トウシューズなんて持ってない
童話「人魚姫」の魔女×人魚。自分好みの味付けしたらこうなりました。
魔女→ミランダ
人魚姫→エレーナ
誰も幸せじゃないです。
そこは太陽の光も月の光も刺さない深海。大昔に死んだ大きな大きな鯨の骨を棲家にして、魔女ミランダは暗闇の中でひっそりと暮らしていました。
たまに人魚たちが魔女が精製した魔法の薬を貰いにやって来ますが、いつもどこか決まり悪そうな、気味悪そうな、居心地悪そうななんともいえない顔でした。それでも魔女を頼らない訳にはいかなかったので、極力目を合わせないようにして、薬をもらったらありがとうさよなら!と口早に言うと駄賃をぽいっとミランダに投げ渡し、すぐさま尾を翻して去っていくのでした。
いつからでしょう。ミランダは棲家にやって来る人魚たちが、必ず二人組でやって来る事に気が付きました。気が付いて、ああそりゃそうか仕方ないか、と頭の触手をぽりぽり掻きました。気分が良い訳ではないけど、気持ちは分かるからです。
ミランダはいつも一人でした。一人でしたけど、生まれた時からそうだったので、ちっとも寂しくありませんでした。貝に生まれれば自分が硬い貝殻に包まれている事に疑問を覚えませんし、蟹に生まれれば自分が横歩きしかできない事に疑問を覚えたりなんかしないでしょう。ミランダにとってはそのレベルの話でしかなかったのです。
たまに海上から人間が作った道具が落ちて来るので、それを拾うのがちょっとした趣味でした。人間なんて大嫌いでしたが、彼らが作った物はぐうの音が出ない程素晴らしいものだから、見てみぬふりが出来なかったのです。
ずぅっとそうやって生きて来ました。そんな生活に、そこそこ満足していたのです。ですがある日。
「それ、人間の落とし物よね? 初めて見たわ! ねえ私に見せてくれない? お礼に、私もとっておきの宝物をあなたに紹介するわ!」
宝石をきらきらと振りかけたような、サンゴの一番綺麗なところを切り取ったかのような、とにかく魔女が今まで見たこともないような綺麗な綺麗なお姫様が、ぴかぴかの真珠のような笑顔を浮かべて、ガラスのように透き通った声で話しかけて来るものですから、もうミランダはびっくりしてびっくりしてひっくり返ってしまいました。
それが人魚のお姫様、エレーナとの初対面。
暗くて寂しい海の底に、まるで大輪の花が咲いたかのようでした。
「明日私は15歳になるのよミランダ。おばあさまが15になったら海の上に浮かび上がっていいって約束してくれたの! あぁ今から楽しみ。お姉さまがね、ハナビっていう空飛ぶクラゲのお話をしてくれて…」
エレーナはそれはそれは楽しそうに、明日の誕生日プレゼントの事をミランダに話します。ミランダは、それはもう63回は聞いたなぁと思いながらも、好きにさせていました。
魔法薬の調合に必要な大釜だったり材料であるサメの骨だったり趣味で集めた人間の落とし物だったり、奇妙奇天烈他の人魚たちが見たらすぐさま逃げ出してしまうような不気味な物で埋め尽くされているミランダの棲家でしたが、エレーナはこの深海の棲家にしょっちゅう顔を覗かせていました。エレーナが見た事ない人間の道具をミランダは持っていましたし、ミランダの魔法具はエレーナの住むお城にはありませんでしたから、好奇心旺盛なエレーナにとってここはお宝しか無い魔法の洞窟で、これは何あれはどう使うのと尾をぴちぴち跳ねさせてはしゃぎ回るのが常でした。そしてミランダは、エレーナが楽しそうにしているのを見るのが、何より好きでした。
「楽しみなのは分かるけど。人間に見つからないようにね、エレーナ。夢中になると、あなたすぐ周りが見えなくなるんだから!」
「ミランダったらお姉さまたちと同じ事を言う! 分かってるわよ」
そう言ってエレーナはちょっとだけ拗ねたように頬を膨らませましたが、しかしすぐに楽しそうに破顔して「ねえミランダ。私、あなたとこういう風にお話するの、好きよ」と言うのでした。
