2話【影を抱く歌】/【追憶の夢(上)】
翌朝、紅葉は少し早めに家を出た。
早朝の空気は春先特有の冷たさを残し、少し寒いくらいだ。
膝まである長い銀髪はまだ整えきれず、寝癖を指で押さえながら歩く。
淡い色のカーディガンを下に着た、着慣れたブレザーの制服。
袖口からのぞく手首は冷え、思わず指先を握りしめた。
隣町の高校へつくと、学校の出入口前で足を止める。
掲示板にはクラス表が貼り出され、その前に生徒たちが集まっていた。
掲示板の前は、思ったよりも静かだった。
一年のときのような高揚感はなく、短い声がところどころで上がるだけだ。
紅葉は人の隙間から紙をのぞき込んだ。
クラスごとに並んだ名前の列を、上から順に追っていく。
――一組、二組……。
自分の名前を見つけたのは、三組の欄だった。
二年三組。
文字を追った視線が、自分の名前のところで止まる。
見知った名前はいくつかあったが、
どれも「話したことがある」程度の距離だ。
けれど、運の良いことに、
仲の良かった友人――鴇食 桜子と、
紅葉の親戚である星見屋 結禍の名前を見つけ、
胸の奥で、わずかに力が抜ける。
近くでは誰かが小さくため息をつき、
別の誰かが「まあ、仕方ないか」と笑っていた。
紅葉は掲示板から離れ、校舎を見上げた。
二年生になったからといって、
何かが急に変わるわけではない。全員見知った顔だ。
それでも、新しい一年が始まる。
彼女は二年三組の教室へ向かった。
◇
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。
桜子と結禍の姿を見つけ、紅葉はそちらへ向かう。
桜子は窓際の席に腰掛け、机に肘をついて外を眺めていた。
二つ結びにした髪を胸元に垂らし、春の光を受けてゆっくり揺れている。
その向かいの席には、結禍がすでに荷物を置いている。
紅葉が近づくと、先に気づいたのは桜子だった。
「あ、紅葉ちゃん。今年も同じクラスだったね」
結禍も顔を上げ、軽く手を挙げる。
腰まである、まっすぐで艶のある黒髪。
色が抜けた今の自分と違って、まるで星も見えない夜空のよう。
「おはよ。まあ、今年もよろしく」
雑な口調に、紅葉は小さく息をつく。
相変わらず、無駄のない言い方だ。
昔からそうだった――比べられるたびに、思い出す。
「朝からそれだけ?」
桜子がくすりと笑う。
「でも助かったでしょ。知ってる顔があると」
紅葉は周囲を見渡した。
教室には、見覚えのある顔とそうでない顔が半々ほど混じっている。
去年と似ているようで、どこか違う空間だった。
「席、決まってるのかな」
紅葉が言うと、桜子は机の端に貼られた紙を指さした。
「番号順みたい。たぶん仮だけど」
ちょうどそのとき、廊下からチャイム前のざわめきが流れ込んできた。
誰かが席を探して歩き回り、椅子を引く音が重なる。
新しいクラスの朝が、静かに動き始めていた。
◇
昼休み、教室の隅で三人は机を寄せていた。
紅葉が弁当を広げていると、
その向かいではすでに結禍が、弁当箱の端に並んだタコさんウインナーを一本つまみ上げていた。
それは昔から変わらず、結禍の弁当には、いつも入っている彼女の好物だ。
結禍は迷いなく足の部分から口へ運び、もぐもぐと噛む。
表情は相変わらず淡々としているのに、噛む速度だけが少しだけ早い。
もぐもぐと噛みながら、次の一本にもう結禍の視線が向いている。
少し間を置いて、弁当を広げていた桜子が少し言いにくそうに口を開いた。
「ねえ、紅葉ちゃん」
箸を持つ手が、一瞬止まった。
「神社に引っ越してきたんでしょ?……近所だったのに、手伝いに行けなくてごめん」
紅葉は顔を上げる。
「え?」
「声かけるだけでもできたのにって、ずっと思ってて」
桜子は困ったように笑った。
紅葉はすぐに首を振る。
「そんな……気にしてないよ引っ越しは私のわがままだし」
少しの沈黙のあと、結禍が箸を置いた。
いつの間にか、弁当箱のタコさんウインナーだけがきれいになくなっている。
「桜子ちゃんは、ばあちゃんの入院でドタバタして忙しかったでしょ」
淡々とした口調だった。
「今もまだ入院中だし」
桜子は一瞬、言われたことに驚いた顔をして、
すぐに小さく笑った。
「うん。だから、ほんとに仕方なかったんだけどね」
紅葉は言葉に詰まる。
「……知らなかった」
「言ってなかったし」
桜子は肩をすくめる。
「心配かけたくなかったから」
短い沈黙のあと、結禍が続けた。
「紅葉の引っ越しの話を出したのも、私のマ……」
一瞬だけ言いよどみ、言い直す。
「……母さんだったのに、私も手伝いには行かなかったし」
紅葉が顔を上げる。
「なぜか母さんに止められてた」
結禍は弁当箱の端を押さえながら言った。
◇
紅葉は少し考えてから、桜子を見た。
「桜子ちゃんの家って、村の中でも古い家じゃん」
言葉を選ぶように、一度区切る。
「……神様の話とか、昔話みたいなの、何か知らない?」
桜子は一瞬きょとんとして、それから少し困ったように笑った。
「うーん、知ってるって言えるほどじゃないけど」
「ばあちゃんから聞いた話なら、少しあるよ」
そう前置きしてから、桜子は続けた。
「家が代々ついでる歌と、お祭りのときに聞く神様の話くらいで……それと、羽衣伝説みたいな話かな」
紅葉は少し目を見開いた。
「……それ、もう少し詳しく聞いてもいい?」
桜子は一瞬考えるように視線を上の時計に向ける。
