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4話【追憶の夢(下)】

 桜子の家に着き、紅葉(くれは)は足を止めた。


 門は閉じている。


 玄関も、明かりはついていない。


 おかしい。


 夕方でも明るいうちなら、この辺りの家は、田舎らしく鍵をかけないはずだ。


 それなのに、門も玄関も閉じている。


「……たぶん、昨日の夜からそのままなんだ」


 そう呟きながらも、胸の奥に違和感が残った。


 紅葉は門をくぐり、家の縁側へ回った。


 昔、遊びに来たとき、何度も通った道。


 縁側のガラス戸は――やっぱり、閉まっていない。


「……開いてる」


 鍵は掛かっていなかった。


 土足のまま上がるわけにはいかないと、いったん靴を脱ぐ。


 その仕草が、ひどく場違いに思えた。


「……お邪魔します」


 小さな声で言って、そっと中へ入る。


 家の中は、しんと静まり返っていた。


 時計の音も、生活音もない。


 あるのは、畳と木の匂い。


 懐かしくて、少しだけ胸が苦しくなる匂い。


(……時間が、止まってるみたい)


 廊下を歩くたび、床が小さく鳴る。


 その音さえ、遠く感じられた。


 紅葉は、迷わず奥の部屋へ向かった。


 桜子の部屋。


 引き戸の前で、いったん手を止める。


 勝手に入っていいのか。


 そんなことを考える余裕が、もう残っていなかった。


 そっと、戸を開ける。


「……桜子ちゃん?」


 返事はない。


 部屋の中は、薄暗い。


 カーテン越しの夕焼けが、床に淡く滲んでいる。


 ベッドの上で、桜子は制服のまま、胎児のように丸まり、両手で和本を胸に抱きしめていた。


 紅葉は、ゆっくりと近づく。


「……桜子ちゃん」


 もう一度、呼ぶ。


 やはり、反応はない。


 肩に触れようとして、手が止まる。


 胸が、上下している。


 呼吸は、確かにある。


(……寝てる、だけ)


 部屋の隅に置かれた桜子の鞄には、


 彼女が神社で紅葉に見せてくれた和本……


 桜子が、今まさに胸に抱いている和本と同じ見た目のものが、入っていた。


 同じ装丁、同じ擦れ、同じ頁の癖。


 ――まるで、ひとつの本が、二箇所に存在しているよう。


 紅葉は、桜子の顔を見つめた。


  眠っている。


 ただ、それだけのはずなのに――。


 名前を呼んでも、声が届いていない気がした。


 耳に、ではない。


 胸の奥に、だ。


(……このままだと)


 理由は分からない。


 分かるはずもない。


 それでも紅葉は、はっきりと思ってしまった。


(桜子ちゃん、このままだと……)


 ここにいるのに。


 息をしているのに。


 ――もっと、遠いところへ行ってしまう。


 もう、簡単には戻ってこれない場所へ。


 紅葉は、気づけば桜子の胸元へ手を伸ばしていた。


 和本に触れれば、引き戻せる気がした。


 紅葉の指が、和本に触れた――その瞬間。


    ◇


 ああ……これは夢だ……


 私は、桜子。


 これは夢、桜子(わたし)がまだ幼い頃、お婆ちゃんの家に遊びに来た頃の……

 

