深淵をうつす
頭パッパラパー状態でありながらも、素敵な空元気でどうにか会議をやり過ごし取り決めを結び、ようやっとこのレジェンズ会合も終幕を迎えた。
しかして顔面偏差値つよつよ夫婦が去ってようやく一息つけると思いきや、部屋には未だスサノオとイザナミの古代越えて太古組が取り残されたままだった。いや、ここはスサノオのお宅であるので、その家主がいるのは何ら不思議なことではないのだが、親族とは言え、普段この家に住んでいない冥界の女王様が何故動こうとなさらないのかが問題なのである。
俺はこの後、スサノオ邸に置かせてもらっている俺の部屋にある私物を回収するついでに、そこを通って社間テレポートでもしようかと思っていたところであるので、一応家主に断りを入れておこうと話しかけるタイミングをうかがっているところである。そこにレジェンズのなかでもとびっきりのレジェンドたる女王様がいらっしゃるならば、何となく切り出しづらく、のんびりとお茶をすっている彼女を尻目に、腕にかかる触手をもぞもぞと弄っていた。
――と、ほのかに花の香りを纏う黄金の雫を、滑らかに上下する白い喉に注ぎ込んだ彼女は、ほうと暖かな呼気を漏らした。そうして優雅な所作で空になった茶碗の飲み口をぬぐい、それをことりと茶托に置くと、一拍の後に囁くように告げたのである。
『汝、汝は祟り神ぞな』
伏せられた長いまつ毛に覆われた目が、ふと立ち上がる。
『……汝、自らは、汝の瘴気に触れてみたい』
赤い瞳がこちらを見据えていた。
俺と同じ色。だけれど、ずっとずっと深い色のそれが。
『……いけません。私の瘴気は全てを腐らせます。触れば貴女の御手に傷がついてしまうことでしょう』
先の大王様の件がふと頭をよぎり、呑み込まれる前にと無理やり視線を逸らせてそう訴えれば、つかみどころのない幻のような彼女は、おぼろに促すのだ。
『よい。自らもまた瘴気を生む者。これは汝を知る最たる手』
『わ、私の瘴気など、とてもお見せできるようなものでは……!』
『――嫌か?』
こてりと小首が傾げられ、榊の葉で編まれた冠に収められた、長く美しい艶やかな黒髪がはらりとその華奢な肩に広がった。
嫌だ、とかそういうことではないのだ。ただ、あれは表に見せるようなものじゃない。決して見ていて気持ちの良いものなんかじゃなくて、むしろその真逆で――
けれども、彼の黄泉の大女王様に意識を向けられた時点で、選択肢なんて概念そのものがありやしないのだ。
『いいえ、いいえ。そんなことは……しかし、ここはスサノオ様の邸宅。せめて外に――』
『よい。我が母上の頼みなるぞ。やれ、ヤトノカミ』
横で胡坐を汲んでこちらを見ていたスサノオが、唸るようにして言う。笑みを浮かべるでもなく、怒りを浮かべるでもなく、ただこちらをまっすぐに見据えていた。彼の母と同じように、真っすぐと。
『ヤトノカミ。不思議の子よ。自らは、汝を知りたい』
遙かなる時を深淵の中に過ごした太古の神がやわらに言う。その口元に淡く微笑みを称えて。
ああ。本当に、憐れみを覚えるならば――
『……承知、しました。では、参りますよ……?』
『来よ』
縋るような気持ちで最後に確認を取っても、やっぱり結果は変わらず。
覚悟を決め、自分の奥底と向き合うために、三つの目を全て閉じた。
身体の力を抜き、自らの底にたまる汚泥をぐっと前面に押し出せば、目で見ずとも分かる。風も無いのにはためきだした触手が直ちに真っ赤に染め上がり、じっとりと粘つく黒煙が着物の裾から溢れ出した。沸き上がる煮詰まった苦々しい怒気をゆっくりと口から吐き出せば、それは堕ちた者にとって甘ったるい芳香を放つ霞となって表に現れる。