「お姉さまたちはね、私より先に海の上に浮かびあがっては海の上は素晴らしい、見た事ないものばかりだってはしゃいでたわ。でもひと月もしたら『なんだか飽きちゃったわ』なんて言って、海底で過ごしてばかりなの。いつでも海の上に浮かび上がっていいってお許しが出てるのによ! もう羨ましくて羨ましくってついついお姉さまたちに八つ当たりしちゃったの。でもお姉さまたちったら『いつでも行けると思ったら大した事ないわよ。エレーナもすぐ分かるわ』なんて言うのよ、信じられない! 私がどれだけ海の上に憧れているのか知らないのかしら!」
そしてアコヤガイで作られた棚からミランダと一緒に集めた人間の道具を手に取ります。ゼンマイとやらを巻いたら綺麗な音が出る不思議な箱は、エレーナもミランダもお気に入りの物でした。
その装飾をなぞる様に指先で撫でながら、エレーナは言葉を続けます。
「ミランダ、あなただけよ。ずぅっと私と海の上の世界のお話をしてくれるのは。私それが本当に嬉しいの。同じものを好きでい続けてくれるお友達が一人でもいるって、素敵だわ」
ミランダはその言葉に、なんて返せば良いのか分からなくて、曖昧に笑いかけただけでした。
だってミランダも他の人魚たちと同様、海の上の世界など好きでは無かったからです。ただエレーナが楽しそうに話すから、長生きな分彼女より海の上の知識を知っているから、お喋りを続けられていただけ。ミランダにとって陸の世界とは、エレーナとおしゃべりする為の話の種でしかないのです。
どころかミランダは陸の世界が怖いとすら思っていたので、エレーナが明日海の上に浮かぶのが実はとてもとても心配でした。
可愛いエレーナ、綺麗なエレーナ。この暗闇の深海に漂う、いっとう綺麗な真珠のあなた。ここは暗くて何にも無いけど、あなたが望めば一緒に南の珊瑚礁を見にいく事だって、北の流氷を見にいく事だってするのに。海は広いわ、まだまだ知らない世界がいっぱいある。見てないものも沢山ある。何も、海の上に憧れる必要なんてないじゃない。
ミランダはいつもそう思っていました。そう思いながら、口にする事は出来ませんでした。ミランダが思っている事を口にしたら、エレーナはひどくがっかりするのを分かっていたからです。
ミランダはどんなエレーナも大好きでしたが、楽しそうにしているエレーナが何よりも一番好きで、悲しそうな彼女を見るのが何よりも辛かったのですから。
ああ最悪だ、とミランダは思いました。
「お願いミランダ! 私、どうしても彼に会いたいの。私を人間にする薬を作ってくれない?」
誕生日にうきうきと海の上へと浮かび上がっていったエレーナは、その晩まったく帰ってこなくて、何かあったのではないかと国中が心配で眠れない程でした。それは国のはずれに住むミランダも同じで、もしもエレーナが人間に捕まっていたらどうしよう。捕まるだけならまだしも、あの子の綺麗な鱗を毟って、食べたりなんかしたら…ああ! 想像しただけで頭がおかしくなりそう! なんて考えてはのたうち回っていたくらいです。
朝にはエレーナは帰って来て、父王や姉達から「無事で良かった」と泣いて喜ばれ、国中の人魚たちからも「やれやれ、おてんばなお姫さまなんだから」と肩をすくめられ、ようやくミランダの棲家にやって来て、もうエレーナったら! と笑顔で迎え入れた、矢先のエレーナの言葉。
ミランダは思いっきり頭を殴られたような錯覚を覚えました。
「私のとっておきの宝物、知ってるでしょう? 真っ白な石で出来た、綺麗な王子様の像!」
ミランダは知っていました。それはエレーナと最初に出会った時に彼女が見せてくれた宝物で、白い大理石で出来た人間の王子様の像です。とっても綺麗で素敵でしょう、とうっとりとした顔で王子様を眺めながら言うエレーナに、ええ素敵ね、と返したのを覚えています。エレーナの手にある像ではなく、エレーナの夢見るような横顔に向けて言ったのです。
「彼は正に、あの像の王子様だったわ。ううん、もっともっと素敵! あんな優しく微笑むかた、初めて見たわ。あの笑顔を私に向けてくれたら…」
