6話 【みちる と まどか】
ある日の夜。
星見屋 結禍は自室の電気をつけないまま、鏡の前に立っていた。
鏡には、当然、自分が映る。
星の見えない夜を思わせる黒髪が、背中に流れ、
腰のあたりで静かに揺れていた。
けれど、今夜だけは――映ってほしくないものまで映る気がした。
ポケットの中の絵札が、指先に冷たく触れる。
描かれているのは【水鏡の月】。
「……桜子は大丈夫」
安堵はある。
でも、それだけじゃない。
胸の底に、言葉にならない痛みが沈んでいる。
紅葉……私が引き受けるつもりだった。
でも、先に踏み込んだのは紅葉だった。
鏡の中で、結禍の目が、ほんの少しだけ歪む。
それに引きずられるように、背に垂れた黒髪の輪郭も、わずかに揺らいだ。
「……鏡月」
呼んだ瞬間。
鏡の向こう側の結禍も、こちらを覗き返した気がした。
◇
ゴールデンウィークが終わった頃。
朝の空気は冷たく、吐く息がほんのり白い。
紅葉と桜子は肩を並べ、いつもの通学路を歩いていると。
「あ」
ふいに、桜子が小さく声を上げる。
その視線の先いた三人連れが、やけに賑やかに歩いている。
背丈も顔立ちもよく似た二人と、その間に挟まれるように立っている、
小学校の高学年になったばかりといった小さな男の子。
「知り合い?」
紅葉が尋ねると、桜子は頷いた。
「うん。双子の方は中学のとき同じクラスだった」
ふたりの視線の先では双子の少女が男の子にかまっていた。
「ちょっと、ちゃんとお姉ちゃんと手つないで歩きなって」
「寒いんだから、ほら」
「……見てるし、寒くないってば……」
男の子は顔を赤くして抗議するが、
左右から伸びてきた手を振りほどけない。
元気いっぱいに男の子の腕に絡みついているのが、明るくて声の大きい方は楽しそうに弟の手を引き寄せる。
「はいはい、照れんな照れんな♪」
「顔赤いよ?」
その反対側にいるもう一人は、
声は控えめで動きも少ないが、弟を逃がさない距離だけはきっちり保っているが淡々と言う。
「朝からやめてよ……」
そう言いながら、弟は結局、姉たちに挟まれたまま歩く。
騒がしく元気な方は弟のマフラーを直し、
おとなしい方の姉は弟の襟元を整える。
「ほら、曲がってる」
「ちゃんとしてないと風入る」
「……いいってば……」
言葉とは裏腹に、弟はされるがまま。
紅葉は思わず視線を奪われた。
「……すごい」
「昔も、あんな感じに甘やかしてたけどいちだんと甘やかしてるねぇ……」
桜子が小さく言う。
元気な方の姉は弟の頭をわしゃわしゃ撫でる。
「今日もちゃんと弁当持った?」
「持った」
「水筒は?」
「ある」
「よし、完璧!」
弟はうつむきながら小さく呟く。
「……人前でやるなって……」
「何? 聞こえなーい」
「かわいい声」
「やめて……」
弟は恥ずかしそうに顔を伏せるが、
歩調は自然と姉たちに合わせている。
――抵抗しているようで、流されている。
やがて通学路の先に、小学校の校門が見えてくる。
「あ、ここ」
弟が少し歩幅を速める。
「じゃあね」
「帰り迎えに来るからね!」
「来なくていいって!」
「だめ」
元気な方は即答。
おとなしい方も静かに頷き一言。
「迎えに行く」
「……勝手に決めるなよ……」
弟はぶつぶつ言いながらも、
元気な方の姉に軽く背中を押される。
「ほら、行ってらっしゃい」
おとなしい方の姉は弟の前に屈んで言う。
「ちゃんと行って、ちゃんと帰ってきて」
「……分かってる」
弟くんは校門へ向かって歩き出した。
数歩進んでからふと彼は振り返った。
そこで初めて紅葉と桜子の存在に気づいたようだった。
「……あ」
一瞬、目が合う。
双子達の弟はさらに顔を赤くして、小さく頭を下げ小学校の中へ入っていった。
「あー!」
元気な方がこちらに気付き声を上げ駆け寄ってくる。
「鴇食じゃん。久しぶり!」
「……久しぶり」
