すくい
……ええと、まず最初に、私にも何が起きたのかわかりません。
本当に、何が起きたのか、まったくわからないのです。
その日は、あの予言の日——『2025年の7月5日』でした。
私はその日、例の予言のことが頭から離れなくて、夜更けまでパソコンの前にかじりついていました。
ええ、念のため、早いうちに少し仮眠は取っておいたんですよ。
そして、皆さんもご存じのとおり、あの日、予言は外れました。
正直に言いますと、私は半信半疑だったんです。
だって、大災害なんてものを、日時はおろか分単位でピッタリ当てるなんて、普通に考えて無理なんじゃないかって。
一緒にLIME通話していた友達も、そう言ってましたよ。
「だから言ったじゃん」って。
友達? はい、私の子どもの頃からの幼馴染です。
すぐ近所に住んでいるというわけではありませんが、気軽に会いに行ける距離で、頻繁に会っています。
……ごめんなさい、話が少し脱線しましたね。
それで、そのとき私、友達にこう言ったんです。
「やっぱり、ね」って。
占いとか予言なんて、みんなそんなもの。
所詮は、一笑に付してしまっていいものなのかもしれないって。
私は通話越しに、心の底からけらけらと笑いました。
それにつられて、友達も一緒に笑いました。
それから、二時間くらいが経った頃だったでしょうか。
私と友達は、それまでずっとLIME通話で話していました。
話の内容? それは……言えません。
私たちは女同士の友達ですが、お互いを好き合っていて……人には話せないような秘め事を、ふたりで話し合っていたんです。
友達が言いました。
「しよ」って。
私はそれに対して「いいよ」と返しました。
そのときの私たちは、間違いなく、感情が高まっていました。
お互いに秘め事を話すうちに、だんだんと“そういう気持ち”になってしまっていたんです。
そして、お互いの感情が最高潮に達したその瞬間に——
それは、起きました。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
一瞬、何が起きたのか、わかりませんでした。
でも、その音は、家のどこかから確かに聞こえてきたのです。
通話越しでも、友達の家の方で同じ音がしていました。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
「な、なに……?」
私も友達も、不気味さにその場を動けずにいました。
でも、
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
その不気味な音は止む気配もなく、むしろ勢いを増していきました。
そのとき、やっと私は気づきました。
家中に響いているこの、とても耳障りな音が、『トイレ』からしているのだと——。
「……ねえ、そっちでも、もしかしてトイレからしてない? 変な音……」
私はごくりと唾を飲み込みながら訊ねました。
それに対して、友達は低く、重い声で「うん」と返事をしました。
「行ってみる……?」
友達がそう言いました。
怖かった。すごく怖かったです。
でも、音の正体を確かめたくて、私は「うん」と答えました。
それから——
私たちは通話を繋いだまま、恐る恐るトイレに向かいました。
「……やっぱり、だ」
友達が言いました。
先ほどから鳴り止まないあの謎の音は、私たちの予想どおり、やはりトイレから発せられていたのです。
「開けてみる……?」
私は意を決して言いました。
通話越しに、友達が息を呑む音が聞こえました。
そして——
「……うん」
友達も覚悟を決めた声で返しました。
「いくよ?」
「同時に、だよ」
『せーの』
私たちは勢いよく、トイレのドアを開けました。
——けれど、トイレの中には、何の異常も見当たりませんでした。
「……そっちはどう?」
「ううん、なにも……」
「なんだったんだろうね……」
「わからない……」
「明日、管理会社さんに連絡しようか……」
「……そうだね」
話がひと段落して、ふぅと息をついた、その時でした。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
便器の中——浅く水がたまっている、あのくぼみが、突然ぶくぶくと泡を立て、異音を発しました。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。
「きゃああああああああ!!」
——私は、あの瞬間のことを、今でもはっきりと覚えています。
あんなにも小さな浅いくぼみから、『あんなもの』が飛び出してきたのですから。
一応、説明しておきますね。
便器の中の、あの水がたまったくぼみは、下水からの臭いや虫の侵入を防ぐための“フタ”の役割をしているそうです。
でもね、今回はそのフタが“意味をなさなかった”んです。
“それ”は、不思議なことに——
まるで私たちを睨みつけるように、便器の中からこちらを見上げてきたんです。
ええ、はっきりと見ました。
“それ”は、確かに――私たちを見上げていたんです。
真っ黒で、わずかに光を弾くような、異様に艶のある“汚泥”のようでした。
そしてそのまま、私たちを見上げたまま、不気味でくぐもった声で、こう“言った”のです。
「すくいにきたよ」
……その瞬間、私は理解しました。
『7月5日』の予言は、本当は、“始まりの合図”だったのだと。
あとで聞いた話ですが、友達もそのとき、同じことを思ったそうです。
――『ああ、“始まった”んだな』って。
得体の知れない、真っ黒な“それ”は、すぐに流れるようにして消えていきました。
それから四日が経ち、今日は7月9日、水曜日。
私はついさっきまで、友達とLIME通話をしていました。
「……このあいだの、いったい何だったんだろうね」
私がそう言うと、友達は少し考えるような声で、こう言いました。
「もしかしてさ、“あの日”を境に、世界って、何かおかしなことになってない?」
実は、私――友達には言っていませんが、“ある”のです。
恐ろしくて、とてもじゃないけど口に出せないような、信じがたいことに、私は気づいてしまったのです。
でも、あなたもきっと気づいているはず。
あなたは、信じたくなくて、信じないふりをしているだけ。
でも、それは紛れもない“事実”なんです。
私は、怖い。
あれが。
私たちにすでに降りかかっている、“あれ”が。
わたしたちをすくおうとする、“あれ”が。
が。
が。
が。
が――――。