そうでしょうか。見た事などありませんけど、ミランダにとってはエレーナの微笑みの方が何倍も優しいに決まってる、と思いました。
「嵐に巻き込まれて、彼は海に落ちてしまったの。人間は海の中では生きていけないのでしょう?慌てて助けて、どうか生きていてくれますようにって彼の額にキスをしたわ」
そんなクラゲの骨ほど価値のない人間の男に、どうしてあなたはキスなんてしたのかしら。
「砂浜に彼を寝かせた時、彼が息をしていてくれた事が本当に嬉しかった。今この瞬間にも彼が生きている事が嬉しい。そう、きっと、これが恋なのね」
あなたの長い物語の中で、ほんの少しの染み程度しか関わりのない男が? 冗談でしょ。
ミランダはもう、大声でわんわん喚きたいような、エレーナのほっぺをつねってやりたいような、便利だからと拾った人間の道具を片っ端から叩き割ってやりたいような、そんな衝動的で乱暴な気持ちになりましたが、お腹にぐっと力をこめてそれを飲み込みました。今、ミランダは自分を上から呆然と見下ろしている気持ちでした。あんなに大好きで、帰ってこない事が心配でたまらなくて、無事帰って来てくれた事が心から嬉しかったはずのエレーナに、とてもとても酷い事をしてしまいそうな自分が信じられません。
ああ最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。
可愛いエレーナ。綺麗なエレーナ。だから海の上になんて行ってほしくなかった。どうしてなの? 海の中にだって楽しい事も、綺麗なものも沢山あるのに。どうして陸の上なんて、私の知らない世界に目を向けてしまうの。
だからでしょうか。ミランダはつい、エレーナを懲らしめてやりたい気持ちになったのです。エレーナはミランダに何一つ酷い事も悪い事もしてないのに、懲らしめてやりたいとはおかしな話ですが、この時のミランダはもう、全然まともじゃなかったのです。
「そんなに言うのなら、あるわよ。人間になれる魔法の薬」
その言葉に、エレーナはぱっと花が綻びるように美しい笑顔を浮かべましたが、ミランダは「最後まで話を聞いて」と制しました。
「けれど、欲しいものがあれば必ずお代を貰わないと。ルールだから仕方ないわ。
お代はその声。いい? エレーナ。あなたの、人魚の姫の中でいっとう美しいと言われている声。人間になる為の薬だもの、相応のものを貰わないと。当然だけどもう誰とも喋れない。歌も二度とうたえない。王子様を助けた事だって伝えられない。
人間の足を手に入れたって代償があるわ。足を持って生まれるはずのないあなたは、足を手に入れる事で拒絶反応が起こるの。きっとまともに歩けないほどの激痛でしょうね。それがずっとよ。ずーっと。あなた、指に小さな切り傷が出来ただけで痛い痛いって騒いでたじゃない。
それだけの目にあっても、その王子様に心から愛されないと、あなたは海の泡になって消えてしまうの。考えてもみて。喋れない、まともに歩けもしない、どこから来たのかも分からない、ないない尽くしの女の子を、誰が好きになってくれるっていうの?」
するすると口から出てくる言葉、それらは全部真実でしたが、ミランダは心の片隅で「そんな言い方はないんじゃない?」と小さな自分が問いかけてくる声を聞きました。もっと優しく伝えられる言葉があるし、自分はそれを知っているのに。
しかしミランダの、へどろのような黒い何かが、わざとエレーナを不安にさせるような怖い言葉ばかりを選んでいました。小さな自分の声に、ミランダは聞こえないふりをします。
先ほどまで目を輝かせていたエレーナは、ミランダの話を聞くうちに段々と心細げに目を目を伏せます。おかしな話ですが、ミランダはどんどん気分が良くなっていきました。悲しそうな彼女を見るのなんて絶対に嫌だったはずなのに、今は彼女が悲しそうであればあるほど、胸がすっとするのです。ミランダはエレーナの頭を、優しく優しく撫でました。
「ごめんなさいねエレーナ。怖いことをいっぱい言ってしまったわ。でもね、全部あなたの為なのよ。