 お父さんの海外赴任にお母さんが同行することになって、


 私はお婆ちゃんの家に預けられる前、

両親がいて、お婆ちゃんが入院する前の一番楽しかった記憶……


 幼い頃、お婆ちゃんは私にいろいろなこの地域に伝わる昔話をしてくれた。


 たとえば、“居場所がない子を幸せな世界に連れていくオバケの話”、


 “迷ってるとき、勇気をくれる神様の話”、



 お婆ちゃんはいつも昔話をしてくれるとき、私に覚えさせるように歌を歌っていた。


「みっつ ふるふみ ときしるす


 しらずにいれと みてしまい


 むかしをみれば わがみなり


 いまをわすれて あてもなく」


 お祭りの役割で歌うという歌は不思議な節回しで、言葉もどこか古く、


 当時の私は意味なんて分からなかった。


 ただ――


 お婆ちゃんは歌いおえた後、私の頭を撫でながら、決まって()()言う。


「桜子。覚えておきなさい」



鴇食家(うち)の者にはね、神様がついているからこの歌を忘れてはいけないよ」


 それがどういう意味なのか、


 どうして私にだけ言うのか、


 ……でも、お婆ちゃんの話で一番印象に残っているのは、


 この地域に伝わるいわゆる羽衣伝説——「天女と青年が出会う話」だった。


    ◇


「昔々ね――


 ある日、空から天女が舞い降りてきたんだよ。


 ふわりと、風にのってね。


 その天女は、ひとりの幼く両親を亡くした青年と出会ったの。


 二人はすぐに惹かれあって、しばらくのあいだ――


 ほんの短いあいだだったけれど、


 家族としての時間を過ごしたの。


 でもね、天女にはね、もともと帰るべき場所があったの。


 そしてね、その迎えが空から来てしまったの。


 別れのとき、天女は青年にひとつの包みを手渡したの。


 それはね、『私の時がしまってあるもの』なんだって。


 『どうか、開けないで、貴方にはそれを知らない方がいい』、そう言ったの。


 でもね、天女は続けてこうも言ったんだよ。


『でも、もしあなたが本当に望むのなら、開けてもいいの。


 貴方はそれを知る権利がある』って。


 ……青年はね、迷って、悩んで、でも結局――開けてしまったんだって。


 そしたら、天女のことがぜんぶ、分かってしまったの。


 どこから来たのか、なぜ来たのか、本当は何者なのか――


 そして、彼女がこの世界に長くは留まれない理由も。


 そうして、青年は悟ってしまったの。


『自分は、もう天女とは一緒にいられない』って。


 ……天女は、風にとけるように、空へと帰っていったの。


 でもね、天女はこの地に残していったの。


 それはね――彼女の子ども。


 天女は、愛した人のもとに、自分の大切な命を残していったんだよ」


 お婆ちゃんがしてくれたその話で私は考えてしまう


 ――どうして、天女は子どもを置いていったんだろう。


 ……なんで、連れていってくれなかったんだろう……と。


    ◇


 お婆ちゃんが入院したとき、


 お婆ちゃんは、私に1冊の古い和本を託してくれた。


「この本には、神さまが宿っているんだよ」


 そう言ってた、お婆ちゃんが大事にしていた家宝――


 それが、このとき、私のものになった。


挿絵(By みてみん)


「我が依代よ……過去を求めるのか?」


 私が部屋で独りでいると、声の高い老爺のような声が和本からした。


「我が名は時記(とき)


 人に過去の“記録”を見せ、


 和本を形代とする、『追憶』を(いだ)く名。


 我が“恩恵(ちから)”は過去を追体験としての閲覧。


 人の歩みを覗けば、その一瞬だけではない。


 価値観も痛みも愛も、積み重ねた人生ごとその身に宿し、


 まるで当人として生き直すように、その過去を生きる。


 その間、己が己であることを忘れ、


 視る者は“自らがその人物である”と信じて疑わぬ。


 見るは記憶にあらず、出来事そのものの“記録”。


 ゆえに忘却されし事も、無意識に沈んだ事も、ありのままに知れる――ただし、この恩恵(ちから)には必ず供物を要する」


 私はその声に答えてしまった『昔みたいにいたい』と。


「見てしまえば、聞いてしまえば、

 もう二度と、“何も知らなかった頃”には戻れぬ


 それでも……なお望むか


 知らぬままであれば、


 救われよう。歩めよう。未来を


 その心が、それに耐えられるとは限らぬ


 知れば、今が壊れてしまうだろう


 ……再び、問おう――それでも、過去を求めるのか」


 和本の声は私に何度も確認してくる。でも私は流された。


「お願いします……戻れるならひとりじゃない頃に戻りたいです」


「――心得た。依代よ……。


 (かれ)が持たざる輝くその“()”。


 求めてやまなかったその“()”。


 どれほど望んでも得られなかったその“行為(こと)”を――(われ)に……」


 解っていた。


 これは、きっと戻れない選択だって。


「……良かろう。


 ならば見せよう。ならば語ろう。


 ――()()の夢をもって、我が内に記されし、過去のすべてを


 ――たとえ御前(おまえ)が、御前(おまえ)でいられなくなるとしても……!」


    ◇


 ……誰かが、呼んでいる気がした。


 でも、それは今じゃない。


 今じゃ、だめ。


 もう少しだけ。


 この日常を――この、ずっと続いてほしい時間を。


    ◇


「――っ、は……っ、はぁ……!」


 紅葉は、弾かれるように上体を起こした。


 喉がひりつき、肺が空気を求めて痛むほどに息を吸い込む。


 胸が大きく上下し、呼吸が整わない。


 まるで水底から無理やり引き上げられたみたいだった。


 視界が揺れる。


 一瞬、どこにいるのか分からなかった。


 ――桜子の部屋。


 そうだ。夢じゃない。少なくとも、今は。


 紅葉は荒い息のまま、反射的に周囲をうかがった。


 夕焼けの光が、さっきと同じようにカーテン越しに差し込んでいる。


 床に伸びる影の形も、ほとんど変わっていない。時計を見る勇気はなかったが、体感で分かってしまった。


(……時間、ほとんど経ってない)


