんな目で見るなんて……生かしておけない……」


 消え入りそうなその声、恐怖で身がすくんで震えるその姿に愛おしさが胸を締め付ける。

 彼女は僕を頼っているのだ。僕が断罪を下すことを望んでいるのだ。


 ――しかし、私の胸に顔を埋めるミリアの“内側”は、私の想像とは全く異なる色をしていた。


(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す)


 ミリアは恐怖で震えていたのではない。


 あまりの「殺意」と「激昂」で、アドレナリンが沸騰し、体の制御が効かなくなっているだけだった。 


(あのメス豚……! よくも私がエド様のために選んだドレスを汚してくれたわね。それに何? 『私の方がふさわしい』ですって? エド様の視界に入っただけでも万死に値するのに、あまつさえ色目を使うなんて!)


 ミリアの爪が、エドアルドの外套に食い込む。

 彼女にとってエドアルドは婚約者であり恋人であり、神であり、そして「自分だけの所有物」だった。

 その所有物に声を掛け、あまつさえ気を引こうなどという愚行を犯したエリーゼという存在が、生理的に許せなかったのだ。


 ミリアは呼吸を整え、怒りのあまり沸騰しそうになった目から溢れた涙をハンカチで拭きながらエドアルドを見上げた。


「エド様……私、怖くて……」

「ああ、わかっているよ」

「あの方、また何かしてくるかもしれませんわ。私、おかしくなりそうで……」


(エド様に手を出そうとする不埒な存在はおおよそ駆除が終わったと思っていたのに…今度はどういう方法で……)


 ミリアは自分を頼りにしている、邪魔な羽虫を消して欲しいのだろう期待に呼応するように、エドアルドは氷のように冷たく、それでいて蕩けるほど甘い微笑みを浮かべた。


「心配しなくていい。……覚えているかい? 去年の冬、とある公爵令嬢が家ごと流行り病で亡くなった話を」


 ミリアの背筋がゾクリとした。それは恐怖ではなく、共犯者としての快感によるものだ。


 ――もちろん覚えている。


 あの一族は、エドアルドとの縁談を強引に進めようとした。だからミリアが、彼らの領地の水源に、実家の禁書庫から持ち出した『腐敗の呪毒』を垂れ流したのだ。

 一族全員が皮膚を溶かして死に絶えたあの事件。エドアルドはその事実を知りながら、魔法騎士団の権限で「原因不明の奇病」として処理し、揉み消してくれた。


「ええ……覚えていますわ。とても悲しい事故でしたね」

「そうだね。今回もまた、悲しい事故が起こるかもしれない。……君を傷つける害虫は、一匹残らず僕が駆除してあげるよ」


 エドアルドは、ミリアの濡れた頬を親指で撫でた。


 彼は気づいていない。


 かつての事件も、ミリアが「怖がってやった」のではなく、「喜々としてやった」ことを。


 そしてミリアもまた、気づいていない。


 エドアルドが、彼女の残虐性を「愛ゆえの必死な抵抗」と好意的に誤解し、その健気さに興奮していることを。


「ありがとう、エド様。……でも、一つだけお願いがありますの」


 ミリアは彼の手を取り、自身の唇に押し当てた。その瞳には、昏い情欲の炎が揺らめいている。


「あのひとへの罰……私にも手伝わせてくださいな。私たちがどれほど愛し合っているか、彼女にも骨の髄まで教えてあげたいのです」


 エドアルドは目を見開いた後、破顔した。

 恐怖を乗り越え、共に立ち向かおうとする彼女のなんと強いことか。


「ああ、もちろんだとも。二人で最高のフィナーレを用意しよう」


 馬車は闇夜を切り裂き、二人の愛の巣へと滑り込む。

 互いに見ている幻影は違えど、その行き着く先が「エリーゼの破滅」であることだけは、幸福なほどに一致していた。


 窓の外、不吉なカラスが鳴いた。

 それはまるで、これから始まる“お茶会”への招待状のようだった。


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