ねえ、もうぜーんぶ忘れて、また明日から楽しい事を一緒にしましょうよ。南の海へ行って珊瑚礁を見ましょう?きっと気に入るわ。陸の世界に憧れるより、ずぅっと楽しいわよ」
それを聞いたエレーナは、びくっと肩を震わせ、何かを躊躇うように視線だけを右に、左に、うろうろと彷徨わせていました。やがて深く考え込むように俯き、そして、ぱっと顔を上げます。
その目は何かを吹っ切ったかのような、決意に溢れた目をしていて、ミランダはさっきまでの高揚の気持ちが嘘みたいに、一瞬で不安な気持ちになりました。
そして、それは見事に的中してしまったのです。
「いいえミランダ。それでもいい。私を人間にして」
ああ本当に最悪だ、とミランダは思いました。
人魚たちは危険な場所に赴く時は、必ず二人一組で行動します。二人なら何かあってもお互いに助け合う事ができますし、命の危機に瀕した時、一人を犠牲にもう一人を必ず生きて帰すという、実に合理的な判断を下しているのです。片方でも生き残れば、国に住む大勢の仲間たちに危険を伝える事ができますからね。例え犠牲者が出てしまっても、後々沢山の仲間たちで敵討ちができます。そういう、非常に社会的な生態をしている生き物なのだと、ミランダは何百年も二人組で自分の棲家を訪れる人魚たちを見て気付きました。
だから。
彼らが自分を危険なものだと判断して警戒し、二人組でやって来るのは仕方ない事なのでしょう。例えミランダが絶対に彼らに襲いかからないとしても。だって人魚たちにとってミランダは不気味な海の魔女でしかありませんから。ミランダが何を言っても、人魚たちが警戒を解く訳がありません。これはカクレクマノミがイソギンチャクを棲家にするように、ペンギンが卵を暖めるように当たり前の事なのです。だから、ミランダは彼らを責める事が出来ません。
だから。
あの日一人でミランダの棲家にやって来たエレーナが、例え彼女自身にそんなつもりはなくとも「ここは警戒しなくてもいい場所」と言ってくれたような気がして、嬉しかったのです。
本当に、本当に嬉しかった。
月の光が深海に差しこんだような信じられない光景を、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
「このままだと妹が海の泡になって死んでしまう」
エレーナのお姉さんたちは、ミランダの棲家に着いて早々、重々しく口を開きました。
「あなたは人間になれる薬を妹にあげたのよね?お願い、エレーナを人魚に戻して。どんなお代でも払いますから」
「王子が明日、遠い国のお姫様と結婚式を挙げてしまうの。エレーナはまだ15歳よ、こんなに早く死んでしまうなんて酷いわ」
「お願い、お願い魔女さま」
「妹を助けて……大事な妹なんです……お願いします……」
啜り泣く人魚姫を横目にミランダはフジツボだからけの宝箱から、鞘に入ったなんの装飾も施されていない、質素な短剣を取り出しました。
「お代はあなた達の髪。それでこの短剣をあげる。
魔法で作られたこの剣は、どんな者でも刺した瞬間に相手の命を奪うわ。いい? エレーナにこの短剣を渡して、明日の朝日が昇る前に王子を刺し殺すように伝えて。王子が死ねば、エレーナは人魚に戻れる。声も戻る。全部全部、元通りになれるわ」
人魚姫たちは何度もありがとう、ありがとうと言って自分たちの髪を切り、ミランダに渡すと、急いで海上に上がっていきました。
ミランダはそれを、祈るような気持ちで見送っていました。
エレーナ。
人魚姫たちが完全に見えなくなってから、ミランダはふらふらと寝床に向かい、疲れたように座り込んで項垂れました。
あの日。あなたに人間になれる薬を渡した日。あんなに脅したのに人間になる決意をしてしまったあなたに、私は怒鳴り散らしたわね。そんなに人間になりたいのなら勝手にすれば本当に呆れるほど馬鹿な子後で人魚に戻りたいと泣きついたって知らないんだからね──もっと酷い事を言ったかしら。