 あれほど長く、濃密だったはずなのに。


 夢の中では、何年分もの記憶をなぞった気がしたのに。


 紅葉は視線を戻す。


 ベッドの上の桜子は、さっきと同じ姿勢のままだった。


 制服のまま、胎児のように丸まり、胸に和本を抱いたまま――ただ、穏やかに息をしている。


 安心よりも先に、ぞくりと背筋が冷えた。


(……戻って、きてない)


 夢から覚めたのは、自分だけだ。


 ――夢の中で、自分は桜子だった。


 桜子ちゃんは、まだ――あの中にいる。

 

(桜子ちゃんが――届かない遠くへ行ってしまう、戻ってこなくなる)


 紅葉は、ぎゅっと拳を握りしめた。


 考えるより先に、声が漏れた。


「誰か……」


 誰に向けたのかも分からない。


「……お願い、します」


 喉が震える。


 声が、情けないほど小さい。


 それでも、紅葉は続けた。


「桜子ちゃんを……連れていかないで」


 理由なんて、うまく言えなかった。


 正しい言葉も、立派な願いも、何ひとつ持っていない。


 ただ――


「友達と、生きていきたいんです」


 ぽつりと、落ちる。


「……明日の先へ、辿り着きたい」


 声が、少し掠れる。


「……失いたく、ない」


 それだけだった。


 世界を救いたいわけじゃない。


 誰かの運命を変えたいわけでもない。


 ただ、桜子と一緒に、今日の続きへ行きたい。


 祈りは、それだけだった。


 ――その瞬間。


 ふっと、部屋の空気が変わった。


 夕焼けの光が、音もなく揺らぐ。


 床の軋みも、遠くの鳥の声も、すべてが消える。


 まるで、この部屋だけが、世界から切り離されたみたいに。


 まるでそれを知っているかのように紅葉は己の影へ手を伸ばした。


(——違う。知っているんじゃない。

 思い出しているんだ)


 忘れていただけだ。


 祈りが、記憶を呼び覚ましている。



 ――彼女の手が、影へと触れる


 ――彼女の手が、影の向こうの何かを掴む。



 それは刃。大太刀。


 それは断絶の具現。


 悲憤と恩讐により生まれた刃。



 “子を残し去った天女”と“残された子”その心より溢れ落ちた、情念の一欠片。


 優しい理想()の終わりを告げた、再会の果て。



 黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……


 ――紫天の大太刀!


 “断絶を抱く影”の御霊の形代!



 (忘れただけだ、その存在を既にわたしは知っている。)


 彼女の唇は紡ぐ。



 朝日と鶏の姿で描かれるその名は


「『明告鶏(あけつげどり)!』お願い!友達と明日を迎えたいの……だから! 力を貸して!」



「心得た。依代よ。


 ならば、(かれ)が持たざる輝くその“()”。


 求めてやまなかったその“()”。


 どれほど望んでも得られなかったその“行為(こと)”を――(われ)に……」


 男とも女ともつかない声は続けた。


()が“断絶”の夢をその手に……」


 (——これを壊せば、もう戻れないかもしれない。これは私のエゴだ……それでも)


