第4話「似合わせという呪文の有効期限」
朝いちのカウンセリング。
「似合う感じでお願いします」
この言葉が出た瞬間、瑞希は軽くため息をついた。
「似合う」は、便利なようで、最も危険な呪文だ。
それを唱えた瞬間、責任のすべてが美容師に転送される。
「髪質、ライフスタイル、雰囲気に合わせて……」
そう言いながら、瑞希は鏡越しに客の表情を観察する。
似合わせカットとは、結局“好み”の翻訳だ。
ただしその“好み”が本人にも分かっていないことが多い。
今日の客は二十代後半のOL、奈央。
「周りから“いつも同じ髪型だね”って言われちゃって。
だから今日は思いきって変えようかなって思って」
瑞希は頷きながら、問いを重ねる。
「印象を変えたい感じですか?」
「そうですね。垢抜けたいけど、でも派手なのは嫌で、でも大人っぽくて、でも可愛くて」
“でもカルテ”が瞬時に脳内で展開される。
瑞希は微笑んで言う。「大丈夫です。似合うようにしますね」
カットが始まる。
“似合う”をつくるには、輪郭、骨格、眉の高さ、目の位置、
すべてを測るように見る必要がある。
でも人の“似合う”は、顔ではなく記憶に左右される。
昔褒められた髪型、元カレに言われた「その前髪好き」。
その記憶が今も髪の奥で呼吸している。
瑞希は慎重に長さを調整する。
鏡の中で奈央が小声で呟いた。
「インスタで見た人、これくらいの前髪だったなぁ」
瑞希は心で苦笑する。
“似合わせ”が“真似合わせ”に変わる瞬間だ。
仕上げの時、瑞希は微調整を重ねる。
「どうですか?自然で、でも少し変化も出ました」
奈央は鏡を見て、「いい感じです! すごく似合ってる!」と笑った。
成功。拍手。……のはずだった。
だが翌週、アプリに☆3のレビューが上がった。
“似合ってたけど、思ってたのと違ったかも”
“似合ってたけど”──それは、この業界で最も多い別れの言葉だ。
夜。閉店後、レンが尋ねた。
「“似合わせ”って、結局なんなんすかね?」
瑞希は笑って、掃除機を止めた。
「一瞬の納得、かな。鏡の前で“あ、いいかも”って思えたら、それで完成」
「でも次の日には変わる」
「そう。服が変われば、気分も変わる。だから期限付きなのよ」
レンは頷き、言った。
「呪文ってやつっすね」
「そう。“似合わせ”は期限のある魔法。だけど、それでも唱えるしかない」
瑞希は閉店の灯りを落とす。
鏡の中、自分の髪が少し伸びていた。
“似合う”かどうかなんて、もうどうでもいい。
ただ、明日も誰かの“いいかも”をつくるために。