ミランダはその時、自分がエレーナを傷付ける言葉を言っているのに、自分がとても傷付けられた気持ちになっていました。投げつけるようにエレーナに薬を渡して、引っ叩くようにお代を奪って、今にも泣きそうなエレーナを見てなんであなたが被害者みたいな顔してるのよと更に怒鳴りたくなって、頭の奥がカッカして目の奥が熱くて、エレーナがいなくなった後も、周りに当たり散らして…。
そうしていつの間にか疲れて寝こけて、起きて冷静になった時、ミランダはさーっと血の気が引いていくのを感じました。なんであんな酷い事を言ってしまったのだろう。エレーナは私にずっと優しくしてくれたのに。エレーナだけが私に優しくしてくれたのに。
謝りたくてもエレーナは行方不明で、ああ、なんであの薬を渡してしまったのだろう!? もっとちゃんと、順序立てて説明すれば、エレーナだって考え直してくれたかもしれないのに。いいえそもそも人魚の王様に相談するべきだった。ミランダを警戒していてもエレーナの為なら王も国も協力してくれたはず。今ならいくらでも他の手段が思い付くのに、今思い付いたところで全て手遅れでした。
恐々と水晶玉を覗き込み、エレーナの行方を探しました。二日ほど時間をかけ、やっとエレーナは見つかりました。海の近くにそびえる人間が作った大きなお城。そこにエレーナは客人として招かれているようでした。王子様の隣にいるエレーナは、それはそれは、地上を照らす太陽のように輝く笑顔で──。
ミランダが見たのはそこまででした。なんだ随分幸せそうじゃない、といじけた気持ちになってしまったのです。さっきまで無事だった彼女を見つけて踊り出すほど嬉しくなったのに、です。気持ちが嵐の海面のように乱高下していますが、どうしてもミランダは自分の気持ちを落ち着かせる事が出来ません。エレーナが今まさに足の激痛に耐え、それでも好きな人の為に微笑んでいるのは分かっているのに、分かっているからこそ、許せなかったのです。
なのにやっぱりエレーナが心配で、水晶玉を覗き込んで、また勝手に傷付いて、蛸壺の中に引っ込んで、よせばいいのにまた水晶玉を覗き込んで……。そんな毎日を繰り返していましたから、エレーナの身に何が起こっているのかなんて、ミランダは人魚姫たちに教えられなくても、全部全部知っていたのです。
知っていたくせに、今日まで何もしませんでした。
魔法をかけたのはミランダ自身ですから、やろうと思えばずうっと前からミランダが短剣を王子に刺して、エレーナを無理矢理海に戻す事だって出来たのです。
そうじゃなくてもエレーナを追いかけて陸の世界に行く事だって出来たでしょう。王子に、あなたを助けたのは本当はこのエレーナなのよと教えて、エレーナと王子が結ばれるようにする事だってできたのです。
いくらでもエレーナの命を助ける方法はありました。それを全部、ミランダはやりませんでした。
無理矢理連れ戻してエレーナに嫌われる事も、エレーナと王子様が結ばれる事も、嫌だったからです。自分が傷付く事が、一番嫌だったのです。
いいえ、ここから出る事がミランダは怖かった。エレーナがこの鯨の墓場から、自分を連れ出してくれれば。一緒に行こうと言ってくれればいいのに。毎日毎日、そんな事を考えていました。
卑怯者。大事なら、大切なら、最初から全部きちんと言葉にするべきだった。自分から行動するべきだった。結局あなたは我が身可愛さに何もしないでここにいる。あなたはエレーナの事を大事にしてない、ずっと自分の事しか考えてない。
内側から責めるような自分の声を聞きました。しかし、すぐに反論するように内心で叫びます。
仕方ないじゃない私はずっとこうして生きてきた。今更生き方を変えられる訳ない。それにほら、待っていたらエレーナのお姉さんたちがやって来た。きっとこれで全部元通りになるんだ、私は間違ってなんかないんだ!
同じやり取りを、もう何度頭の中で繰り返したか分かりません。
でも、それも今日で終わります。
人魚姫たちが変わりに憎まれ役を買って出てくれた。これでエレーナが王子を殺して、全部終わり。エレーナだって、死の危機に瀕すれば考えを変えてくれるはず。
これで全部全部元通り。
…………………。
…………戻るんだよね?