「今は全部話せないかな」
「じゃあ、放課後とか」
紅葉は控えめに言った。
「お願い……教えて」
桜子は小さく笑って、うなずく。
「うん。なら、神社に行くね」
紅葉は驚いたように目を瞬かせる。
「歌の話、家より神社のほうが分かりやすいし」
桜子はそう付け足した。
◇
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気は一気にほどけた。
帰り支度をする音が重なり、昼とは違うざわめきが広がる。
桜子と紅葉は、連れ立って校舎を出た。
結禍の姿は、そこにはない。
夕方の空は、昼よりも少し低く感じられた。
◇
ふたりは村へ戻り、桜子の家に一度立ち寄った。
そこから、神社へ続く階段を登る。
「この道、久しぶりかも」
桜子が歩きながら言った。
紅葉はうなずく。
「神社にこなければ、あんまり通らないからね」
並んで歩く距離は、遠すぎず、近すぎず。
昼休みの続きをするには、ちょうどいい間合いだった。
石段を登りきると、境内はひっそりとしていた。
夕方の風が、木々の間を静かに抜けていく。
紅葉は社務所へ向かい、引き戸を開けた。
ひやりとした空気が、肌に触れる。
「どうぞ」
紅葉はそう言って、明かりをつけた。
桜子は一瞬だけ足を止め、それから中に入る。
「……意外と綺麗だね」
紅葉は小さく笑った。
「一応、生活できる部分だけは掃除したから」
湯を沸かす音が、社務所の静けさに溶ける。
二人は向かい合って腰を下ろした。
少し間があって、桜子が口を開く。
「お昼に言ってた歌なんだけど、ばあちゃんが言うには、昔は古い家ごとにお祭りで歌う歌の続きが伝わってたらしいの」
紅葉は、黙ってうなずいた。
「歌はね」
桜子は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「途中までしか教わってないの」
紅葉が顔を上げる。
「続きは?」
「お祭りの日だけって言われてた」
桜子は、畳の縁を指でなぞる。
「昔は、家ごとに役割があって神様が宿ってる形代も継いでたらしいよ」
桜子は鞄から取り出した形代だという和綴じの本を紅葉に見せる。
紅葉は小さく息を吸った。
「……他には何か言われてない?」
「神様……この悠久神社の悠久様は、天女の子だってばあちゃんは言ってたくらい」
紅葉は、その言葉を胸の中で繰り返した。
ここに住んでいるのに。
知らないことのほうが、ずっと多い。
紅葉が、思い出したように言った。
「神様の話って、お祭りで聴く“家族に置いてかれた神様と一緒にいてあげよう”ってやつ?」
桜子はうなずく。
「それ。元は歌なんだって」
一度、息を整えると、
「歌詞は――
【ひとつひとつと かげがとお】
【ひとのおもいに うまれいで】
【よるにまよいし そのかげは】
【あしたをねがい さまよう】
【ひかりはとおく とどかぬままに】
【いえをなくした わらべとお】
【ひとりひとりが かげいだき】
【あいをささげ めぐみをえ】
【いまもさまよう そのこえは】
【ふたたびともに いきたしや】……だね」
歌が終わると、社務所の中はしんと静まり返った。
湯の沸く音だけが、遅れて戻ってくる。
桜子は息を整えるように、小さく息を吐いた。
「……そろそろ、帰らなきゃ」
紅葉は、少し遅れてうなずく。
「うん。ありがとう、教えてくれて」
「ううん」
桜子は立ち上がり、照れたように笑った。
「話せるの、ここくらいだから」
引き戸を開けると、夕方の空気が流れ込む。
境内の木々が、かすかにざわめいた。
「またね」
桜子はそう言って、石段のほうへ向かう。
紅葉は、鳥居の前でその背中を見送った。
◇◆◇
石段を小走りで下りながら、桜子は一度だけ振り返った。
社務所の明かりは、もう見えない。
(……ごめんね、紅葉ちゃん)
足を止め、胸の奥で言葉をつぶやく。
声には、ならなかった。
本当は、全部を話していない。
歌のことも。
ばあちゃんが言っていた“続き”のことも。
(言えない。紅葉ちゃんは、朝日だから)
幼い頃、おばあちゃんの家に遊びに来た桜子に、
最初に声をかけてくれたのは紅葉と結禍だった。
紅葉は手を引いて外に桜子を連れ出し、
結禍は月のように、後ろから照らしていた。
桜子を照らしてくれた、二つのひかり。
父の海外赴任に母がついていき、
おばあちゃんの家に預けられて、こっちの小学校に転校してきたときも、
すぐに居場所ができたのは、二人がいたからだ。
おばあちゃんが入院するまで私には『おかえり』って言ってくれる家族がいた。
両親がいなくても。
おばあちゃんがいれば、寂しいと思うことはなかった。
(でも……だからこそ紅葉ちゃんには言えない。朝がくれば夢は覚めてしまうから)
桜子は鞄から1冊の和本を取り出してぎゅっと抱きしめる。
昔はよかった。
家に帰ればお母さんがいた。おばあちゃんがいた。お父さんにもすぐに会えた。
紅葉ちゃんと結禍ちゃん、二人の仲も、昔はもっと良かった。
風が吹き、木の葉が擦れる音がする。
夕方は、もう終わりかけていた。
「お願い、時記よ……私にもう少しだけ過去を見させて……」
それが約束なのか、願いなのか。
自分でも分からないまま、鴇食 桜子は誰も『おかえり』と言わない家にむかって歩き出した。
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