最終話 『前回と同じで』事件(記憶のミルフィーユ)
「今日も“前回と同じで”お願いします」
朝いちの客・森川さんのその一言に、瑞希は一瞬フリーズした。
“前回と同じ”——美容師の世界で最もあいまいで、最も危険な依頼。
何より恐ろしいのは、本人が前回を覚えていないことだ。
瑞希は穏やかに笑う。
「確認ですが、前回は……?」
「ほら、あれですよ、いい感じの、軽めの、でも重たすぎないやつ」
“いい感じ”を単位化する法律はまだない。
カルテを開くと、三ヶ月前の記録が出てくる。
「内巻きボブ・毛先厚め・前髪あり」
が、瑞希の記憶では——確かその日、前髪は切らなかった。
もしかすると前々回と混ざっている。
そう、美容師の記憶はミルフィーユ。
お客の「なんとなく」が、層になって積み上がる。
瑞希は慎重に言葉を選ぶ。
「前回より、ほんの少し軽くしてみましょうか?」
「うーん……そうですね、でも前の方が良かったかも」
まだ切ってないのに、もう比較が始まっている。
カットが進む。
「これ、前回もこのくらいでしたよね?」
「たぶん、もう少しだけ短かったです」
「そんなに?」
「ほんの2ミリくらいです」
「えー、じゃあ今がいいです!」
瑞希は微笑む。
“今がいい”と言われる瞬間こそ、美容師が生き返る時だ。
仕上げが終わり、鏡の中に映る森川さんが笑う。
「やっぱり前回と同じが一番ですね!」
瑞希は心の中でつぶやく。
それは今日のあなたの“前回”ですよ。会計のあと、カルテに記す。
「前回と同じで=今回仕様」。
つまり、次回また「前回と同じで」と言われたら、
今日が新しい“基準”になる。
記憶は更新される。髪と一緒に。
閉店後、レンが訊く。
「瑞希さん、“前回と同じで”って、どう対応してるんすか?」
「祈りながら切る」
「祈り?」
「“今がベスト”って思ってもらえるように、ね」
レンは笑って言った。
「美容師って、記憶の編集者っすね」
「そう。だから“憂鬱”なんて言葉、ほんとは似合わないのよ」
瑞希は鏡を見た。
そこに映る自分は、少し疲れて、でも笑っていた。
毎日誰かの「前回」を塗り替えるその仕事を、
まだ少しだけ、好きでいられそうだった。