お願い、戻って。
私のところへ帰ってきて。
エレーナ。
お願いだから。
月の光すら届かない深海には、しかし幼い人魚のお姫様の、ガラスのように透き通った美しい声が響いていた事がありました。今はもう、サメが食い荒らした魚の群れのようにしんとしています。
エレーナは、ミランダではどんな事をしても行けない場所へ行ってしまいました。振り返らずに。さよならだって言えませんでした。でもそのようにしたのは、誰でもないミランダ自身なのです。
あの後、憔悴しきった人魚姫たちから「エレーナは海の泡になった」と聞かされました。そうだろうな、とミランダは思いました。エレーナに魔法をかけたのはミランダですから、その魔法がきっちり発動したのだって、ミランダには分かっていました。
折角妹を助ける手段を教えてくれたのにこんな事になってしまってごめんなさい。今まで妹と仲良くしてくれてありがとう。でも、もう二度と私たちに近寄らないで。私たちも、もうあなたを頼ることは無いわ。
末姫を殺した張本人でもあるミランダに、感情的に怒鳴るでもなくあくまで冷静に協力への感謝と永久追放を告げる姫たち。気高さを感じるそれに、ミランダは何も言う事なくただ頷きました。
尾を翻して去って行く人魚姫たちを見送って、ミランダは、一人になった事を実感します。おや、この棲家はこんなにも広くて静かだったでしょうか。
ただ元の生活に戻っただけ。そう思うのに、ミランダの心にぽっかりと穴が空いてしまったようなのです。その穴をエレーナと呼ぶのか、寂しいと呼ぶのか、今のミランダには分かりません。
不思議な事です。何百年もミランダは一人で生きてきたのに。エレーナがいない時間の方が長かったはずなのに。今はもう、エレーナがいなかった頃の自分が、ちっとも思い出せないのです。
「……………」
可愛いエレーナ。馬鹿なエレーナ。
人間に恋なんかしなければ、陸の世界に憧れなんてしなければ、あなたは今日もお姉さんたちと仲良く遊んで、美味しいご飯を食べて、幸せな一日を過ごしていたでしょうに。
どうしてそれで満足できなかったの? あなたは誰よりも恵まれていた。あなたの毎日を一日でいいから体験したいと思うものが、この海にどれだけいるか分かってるの?
「……こんな時まであの子を責めようとするなんて、我ながら呆れる」
ぽつりと呟きます。それは恐らく初めての、自分への反論を口にした瞬間でした。本当に自分が嫌になる、とミランダは思いました。そういうエレーナだったから好きになったのを、ミランダはよくよく知っているからです。
エレーナが海底の、何も変わらない毎日に満足できる子だったら、そもそもエレーナはミランダの前に現れる事など無かったでしょう。彼女が見た事無いものに憧れ、好奇心旺盛で、怖いもの知らずで、自分の『好き』を偽らない子だったから、エレーナは一人で海の魔女が住む暗い海の底までやって来たのですを
これは、エレーナが生まれた時からそのように在っただけの話です。大した事じゃありませんし、特別な事でもなんでもありません。エレーナの冒険の先にたまたまミランダがいただけ。エレーナがミランダを見つけただけ。ミランダだけが、それに光を見出した。それだけの話なのです。
私にとっては得難い幸福だった。ずっと自分だけは手に入らないものをエレーナは持ってきて、当然のように手渡してくれた。それがどれだけ嬉しかったのかなんて、エレーナは知らないでしょう。それで私は満足できれば良かったのに。いつの間にこんなにも強欲になっていたのだろう。自分と同じだけのものを、エレーナに返して欲しかったなんて。
そんなの無茶だ。エレーナがミランダのように閉じこもる事を望む子だったら、そもそも自分たちは出会える事だってなかった。
分かってる。
分かってるのに。
例え天の神様が憐れんで、やり直しさせてくれたって、きっと同じ事を選んでしまう自分がいる。
王子様に恋をするエレーナを、きっと自分は許せない。
なのにエレーナを失った事がこんなにも悲しい。
そのくせ、エレーナの後を追う事だって怖くてできやしない。
変だ、全部ぐちゃぐちゃで、何もかもまとまってなくて、歪で、エレーナのような綺麗な恋の形じゃない。
なんで私はこんなところまで醜いんだろう?
やがて、鯨の墓場から魔女の泣き声がしくしくと聞こえ出しました。しばらくしてそれは身を切るような慟哭へと移り変わっていきます。海の中では涙が流せないので、その声だけが魔女が泣いているのを教えてくれました。
いい子は天国に行けます。
悪い子は天国に行けませんが、その代わりどこにでも行けます。
けれど魔女は、いい子でも悪い子でも無かったので、どこにも行けなくなってしまいました。
ある深海の奥底。魔女が住むという鯨の墓場から、毎日毎日何かの呻き声のようなものが聞こえました。何もかも呪うようなその音に海のものたちは震え上がり、魔女を恐れました。
人魚のお姫様を魔法で呪い殺したという昔話もまことしやかに囁かれ、あの音を聞く限り嘘でもなさそうだぞと噂しあい、今ではその深海に近付くような命知らずは誰もいません。
海の底に魔女がいる事すらみんなの記憶から消える程の長い時間が経っても、その音はずっと響き続けているそうです。