5話【日はまた堕ちては繰り返す】
休日の朝は、平日よりも静かだった。
社務所の戸を開けると、まだ少し冷たい空気が畳の匂いを運んでくる。
境内の砂利を踏む音がして、次いで引き戸が控えめに鳴った。
「……おはよ、紅葉ちゃん」
桜子だった。いつもの二つ結び。少し眠たげな目。
だけど、あの“遠く”を見ている感じはもうない。
「おはよう。……来てくれたんだ」
「うん。お祭り、手伝うって言ったし」
桜子はそう言って、腕まくりをする。
その仕草が妙に“普通”で、紅葉は少し笑ってしまった。
「じゃ、今日は社務所の掃除の続き奥までできる範囲で。棚とか、物置とか……」
「了解」
ふたりは箒と雑巾を持って、社務所の中へ入った。
窓を開ければ、木々のざわめきと鳥の声が入り込む。
埃が光の筋の中で舞って、時間がゆっくり流れていく。
◇
棚の上に積まれた紙束をどけ、古い布を引っぱり出し、雑巾で拭く。
最初は会話も少なかった。
けれど、同じ作業を並んでしていると、言葉は自然にほどけていく。
「……桜子ちゃん、ありがとね。掃除まで手伝ってもらって」
紅葉が言うと、桜子は雑巾を絞りながら、少しだけ間を置いた。
「いいの」
すぐに返ってきた声は軽いのに、そこに混じった小さな沈みを紅葉は聞き逃さなかった。
「家にひとりでいると……独りなのを、自覚しちゃうから」
桜子は笑おうとして、うまく笑えなくて、口元だけを少し動かした。
紅葉は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
この前の、桜子の部屋で見た“時間が止まったみたいな静けさ”が、ほんの一瞬だけ重なる。
「……じゃあ、ここに来ればいいよ」
紅葉は雑巾を握ったまま言った。
「独りを自覚しない場所、増やせばいい。神社でも学校でも……私の部屋でも」
「紅葉ちゃんの部屋って言い方、なんか変」
「住んでるんだから、私の部屋だよ」
「ふふ」
桜子がようやく笑った。
その笑いがちゃんと“今”にいるのを確かめるみたいで、紅葉は息をつく。
◇
掃除は順調だった。
けれど――社務所の奥、まだ手をつけていない物置に近づいたあたりで、紅葉の足が止まる。
「……あ」
そこにある、古びた木箱。
前に紅葉が見つけた、あの箱だった。
表面には、掠れた絵と文字。
【ふたつ にわとり あけをつげ】――あの歌の一節が刻まれている。
紅葉は喉の奥がひゅっと鳴るのを感じながら、箱の前に膝をついた。
「それ、前に言ってたやつ?」
桜子が覗き込む。
「うん……刀が入ってた」
蓋に手をかける。
箱の中には、まるで夜明け前の紫天の空を思わせる、深く濃い紫色の鞘に収まった大太刀。
そして――紅葉の脳裏に、夕焼けの部屋で影から引き裂くように現れた“大太刀”が、鮮明に重なる。
「やっぱり……同じだ」
思わず声が漏れる。
桜子もじっと見つめたまま、静かに言った。
「……うん。見た目、同じ」
紅葉は手を伸ばしかけて、止めた。
触ったら、また“思い出す”だけじゃ済まない気がした。
「これ、私の物だって……あのときも思っちゃったんだよね。根拠ないのに」
桜子はうなずく。
「形代、だから」
その言葉は、妙に自然だった。
まるでずっと前から知っていたみたいに。
「……説明、するね」
桜子はポケットからトランプほどの大きさの【和本】の絵札を取り出した。
紅葉は反射的にポケットの中のカード――【朝日と鶏】の絵札を握りしめた。
桜子は、絵札を両手で挟むように持って、息を整える。
「神様は……形代に宿ってるの。器物に坐す御霊って、ばあちゃんが言ってた」
絵札を見つめたまま、桜子は続ける。
「形代っていうのは、神様がいる器。
それとは別に、人は“依代”として憑かれて――外に働きかけられるようになる」
「じゃあ、この刀とか、あの和本とか……?」
「そう。和本は時記の形代。刀は……明告鳥の形代、なんだと思う」
紅葉は唇を噛む。
「じゃあ、私が昨日出した刀は……」
「形代の“影”」
桜子は言い切った。
「神様は普段、形代の中に眠っているの。
でも、依代――取り憑かれた人が“呼べる”ようになると、影が外に出て、姿を変える」
紅葉は眉をひそめる。
「……取り憑かれた、って……私たちが?」
桜子は、少しだけ困った顔をした。
「うん。たぶん、そう。言い方が怖いけど……悪霊とかじゃなくて、契約に近い。
神様は形代に宿ってるけど、人に“依代”として憑くことで、外に働きかけられるようになるの」
「だから、私が願ったら……」
「恩恵を貸してくれた」
桜子は、絵札を胸の前に押し当てる。
「絵札はね、意識が“表に出てる”印。
本当の形代は、家とか神社にある。
でも意識だけは、絵札に出てきて、依代のそばにいるの」
紅葉は息を呑む。
「……じゃあ、このカードに意識が?」
「うん」
桜子は絵札を軽く揺らして見せる。
