7話 【満(みちる)と円(まどか)】
――それを、未充は前日の夜まで気にも留めていなかった。
古い和紙を二つ折りにした、薄い紙切れ。
骨董市で2人が買った品に一枚づつ添えられていたものだ。
『次の持ち主へ』
そう書かれていた文字だけが、やけに記憶に残っている。
惑華は「縁起書きみたいなものじゃない?」と笑っていたし、未充も深く考えなかった。
◇
――朝。
未充は、少し早めに目を覚ました。
今日は未充と惑華の父親の月命日なのだ。
それは幼い頃、父を事故で喪い、母が再婚して、弟が生まれてからも家族の中で続いてる伝統。
でも、その日はおかしかった。
家の中が、静かすぎる。
いつもなら、もう階下から仏間の引き戸を開ける音が聞こえる頃だった。
月命日の朝は、決まってそうだ。
花瓶に水を足す音。線香の匂い。
母が、小さく息を吐く気配。
でも……それが、ない。
未充は同じベッドに眠っている惑華を起こさぬよう布団から起き上がり、寝ぼけたまま階段を降り、廊下を歩いた。
仏間の前で、足が止まる。
「……?」
仏壇は、閉じたままだった。
胸の奥が、すうっと冷えた。
「……おかしいな」
呟いてから、引き戸を開ける。
中は暗く、静かだった。
供え花が、ない。
線香もなく、湯呑みも用意されていない。
まるで――最初から、何もするつもりがなかったみたいに。
「……なんで?」
今日は、父の月命日だ。
忘れるはずがない。
未充は、仏間を出てリビングに向かうが玄関で、足が止まる。
昨日、母が買ってきた仏花が、
花瓶にきれいに挿されて、下駄箱の上に飾られていた。
――仏壇じゃなくて。
玄関に。
未充の喉が、ひくりと鳴る。
そのまま、台所へ向かった。
朝の光が差し込むリビング。
母と弟が食卓を囲んでいる。
味噌汁の湯気。
トーストの焼ける匂い。
「……お母さん!」
声をかけると、母はいつも通りの顔で振り返る。
「おはよう、未充。今日は早いわね」
「……仏壇、開いてないけど」
母は、きょとんと目を瞬かせた。
「? どうして開けるの?」
心臓が、一拍遅れる。
「……今日は、パパの月命日でしょ」
母は、困ったように笑った。
「なに言ってるの。変な事いわないで、お父さんは一時期危なかったけど、退院したでしょう」
――聞き間違いだと思いたかった。
未充の頭の中が、白くなる。
「……え?」
母は、何でもないことのように、食卓の向こうを指した。
「ほら。ちゃんと、そこにいるじゃない」
未充は、ゆっくりと視線を動かす。
弟の隣に座り、新聞を畳んでいる男。
母の再婚相手――義父が、顔を上げて、少し照れたように笑った。
「おはよう、未充」
その手には、亡き父の……仏壇に月命日に供えるはずの父の湯飲みがあった。
「なんで……」
声が、震える。
「なんでパパの湯飲みを使ってるの!」
男は、一瞬だけ目を丸くしてから、困ったように眉を下げた。
「何を言ってるんだ。
俺は、君たちの父親だろう?」
耳鳴りが、強くなる。
「……は?」
弟が、不安そうに未充を見る。
「お姉ちゃん?」
未充は答えられなかった。
椅子を蹴るように立ち上がり、リビングを飛び出す。
階段を駆け上がり、双子の部屋の扉を乱暴に開ける。
「惑華!」
中では、惑華がすでに起きて、ベッドの端に腰掛けていた。
未充の顔を見るなり、すぐに立ち上がる。
「……未充?」
未充は、そのまま惑華に縋りついた。
「おかしいの……」
声が、震えて止まらない。
「仏壇、開いてなくて……お母さんが……」
言葉が、うまくつながらない。
惑華は、未充の背中にそっと手を回した。
子どもの頃から、何度もそうしてきたように。
「……ゆっくりでいい」
未充は、深呼吸をひとつしてから、続ける。
「お母さんがね……あの人が、本当のお父さんだって……」
惑華の指先が、わずかに強くなる。
「……そう」
声は、低く、静かだった。
「惑華?」
「どうしたの? 未充。私達と弟は両親を同じくする姉弟だよ?」
惑華の言葉に思わず未充は顔を上げ惑華を見上げた。
そのときだ、未充は、惑華の机の上に置かれているものに気づいた。
この前、骨董市で惑華が買った煙管。
「……それ」
指先が、無意識に伸びる。未充が手に取ろうとした、その瞬間。
「触らないで!」
鋭い声が、部屋に響いた。
次の瞬間、惑華が未充の手首を掴み、煙管を奪い取った。
乱暴なはずの動きなのに、
その手つきは、壊れ物を扱うみたいに慎重だった。
惑華は、それを胸に抱くようにして、強く握りしめる。
「……惑華?」
声をかけても、惑華は視線を合わせない。
「これは……大事なものだから」
「……本気でいってるの?」
――信じたくなかった。
惑華までおかしくなっている。
そのとき、未充の脳裏に、ふと昨夜のことがよぎった。
骨董市で買った品と一緒に一枚づつ受け取った、薄い紙のうちの一枚。煙管についてきた方。
「……あれ」
未充は震える手で机の引き出しを開ける。
折り畳まれた和紙を広げると、そこには確かに書いてあった。
『次の持ち主へ。
その品を次の人に託すとき、この歌と共に譲ってください』
未充が続きを読むと、書いてある歌はこうだった。
【とおと けぶりは ゆめをつく
まことをつつみ あやをなす
こころのいたみ やわらげて
ねむればひとは めをそらす】
未充は手紙を握り潰し、衝動のまま朝食も取らず家を飛び出した。
このまま家にいたら、自分まで塗り替えられる気がした。
玄関の戸を閉めた瞬間、家の中の気配が、すうっと遠のく。
まるで、あの場所だけが、もう別の世界になってしまったみたいだった。
肺が焼けるほど息を吸い、足を動かす。
通学路のはずの道が、今日は妙に長く感じられた。
(あの歌……)
頭の中で、文字が音に変わる。
【とおと けぶりは ゆめをつく】
思い出す。
先週、となりのクラスの星ノ宮さんが管理している、小さな神社。
弟がお祭りに参加するから様子を見に行った場所、そこで見つけた古い冊子に書かれていた歌。
――『この辺りの古い家に残ってる、お祭りで歌う歌だよ』
そう言って、彼女は軽く笑っていた。
でも、そのとき、胸の奥に残った違和感。
今なら、理由がわかる。
(彼女は……なにか知っている)
学校の校門が見えても、未充は速度を落とさず、そのまま校舎へ走っていった。