桜子が短く答える。
「そっかそっか」
挨拶もそこそこに元気な方は紅葉を見る。
「で、もしかして星ノ宮さん?」
「……うん」
「やっぱり! 白い髪、目立つもん」
おとなしい方が一歩前に出て、静かに会釈する。
「弔鐘惑華です。ほら、アンタも」
片割れを小突くと元気な方も紅葉に名乗る
「惑華の姉の未充!」
紅葉も軽く頭を下げた。
「星ノ宮、紅葉です」
「ねえねえ」
未充が楽しそうに言う。
「神社住んでるんでしょ?」
「……まあ」
「やっぱ夜とか出る?」
「未充!」
惑華が低く制止する。
「……いや、静かだよ」
紅葉はそう答えた。
惑華はそれ以上追及しなかった。
四人は自然と横に並び、歩き出す。
弟がいなくなったあとの、双子の距離がやけに近く、互いに手を握りあって離れない。
ふたりの距離は教室に入るまでそのままだった。
◇
――放課後。
神社に戻ってきた紅葉と桜子は、並んで社務所の中を掃除していた。
「全然片付かない」
「うん、出しても出しても物が出てくる」
雑巾で棚を拭くたび、古い木の匂いが立ち上る。
紅葉が一人で掃除してた頃に比べればずいぶん片付いたが、
社務所の荷物は多く、まだ終わりは見えない。
「だよねー。あっ……星ノ宮さんこれこっち置いとくね!」
やけに元気な声。
紅葉と桜子は同時に顔を向ける。
そこに立っていたのは、ブレザーの上着を脱ぎ、袖をまくった少女。
彼女は明るい表情で元気に社務所の片付けを手伝っている。
「……で、弔鐘さん。なんでいるの?」
我慢が出来なくなった紅葉が、
眉をひそめたまま荷物を片付けながら素っ気なく聞くと。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑う。
「未充で良いよ! 弔鐘だと惑華と紛らわしいし!」
「いや……、なんでここに来たの?」
「えー? いいじゃんいいじゃん人手必要なんでしょ? 片付けは人手多いほうが早いしさ」
「……誰も頼んでない」
「細かいこと言わないで!」
未充はそう言って、近くに立てかけてあった桜子の和本……時記の形代をひょいと掴む。
「あっ、違う! それ神社の備品じゃなくて私の!」
桜子は未充を焦って止めると。
未充は驚きながらもすぐに桜子に和本を返した。
「あっ、ごめんごめん」
声だけは無駄にいい。
未充は和本を大切そうにしまう桜子に軽く聞く
「年季入ってるね和本」
「……大切な物だから」
桜子が答える。
未充は手を動かしながら、気軽な調子で続けた。
「わかる~。惑華とふたりで骨董市やってたの見たときビビッーッってきて使いもしない蝋燭立て買っちゃったもん。惑華も煙管……たばこ吸うやつをなんとなくで買ってたし!」
未充はついに片付けに飽きたのか手を止め、軽い調子で言った。
「いやー弟がね。今年ここのお祭り、参加するらしくて」
紅葉がちらりと視線を向ける。
「ここ、どんな所か見ときたいなーって思ってさ。
来たことなかったけど、知り合いいるなら行くっきゃないじゃん?」
へらっと笑う未充に、紅葉はため息をつく。
「……下見って顔じゃない」
「えー、失礼だなー。一応そのつもりだよ?」
そう言いながら未充は、積まれていた古い本に目を留める。
指先で埃を払うと、ぱらりと無遠慮に開く。
そのままペラペラと流し見しながら、紅葉に話しかけはじめた。
「でさ~、お祭りってなにするの? お祭りで歌うっていう歌ってなに?」
未充は本を置き身をのりだして紅葉に聞いた。
桜子が祖母から聞いた話を未充に話す。
「……お祭りの歌は、子どもがお祭りで歌う童歌。
歌詞は――
『ひとつ さくらは さかしまに
ふたつ にわとり あけをつげ
みっつ ふるふみ ときしるす
よっつ きずあと つるにのせ
いつつ ゆるしぞ たたれさり
むっつ かがみは つきうつし
ななつ ほなかに かがりびは
