第5話「予約アプリの濃霧地帯(無断キャンの亡霊)」
朝9時半。開店10分前、店内にはコーヒーの香りと、
予約アプリの“ピロン”という通知音が響いた。
瑞希が画面を覗く。
「10時の新規、キャンセルになりました」
北条が眉をひそめる。「またか。理由は?」
「“都合により”。いつものやつです」
“都合により”――それは美容業界における“神の見えざる手”。
理由を追及することを許さない万能の言葉だ。
アプリのカレンダーには、
10時から11時まで、ぽっかりと白い穴が空いた。
この空白を、美容師たちは“濃霧地帯”と呼ぶ。
予定はあったのに、現実には存在しない時間。
過去と未来をつなぐはずだった1時間が、霧のように溶けていく。
レンがぼそっと言った。
「無断キャンって、どこ行くんすかね」
瑞希は笑った。「たぶん別のサロン」
「そんな幽霊移動ある?」
「あるよ。霊じゃなくて、クーポン移動」
10時、シャンプー台の音もドライヤーの風もない店内。
静けさが逆に重い。
北条が空いた席を見てつぶやく。
「空席が罪悪感を生む職業って、他にないよな」
「罪悪感、割引できればいいんですけどね」
瑞希は苦笑した。
結局、キャンセルした客からの連絡は来なかった。
アプリ上では“未完了”のまま。
このまま時が過ぎれば、
瑞希の一日は、最初から1時間遅れで終わる。
昼、ようやく来た予約の客が開口一番、言った。
「アプリって便利ですよねー。直前でもキャンセルできるし!」
瑞希の笑顔が一瞬、硬直した。
「ええ……そうですね、便利です」
心の中では“それは便利じゃなくて凶器です”と呟く。
美容師の一日は、30分単位の積み木でできている。
ひとつ抜ければ全体がぐらつく。
だがアプリはそのことを知らない。
“お客様の自由”という名のもとに、時間をリセットするボタンを置いている。
夜、閉店後。
北条がレジ締めを見ながら言った。
「今日、二件キャンセル。二件リスケ。つまり売上ゼロの二時間」
「でも、髪は伸びていくから」
瑞希が言うと、北条は苦笑した。
「ポジティブだな」
「ううん、現実逃避」
レンがスマホを見ながらぼそっと呟いた。
「“無断キャン防止アプリ”って出たら、売れるだろうな」
「それを使う人が、最初から無断キャンしないのよ」
「矛盾っすね」
「ええ、美容師って、矛盾で食べてるの」
閉店の灯を落とす。
鏡に映る瑞希の顔が、少しぼやけて見えた。
まるで濃霧地帯の中に取り残されたように。
だが次の予約通知が鳴る。
“新規・明日10時・おまかせ”
瑞希は微笑む。
「また霧の中、行ってみようか」