 紅葉の手に現れた刀を、眠る桜子の抱く和本に向かって突き刺すと、


 和本は揺らめくように溶けると桜子の影に消え、そこには和本の絵が描かれたトランプほどの大きさのカードが残された。


 静寂が、ゆっくりと戻ってきた。


 切り離されていた世界が、縫い直されるように――


 夕焼けの光が、再びカーテンを透かして床に落ちる。


 遠くで、鳥の声がした。


 紅葉は、息を詰めたまま、ベッドを見つめていた。


 ――桜子の影が、かすかに揺れる。


「……っ」


 小さな音。


 胸元で抱かれていたはずの和本は、もうない。


 代わりに、桜子の指が、空を探るように微かに動いた。


 そして。


「……あ……」


 掠れた声が、確かに響いた。


 桜子の瞼が、ゆっくりと持ち上がる。


 夕焼け色の光を映し、焦点を探すように瞬いたあと――


 はっきりと、紅葉を捉えた。


「……紅葉、ちゃん……?」


 その声を聞いた瞬間、紅葉の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。


「……っ、桜子ちゃん……!」


 考えるよりも早く、身体が動いていた。


 紅葉はベッドに膝をつき、桜子を抱きしめる。


 強く、逃がさないように。


 確かめるみたいに、腕に力がこもる。


「……っ、ちょ、紅葉ちゃん……?」


 驚いたような声。


 でも、拒む力はない。


 桜子は一瞬戸惑ってから、そっと紅葉の背に手を回した。


 その温度に、紅葉の喉が震えた。


「……よかった……本当に……」


 声が、泣き出す寸前で揺れる。


 桜子は、少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「……心配、かけちゃったよね」


 胸元で、桜子の声がくぐもる。


「ごめんね……


 なんだか……帰り道が、分からなくなってて……」


 その言葉に、紅葉はぎゅっと腕に力を込めた。


「……謝らないで」


 必死に、震えを抑える。


「桜子ちゃんが悪いわけじゃない」


 顔を上げ、まっすぐに言う。


「……寂しいなら、一緒にいるから」


 桜子の目が、少しだけ見開かれる。


「分からなくなっても、迷っても……一人で行かなくていい」


 紅葉は、言葉を選ぶように、でも逃げずに続けた。


「今日の続きも、明日も……その先も」


 小さく、息を吸う。


「……一緒に、行こう」


 桜子の瞳に、じわりと光が滲む。


「……紅葉ちゃん……」


 声が、震えた。


 桜子は、ぎゅっと紅葉の制服を掴む。


「……ありがとう……」


 それ以上は、言えなかった。


 二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。


 夕焼けが、少しずつ色を変えていく。


 やがて、紅葉はふと、自分の手に違和感を覚えた。


「……あ」


 視線を落とす。


 さっきまで確かに握っていたはずの、紫天の大太刀は――ない。


 代わりに、手のひらに残っていたのは、


 朝日と鶏が描かれた、トランプほどの大きさの絵札。


 それは、断ち切る刃ではなく。


 夜明けを告げる、願いの形。


 紅葉はカードを握りしめ、桜子をもう一度抱き寄せた。


 窓の外で、どこかの鶏が鳴いた気がした。


 ――長い夜は、終わったのだと。


    ◇


 家の門の影から2人を見守る影があった。


 星も見えない夜空を思わせる艶のある長い黒髪の少女である。


「――よかった。」


 少女は小さく息を吐く。


 スカートのポケットから、トランプほどの大きさのカードを取り出すと彼女の背の影が揺らめいた。



 ――彼女の手が、影へと触れる


 ――彼女の手が、影の向こうの何かを掴む。



 それは鏡。銅鏡。


 それは虚像の具現。


 羨望と孤独をうつすもの。



 天女を迎えに来た()へ向けた、青年の心より溢れ落ちた、情念の一欠片。


 母の愛を欲し、そうでありたかった、理想の姿。



 黒い影を裡から引き裂くようにして、顕れるのは……


 ――月の鏡!


 “虚像を抱く影”の御霊の形代!