やっつ きずなが くちたなら
ここのつ かぎかけ こころとじ
とおと けぶりは ゆめをつく』だね」
桜子が歌い終えると、未充は考え混むように少し止まると、さっきまでペラペラと読んでいた本を手に取る。
「その歌ってさ、じつは省略されてたりする?」
空気がほんの少し変わった。
未充の声色は軽いままなのに、妙に核心を突く。
桜子は言葉を選びながら答えた
「……え、うん。昔は村の古い家ごとに続きを持ってたって聞いてる」
未充は、開いていた本を見せてくる。
「ここ、神社に伝わる歌が書いてある」
紅葉と桜子がその本を覗き込むと、そのページには一番目の歌が書いてあった。
【ひとつ さくらは さかしまに
こいもしらずに つぎさきて
みちをそむきて くどくなし
むすぼれこころ ひめたまま】
紅葉は、その四行を指先でなぞる。
「……これ私たちが知らない“ひとつ”の続きだ」
桜子が呟く。
「でしょ?」
未充は得意げに笑って、さらに頁の端をとんとん、と叩いた。
「しかもこれ、注釈がついてるんだよね」
紅葉と桜子が目を落とす。
ページの余白には、乱雑だけど読める字で、誰かの記録が残っていた。
『のこりの歌を継ぐ九つの家。子の途絶えし家が、歌と形代を神社へ預けた』
桜子が息を呑む。
「神社以外で歌を継いでた家が全部で九つあったけど、神社に預けたのはこの三つだけ、って感じみたい」
未充が、余白の文字を指でなぞりながら言う。
さらに未充は、ぱら、と次の頁をめくった。
「ほら、ここ。歌を預けた家の名前まで書いてある」
紅葉の視線が、その行で止まった。
一部の文字が歯抜けで読めなくなっている。
それでも、それが各家が継いでいた歌の続きであることは間違いなかった。
『——■桐家
【ふたつ にわ■り あけをつげ
ゆめはたちきれ ははとおく
あすをうしない ■らわれて
あけないよるに てをのばし】
——熾火家
【■な■ ほなかに かがりびは
となりうらやみ とらわれて
もてぬてあれば きずつけて
ねたみのひかり もやしけり】
——鏡月家
【むっつ ■■みは つきうつし
かたちもなくて すがたあり
あいをえるたび つきみちる
とられのこるは みかづきぞ】』
未充はページを見ながら、軽い調子で続けた。
「でさ、この記録の感じだと、村の古い家のうち、子どもがいなくて“続けられなくなりそうな家”が、歌と形代を神社に預けたって書いてある」
「……他の家は?」
紅葉が訊くと、未充は肩をすくめる。
「いや、わかんないよ。むしろ、神社に住んでるんだから紅葉さんの方が詳しくないの?
私と違ってこの辺りの出身なんだから」
未充は言いながら、さっき片付けたばかりの棚から別の薄い冊子を引っぱり出した。
同じ棚に突っ込まれていたらしい、紙がさらに焼けた古い台帳のようなものだ。
「……あった。ほら、こっちには、預かった日付が書いてある」
未充が開いたページには、いくつかの年号とともに短い記録が並んでいた。
『夢桐家 預り ——(年号)』
『熾火家 預り ——(年号)』
『鏡月家 預り ——(年号)』
そして最後の行だけ、墨が比較的新しい。
「一番新しいのが、鏡月家みたい」
未充が言う。
「……それ、いつ頃?」
桜子が訊くと、未充はさらっと答えた。
「えっとね、これ……たぶん二十年ちょい前。ほら、村が合併する前後っぽいね」
桜子は、ふと眉を寄せた。
「あー。……そう言えば、って感じだけど」
ぽつりと、思い出すように続ける。
「前にお婆ちゃんから聞いてたんだけど、歌の続きを継いでた古い家で、今残ってるのは……たしか、鴇食家と五鈴さんの家だったはず」
紅葉が、ゆっくりと桜子を見る。
社務所の中に、わずかな沈黙が落ちた。
◇
――歌と形代をこの神社に預けた家が、三つ。
その一番新しい名が、鏡月家。
それだけでは、今回の話は終われなかった。