「絵札は、形代の影に姿を変えて、恩恵を行使できる。
この前みたいに。刀になったり、本になったり……たぶん他の神様も、みんなそう」
紅葉は、木箱の中の紫の鞘を見つめた。
「……でも、この前。私、和本を刺した」
桜子の目がわずかに揺れた。
「それは……形代そのものじゃなくて、時記の影――桜子の中に表れてた“影の姿”だったんだと思う。
だから、壊れたんじゃなくて、戻った。形代の影は絵札に戻っただけ」
「……絵札に?」
「うん」
桜子は小さく息を吐く。
「でも、乱暴なことをしたのは確かだよね……」
◇
2人が掃除に戻ると物置のさらに奥。低い棚の下で、紅葉の雑巾が何かに引っかかった。
「……ん?」
引き抜くと、ぱらりと埃が舞う。
出てきたのは、薄茶色に焼けた冊子だった。
表紙は擦り切れ、題字は半分ほど消えている。
「これ……本?」
「うわ、年代物っぽい」
桜子が覗き込み、慎重に受け取る。
表紙の端の、かろうじて読める文字を読むと。
『■■村 郷土民話集』
「……この辺りが、まだ村だった頃のだね」
紅葉が呟きながらページをめくると、紙はぱり、と乾いた音を立てる。
中には、神社の由来、祭りの作法――etc
「……民話、けっこう載ってる」
紅葉はぱらぱらと頁を繰る。
【居場所をなくした子どもを、
幸福な世界へ連れていく“オバケ”の話】。
――子どもが居場所を取り戻せなければ、その子は永遠に幸福な世界に囚われてしまう。と結ばれている。
【迷いのある者の前にだけ現れ、
前に進む勇気をくれる神様の話】。
――姿は見えず、声だけが残るという。
ただし、という一文が続いていた。
その声に耳を預けすぎた者は、
それが正しいか確かめることもなく、衝動のまま歩き出してしまうのだと
「……優しい話、多いね」
桜子が、少し安心したように言う。
だが、頁を進めるにつれて、空気は微かに変わっていった。
【決して開かない扉を開き、
閉じてしまった箱を開く“声だけの存在”】
――その声を聞いた者は、過去を失う。とある。
【どんなに小さな嘘も見抜いてしまうがゆえに、孤独になった者の話】。
――その者は周りを信じられなくなり、やがて心を手放し独りを選んだ、と――。
「……こんなの、知らなかった」
桜子の声が、少しだけ低くなる。
「お婆ちゃん、こんな話はしてくれなかった」
紅葉は、無意識に自分のポケット――絵札のある場所を押さえていた。
どの話にも、どこか“恩恵”と“孤独”が並んで書かれている気がしてならなかった。
さらに頁をめくったところで――
「……これ」
桜子の指が止まった。
挿絵のある頁。
粗い筆致で描かれたのは、空から舞い降りる女と、地に立つ男。
そこに書いてある文字は――
◇
【ひとりの青年がいた。
青年は父を知らず、母も幼い頃消えた。
ある日、村はずれに一人の天女が降り立った
そこで青年と会い、
ふたりは、つかのまの家族の時を過ごした
ほどなく、天女には迎えが来た
天女は青年にひとつのモノを渡した
それは、天女の“時”が秘められたものだという
「私は、あなたにソレを知ってほしくはないのです。」
そう天女は青年に告げた。
「けれど、あなたが本当に望むなら――ソレを知る権利が、あなたにはあるのです」とも。
青年は、天女の時を知ることを望んだ。
そして、その中に秘められたものを知ったとき、
青年は、もはや天女と共にいられぬことを悟った。
天女には、向こうに残してきたものがあった。
それを、彼女はけして捨てられないのだ。
身重の天女は、静かにその場を去っていった。
――そうして、天女は我が子を独りこの地に残していった。】
◇
頁の最後まで読み終えたとき、社務所の奥は妙に静かだった。
桜子は、しばらく挿絵を見ていると、ふと声を上げた。
「――あれ?……ねえ、紅葉ちゃん」
「うん?」
桜子はゆっくりと顔を上げる。
「婆ちゃんから聞いた話と……違う」
紅葉は冊子に視線を落としたまま、静かに言った。
「どこが?」
桜子は、指で頬を掻いた。
「ばあちゃんの話だと、もっと優しい普通の羽衣伝説って感じの話だったの、それで――」
桜子は、少し言い淀んでから続けた。
「いや、見てもらった方が早いかな」
空気が、ほんの少しだけ張りつめる。
桜子は一度だけ、紅葉を見た。
桜子は【和本】の絵札を取りだすと胸元に当てる。
「お願い、時記。……来て」
桜子がそう呟くと、桜子の影が揺らめいた。
――彼女の手が、影へと触れる。
――彼女の手が、影の向こうの何かを掴む。
それは本。和綴じの和本。
それは追憶の具現。
懊悩と決意の末の語り。
天女と青年、その心より溢れ落ちた、情念の一欠片。
天女が青年へ語った過去、
残された子が知らなければ救われた真実。
黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……
――過去を見せる和本!
