3話【追憶の夢(中)】
新学期が始まって、一週間。
ようやくこの学校にも、日常と呼べる空気が戻ってきた頃だった。
紅葉が教室に入ると、教室の空気が少しだけ変だった。
席に向かって歩くたび、
紅葉の膝まである長い銀髪が、制服の背に静かに触れる。
理由はすぐにわかった。――桜子ちゃんが、いない。
彼女は、これまで一度も遅刻したことがなかったのに。
桜子ちゃんは、いつも一番に教室にいる。
扉を開ければ、必ずこちらに手を振ってくる。
だから今朝、席が空いているのを見たとき、
紅葉は一瞬、時間を見間違えたのだと思ったくらいで。
けれど、始業のチャイムが鳴る寸前になっても、
その席は空いたままだった。
担任が名簿を開いた、そのとき。
廊下の奥から、駆けるような足音が近づいてきた。
紅葉は反射的に、扉の方を見た。
がらり、と音を立てて扉が開く。
「……すみません、遅れました」
ふたつ結びの髪を胸元に垂らした小柄な女の子、
桜子ちゃん――鴇食桜子が、息を切らして教室に入ってくる。
担任は一度だけ桜子ちゃんを見て、名簿に視線を落とした。
「どうした。今日はずいぶん遅いな」
桜子ちゃんは少し間を置いてから、
申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません……教室、間違えました」
教室の空気が、わずかに緩んだ。
「一年生のときの教室で、そのまま座って寝てて……」
一瞬の沈黙のあと、
あちこちから小さな笑い声が漏れる。
担任は深く息をつき、
眼鏡の奥から呆れたように桜子ちゃんを見た。
「まったく……。席に着け。次は気をつけろ」
「はい……」
授業は、そのまま何事もなかったように始まった。
けれど紅葉だけは、
何度も桜子ちゃんの横顔を見てしまう。
(教室を間違えるなんて、桜子ちゃんらしくない)
それからの桜子ちゃんは、やっぱり少し変だった。
ある日は、時間割を一日勘違いしたまま登校してきて、 必要のない教科書ばかりを机に並べていた。
体育のある日には体操着を忘れ、 「明後日じゃなかったっけ」と首をかしげていた。
またある日は、 前日に提出したはずの宿題を思い出したように広げて、
慌ててノートに向かっていたこともある。 もう終わっていると気づくまで、しばらく。
その逆もあった。 宿題そのものを、すっかり忘れてきていた日も。
どれも、致命的な失敗というほどじゃない。 先生に注意されれば、それで済むようなことばかりだ。
けれど――
それが何日も続くうちに、紅葉の中に、言葉にできない引っかかりが残り始めていた。
(桜子ちゃん、どうしたんだろう)
いつもの彼女なら、こんなふうに間違いを重ねるはずがない。
そう思えば思うほど、胸の奥が、静かにざわつく。
そして、ある日。
ついに桜子ちゃんは、学校に来なかった。
始業のチャイムが鳴っても、
あの席は、朝からずっと空いたままだった。
担任が名簿を確認し、首をひとつかしげる。
家に電話をしたが、誰も出なかったらしい。
教室は、いつもより少しだけ静かだった。
◇
紅葉はその日、学校が終わるまでずっと落ち着かなかった。
授業は黒板の文字は目に入るのに、内容が頭に残らない。
休み時間、クラスメイトの誰かが、
「風邪じゃない?」
「連絡ミスか何かじゃない?」
と軽く言うのを、紅葉は黙って聞いていた。
放課後のチャイムが鳴っても、
あの席は、最後まで埋まらなかった。
(……やっぱり、おかしい)
鞄を持ち上げたところで、紅葉はふと立ち止まる。
桜子ちゃんの家は、紅葉が住んでる神社からそう遠くない。
迷う理由は、いくつもあった。
余計なお世話かもしれないし、
何もなかったら、ただの取り越し苦労だ。
――それでも。
あの子が、何も言わずに休むなんて。
連絡もなく、遅刻もしない彼女が。
紅葉は、小さく息を吸い込んだ。
「……行くだけ、行こう」
そう呟いて、教室を出た。
◇◆◇
校門を抜ける紅葉の背中を、二階の窓から見下ろす影があった。
星も見えない夜空を思わせる艶のある長い黒髪の少女、星見屋 結禍である。
「……紅葉」
結禍は小さく呟く。
スカートのポケットから、トランプほどの大きさのカードを取り出し、強く握りしめた。
カードの表面には、“水鏡の月”の絵。
「……もし、■■なら」
言葉は、途中で途切れる。
「……私が、引き受ける」
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