輝かされていた
彼は、今日私と別れる。
私はそれを、止めない。
そうすることが、彼のためであり、
きっと、私のためでもあるから。
彼に初めて話しかけられた日を、私はなぜかよく覚えている。
駅のホーム。朝の混み合う時間帯。イヤホンで音楽を聴きながら空を見上げていた、そんな何気ない瞬間。
「おはようございます」って声をかけられて、びっくりしてイヤホンを外した。
誰だろうと思った。けれど、その表情はやけにまっすぐで、ちょっと眩しかった。
私のこと、見てくれてたんだって、すぐに分かった。
そのまま何度か会話をして、ある日突然、「よかったら今度、一緒にお茶でも」って誘われた。
断る理由がなかった。
むしろ、私の心のどこかがその声にすがったのかもしれない。
彼と付き合うまで、私は恋に夢を見るほど素直じゃなかった。
誰かと深く関わることに、少しだけ臆病だった。
自分の感情を言葉にするのが苦手で、たとえば「好き」とか「寂しい」とか、そういう言葉を声にするのが、なんだか恥ずかしかった。
でも、彼は違った。
いつもまっすぐで、よく笑って、私のことをたくさん知ろうとしてくれた。
「どんな音楽が好き?」「休みの日は何してるの?」「小さい頃の夢ってなに?」
そんな風に、私の中に小さな窓をいくつも開けてくれるような人だった。
はじめのうちは、その窓から風が通って心地よかった。
自分でも知らなかった自分を、彼に教えてもらっているような気がして。
でも、だんだんと、その窓を全部開けっぱなしにされるのが、少しだけ苦しくなっていった。
彼は、こまめに連絡をくれた。
「今日ね、こんなことがあったよ」って、まるで日記みたいに。
私は、それにすぐ返すのが苦手だった。
それは別に、彼が嫌とかじゃなくて、ただ、スマホを見るのが文字を打つのが面倒で。
気持ちはあるのに、言葉にできない——そんな自分がもどかしくて、たまに自己嫌悪に陥った。
彼が何かを期待しているのは分かってた。
記念日や、誕生日や、何気ない一言。
「好きだよ」って、彼はよく言ってくれた。
でも、私はその言葉を返すたびに、自分がうそをついているみたいな気がしてしまった。
愛していないわけじゃなかった。
でも、私の「好き」は、彼の「好き」みたいに、華やかで、声に出して見せびらかすものじゃなかった。
彼は太陽みたいな人だった。
いつも照らしてくれて、あったかくて、でも時々まぶしすぎて、目をそらしてしまった。
ある日、彼が言った。
「好きって言ってよ」
私は、黙ってしまった。
たぶん、そこが一番大きなすれ違いだった。
私にとっての愛情表現は、そっと手を握ることだったり、寒い日にマフラーを巻いてあげることだった。
でも彼は、言葉で確かめ合いたかったんだ。
そのことに気づいていたのに、どうしても、うまく伝えられなかった。
別れの予感は、少しずつ、日常ににじんでいた。
彼が会っていても、遠くにいるように感じる時間が増えていった。
私の笑顔に、彼の表情が曇るのが、怖かった。
なのに私は、どうしても彼を引き止められなかった。
どこかで、分かっていたのかもしれない。
彼は、私ではない誰かとなら、もっと幸せになれるって。
春の始まり、冷たい風に桜のつぼみが揺れていた日。
「この先、どうなっていくんだろうね」って彼が言った。
私は答えられなかった。
そのとき、彼の中から私が少しずつ消えていく音がした。
「ねえ、私たちって……合ってるのかな」
本当は聞きたくなかった言葉だった。
でも、あのまま何も言わなければ、きっと私たちは、もっと苦しくなっていただけだと思う。
彼は、きっと私のことをもう好きじゃない。
それでも、私の中には彼との思い出がたくさんある。
好きだった。
好きだったよ、本当に。
不器用な私のことを、大事にしてくれた、あなただから。これが言葉にできていたらもっとあなたと一緒にいれたのかな。
だけど、あの光に、私はずっと背を向けていた。
それが、すべてだったんだと思う。
彼は、今日私と別れる。
私はそれを、止めない。
そうすることが、彼のためであり、きっと、私のためでもあるから。