“追憶を抱く影”の御霊の依代!
彼女の唇は紡ぐ。
文字が飛び消えゆく和本の姿で描かれるその名は
「『時記』。」
桜子はほんの少しだけ安心したように頷いた。
「お願い、時記。婆ちゃんが言ってた話を紅葉ちゃんにも見せて」
「――よかろう。
ならば、吾が持たざる輝くその“命”。
求めてやまなかったその“心”。
どれほど望んでも得られなかったその“行為”を――我に……」
紅葉の視界が、ゆっくりと白んでいった――
◇
(桜子の過去)
お婆ちゃんは桜子によく昔話をしてくれる
「昔々ね――
ある日、空から天女が舞い降りてきたんだよ。
ふわりと、風にのってね。
その天女は、ひとりの幼く両親を亡くした青年と出会ったの。
二人はすぐに惹かれあって、しばらくのあいだ――
ほんの短いあいだだったけれど、
家族としての時間を過ごしたの。
でもね、天女にはね、もともと帰るべき場所があったの。
そしてね、その迎えが空から来てしまったの。
別れのとき、天女は青年にひとつの包みを手渡したの。
それはね、『私の時がしまってあるもの』なんだって。
『どうか、開けないで、貴方にはそれを知らない方がいい』、そう言ったの。
でもね、天女は続けてこうも言ったんだよ。
『でも、もしあなたが本当に望むのなら、開けてもいいの。
貴方はそれを知る権利がある』って。
……青年はね、迷って、悩んで、でも結局――開けてしまったんだって。
そしたら、天女のことがぜんぶ、分かってしまったの。
どこから来たのか、なぜ来たのか、本当は何者なのか――
そして、彼女がこの世界に長くは留まれない理由も。
そうして、青年は悟ってしまったの。
『自分は、もう天女とは一緒にいられない』って。
……天女は、風にとけるように、空へと帰っていったの。
でもね、天女はこの地に残していったの。
それはね――彼女の子ども。
天女は、愛した人のもとに、自分の大切な命を残していったんだよ」
お婆ちゃんがしてく――
しだいに声が遠のき景色は崩れていった。
◇
「――は!?」
時記の夢から覚めた紅葉は意識を取り戻す。
「あ、おかえり」
桜子は胸元に抱いていた時記を【和本】の絵札に戻し。紅葉を出迎えた。
「お婆ちゃんの話どうだった?」
紅葉の脳裏に、先ほどの記憶がよみがえる。
「たしかに桜子ちゃんのお婆ちゃんの話と少し違うね」
紅葉は、もう一度文章を読み返す。
「うん」
桜子は小さく頷く。
彼女は冊子を閉じた。
ぱふ、と埃が立つ。
「たぶんこれ、お婆ちゃんが語った話の元だよ」
「……元の話?」
「私にしてくれた話はお婆ちゃんが子供向けに整えてくれた話で、
この冊子の話がこの辺りの本当の伝承ってことだとおもう」
その瞬間、桜子の指先の絵札が、微かに熱を帯びた。
続いて古い墨のような気配が立つ。
すると、桜子の持つ【和本】の絵札から――
声の高い老爺のような声がした。
2人の視線が、絵札へ向くと語りだした。
「人が言葉にできぬ思いを抱えたとき、
それは時に、行き場をなくし心から零れ落ちる。
――この母子の別れを由来とする、十の情念。
“断絶”・“未練”・“帰属”・“追憶”・“無力”
“虚像”・“逡巡”・“贖罪”・“逃避”・“嫉妬”
我らは皆、このときの思いから生まれ、形を得た」
誰に聞かせるでもなく言葉を続ける時記に、紅葉は搾り出すように言った。
「あなた達は何者なの?……私たちに、なんで力を貸してくれるの?」
「――貸してはいない。
我らは『神未満』、欠けたモノ。
満ち足りず、飢えたモノ。
飢えは欲望を生み、欲望は心を生む。
それゆえ求め続ける――飢えを……欠けを埋めてくれるモノを……。
人もまた飢えた存在、欠けた存在。
故に人は求める……欲望を満たす力を……。
故に――我らは人に憑く、
互いを喰らいあい――互いを満たすために……。