 彼女の唇は紡ぐ。



 水鏡の月の姿で描かれるその名は


「――『鏡月(きょうげつ)』。」



 少女はその身に憑く(かみ)の名を呟き、現れた銅鏡を抱き締めると2人に悟られる前にその場を後にした。


    ◇


 翌朝。


 春の空気はまだ冷たく、吐く息が白くなるほどではないのに、喉の奥が少しだけ痛い。


 社務所の戸を開けると、境内の木々が湿った匂いを返してくる。


 昨夜のことが夢じゃないと、足元の土の感触が教えてくれた。


 紅葉は制服の襟を整えながら、石段の方へ目をやる。


「紅葉ちゃん」


 声に振り向くと、桜子ちゃんがいた。


 いつも通りの二つ結び。少しだけ眠そうな目。


 けれど、昨日までの“どこか遠く”を見ている感じが消えている。


「……もう来てくれてたんだ」


「うん」


 桜子ちゃんは少し照れたみたいに視線を逸らしてから、紅葉を見た。


「……寂しいなら、一緒にいようって言ってくれたから」


 紅葉は言葉を飲み込んだ。


『寂しいなら一緒に』。


 その一言に、昨日の夕焼けの部屋が一気に思い出される。


 だけど今は、言わない。


 今は、ここにいることが大事だ。


「さぁ……行こ」


 紅葉がそう言うと、桜子ちゃんは小さくうなずく。


「うん。……一緒に」


 並んで歩き出す。


 春の朝の道は静かで、鳥の声と、靴が砂を踏む音だけが続く。


 紅葉は、無意識にポケットに指を入れた。

 硬い紙の感触――【朝日と鶏】の絵札。


 少し遅れて、桜子ちゃんも胸元を押さえるようにポケットに触れる。


 そこにあるのは、【和本】の絵札。


 昨日、最後に残った“夜明けの形”。


 それがあるだけで、怖さより先に、妙な責任感が胸の中に居座る。


(……私、もう戻れないんだろうな)


 でも、それでいい。


 桜子ちゃんが、今ここにいるなら。


 校門が見えてきたころ、桜子ちゃんが歩幅を少し落とした。


「ねえ、紅葉ちゃん」


「なに?」


 桜子ちゃんは一瞬、言いづらそうに唇を噛んでから、息を吐く。


「ごめん……私、嘘ついてた。家に伝わる歌、全部知ってる」


 胸が跳ねる。


「……夢の中で時記(神様)の声……私の記憶、見えたでしょ?」


 紅葉は、歩幅をほんの少しだけ緩めた。


「……うん」


 否定もしなかった。


 正しい言葉で取り繕う自信もなかった。


 桜子は小さく息を吐く。


「……後で……今度神社に行くから、お婆ちゃんに聞いた家に伝わる歌ちゃんと教える」


「ありがとう」


 紅葉はそれだけ言った。


「お祭りも……手伝うよ。一応、昔は古い家が参加する決まりだったらしいし」


 桜子ちゃんがちらりと紅葉を見る。


 紅葉は、少し笑った。


「……そう。よろしく」


 桜子ちゃんは、それだけで納得したみたいに前を向いた。


 まるで、昨日の“長い夜”が、もう過去になりかけているみたいに。


    ◇


 学校に着き教室に入った瞬間、窓際の席で音がした。


 黒髪が背中に流れて、制服の上でまっすぐ揺れている。


 結禍(ゆいか)


 椅子から立ち上がる音がして、次の瞬間には距離が詰められていた。


 そして。


 ぎゅっ、と。


 結禍が桜子ちゃんを抱きしめた。


 驚いて固まる桜子ちゃん。


 紅葉も、一瞬息を止める。


 結禍の腕は強い。細いのに、逃がさない力がある。


「……っ、ゆ、結禍ちゃん……?」


 結禍は桜子の答えを聞いて、さらに強く抱きしめる。


「良かった……桜子が私の事わかる……」


 数秒――いや、もっと長く感じた。


 ようやく腕を緩めても、離れない。


 肩に手を置いたまま、桜子ちゃんの顔を覗き込む。


 結禍の目は、いつもみたいに冷静で淡々としているのに、底が揺れていた。


「……目、見えてる?」


「え……う、うん」


 結禍は桜子ちゃんの腕に触れる。


「……動く?」


 桜子ちゃんは呆然としながら、指を動かす。


「う、動く……けど……」


 結禍は、その肩をぎゅっと掴んだ。


「……二人とも」


 少しだけ、声が震える。


「五体満足で……帰ってきてよかった……」


 紅葉は、自分の鼓動の音ばかり聞いていた。


 桜子ちゃんが、ようやく状況を飲み込んだみたいに目を瞬く。


「……心配、してくれてたの?」


「当たり前」


 即答だった。


 結禍は視線を逸らし、唇を引き結ぶ。


「昨日、連絡つかないって聞いて……」


 そこから先は言わない。


 けれど、“どこまで分かっているか”だけは、十分に伝わった。


 結禍はもう一度、桜子ちゃんを短く抱きしめる。


「……よかった」


 桜子ちゃんの目に、じわっと涙が滲む。


「……ごめん」


「謝らないで」


 結禍の声は、いつもより少しだけ柔らかい。


「……うん」


 それは許しじゃない。


 でも、“ここにいていい”っていう合図だった。


 桜子ちゃんが涙を拭いながら笑う。


「……なんか、二人とも変」


「変でいい」


 結禍は即答する。


「今日は、それでいい」


 その言い方が、妙に可笑しくて。


 紅葉は、泣きそうなのに笑ってしまった。


 桜子ちゃんも、少し遅れて笑った。


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「マジで誰か褒めて」

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