我らは授ける――『恩恵』を。
我らは欲す――欠けを埋め、共に歩んでくれる伴侶を……」
絵札から聞こえる現実感のない告白に、2人は呆然とした。
すると時記は、最後にひとことだけ落とす。
「……おまえ達だけでは足りん。」
そして黙ってしまった。
◇
紅葉は膝の上の冊子をもう一度手に取った。
理由はない。ただ、なんとなく指が勝手に動いた。
閉じた表紙を親指で弾くようにして、
ぱら、ぱら、と頁をめくる。
挿絵。
祭りの手順。
由来の断片。
――その途中。
「……あ」
紅葉の手が止まった。
「どうしたの?」
「始業式の日さ――言ってたじゃん。ここの神様、天女の子だって」
「うん。お婆ちゃんはそういってた」
紅葉が冊子を指差した。
「ここ」
桜子が覗き込む。
紅葉は、声を落としたままその項を読みはじめた。
『悠久神社の御神体は、
天女が、この地に残した包みにして――』
社務所の中が、急に静かになった気がした。
「……天女が残した包みって」
桜子が、ぽつりと言う。
「時記のことだと……思ってた。時を秘めたモノと聞いてたから」
「だよね。似すぎてる」
紅葉は、頁から目を離さないまま頷く。
天女が青年に渡したという包み。
開けるなと告げ、
それでも“知る権利”を残したもの。
それが――
「……この神社の、御神体」
紅葉の呟きは、確認というより、答え合わせに近かった。
冊子に書かれた文字と、これまで断片的に聞いてきた話が、ゆっくり重なっていく。
天女が残した包み。
開けるなと告げながら、それでも“知る”という選択肢だけは手放さなかったもの。
時を秘めたと伝えられる何か。
桜子の喉が、小さく鳴った。
「……ねえ」
沈黙を破ったのは、桜子だった。
「御神体って、あれだよね。祭壇にある、開かない匣」
「……そのはず」
紅葉はようやく冊子から視線を上げ、拝殿の奥――
社務所からは見えないはずの祭壇の位置を、確かめるように見つめた。
……いつの間にか、障子の向こうが夕暮れの茜色に染まっている。
「……もう、こんな時間?」
桜子も同じように、窓の外へ視線を向ける。
夕日に照らされた境内の木々が、長い影を落としていた。
「ほんとだ……」
小さく笑ってから、少しだけ名残惜しそうに息を吐く。
「気づかなかったね」
社務所の中には、まだ埃の匂いが残っている。
広げたままの冊子、木箱、片づけ途中の掃除道具。
今日一日で起きたことが多すぎて、時間の感覚がどこかへ置き去りになっていた。
桜子は立ち上がり、軽く膝についた埃を払った。
「そろそろ帰らないと」
「うん……ありがとう。今日は、ほんとに」
紅葉が言うと、桜子は一瞬だけ言葉に詰まったあと、いつもの調子で肩をすくめる。
「こちらこそ。いや……途中から脱線しちゃって掃除全然すすんでないけど」
その視線が、散らかったままの本や掃除途中の棚、
――その先、まだ手をつけていない部屋へと向いていた。
桜子は玄関で靴を履きながら、ふと振り返る。
「また……来るね」
桜子は嬉しそうに笑った。
「じゃ、また明日」
引き戸が閉まる。
境内の砂利を踏む音が、だんだん遠ざかっていく。
紅葉は一人、社務所に残った。
夕暮れの静けさが、ゆっくりと戻ってくる。
棚の上の古い冊子。
物置の奥の木箱。
そして、拝殿の奥に鎮座する、“天女が残した包み”が入っているという ――決して開かない匣。
「……今日は、ここまでだね」
誰にともなくそう呟いて、紅葉は社務所の明かりを落とした。
外は黄昏時――逢魔時。
昼と夜が入れ替わる、人と魔性の時間が交わる刻。
その境に、境内は静かな夕闇に包まれはじめていた。
――日はまた堕ちては繰り返す。
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