しかれども、少量外に漏れた煙は、スサノオから自然とあふるる神気に浄化されて直ぐにかき消されて行く。
第六感で”視る”視界は、気と力を脳裏にイメージとして映し出す。眼球という器官に映らなくとも、五感の外の感覚には、彼の神から立ち上る荒々しくも神々しい神気をはっきりと知覚していた。――同時に、自分という袋の中に詰まった、ひどく汚ならしいものにも。
そのままではかき消され続ける瘴気を取り持つために、戦場に立つ時に似た、けれども凍えつくようなそれとは真逆に煮えたぎった感情を呼び起こす。
敵を打ち滅ぼすことを。露になる守りの薄い弱点を、その首を搔っ切って絶命させようと狙うことを。心の一切の激情を増幅させて、敵を屠ることへの憎悪を掻き立てることを。アイツを、■■したいという欲を。
どろどろに煮えたぎった熱い臓物を掻きまわしながら加速度的に出力を高めて行けば、内側に膨れ上がった黒煙が、ついに爆ぜるようにして表に噴出した。
今間違って炎を吹いてしまえば、この燃えやすい闇色の気体にぱっと火花が散って、たちまちのうちにこの場は火の海へと姿を変えるだろう。
熱に浮かされたような最悪の気分に浸りながらぼんやりと思う。
こうなった以上、何か集中すべきことも無い。じっとりと焦げくさい感情に浸された身をどこか遠くに感じる。そっと瞼を開けば、見事な装飾に溢れていた部屋中が、煤がべったりと塗りたくられたようなひどい有様となって視界に現れた。
ついとスサノオの方に目を向けて見れば、己の座す周りのみが、元の有様として綺麗に球に切り取られたようになっている。この部屋が部屋としての形を保っていられるのは、彼がこの空間に力を展開し、俺の力を閉じ込めてくれているからだ。それを素直にありがたく思いながらも、こうして表に瘴気を吐き出さなければならなくなったこの現状を恨む。
けれども、それ以上にずっと大きく脳裏を占めているのは、あの憎々しい神を名乗る黒ずくめの軽薄奴への恨みだった。
行き場のない感情だった。気が狂いそうなほど、何もかもを崩壊させるほど全身全霊で憎いのに、心がひっくり返ってしまうギリギリのところで留められている。雁字搦めに縛られている。覆いつくさんと這う鎖が魂に食い込んで、今にも破裂してしまいそうな俺は、無理やり”正常”たる様に押し込められていた。
俺が”こう”成った時、己の根幹に軸として打ち込まれた忌々しい怨嗟の楔は、俺自身を腐らせようと常にどす黒い毒を送り込んでくる。無理やりに怨へと感情を塗り替えようとする呪いの楔だ。
だけれど、その毒に駆り立てられるままに、八つ裂きにしてしまいたいアイツに施された術の鎖によって、俺はまともな思考を保っていられるのだ。俺のままでいられるのだ。すっかり瘴気に満たされながら、しっかり正気でいられるのだ。
最早、あれほど想った理由を置き去りにして、感情だけが増幅されるような有様だった。決してヒトに見せられるものではない。そんな汚らしい内側を押さえつけるようにして被せた、表感情の覆面を取っ払って晒すことの何と悍ましいことか。心の深淵を映し、写し、また現して見せることのなんと惨めたらしいことか。
しかしてこの惨事を求めた彼の女神へとついと目を遣れば、彼女は変わらず微笑を称えてそこに在った。真っ黒な空間に優美に座していた。
彼女はおもむろに目を閉じると、場に下ろされたぽってりと重たい闇の帳を長く長く吸い込み、そのふくよかな胸一杯に取り入れた。肺の膨らむごとに、御髪を飾る榊の葉が穢れに黒ずみ萎れてゆく。しかれどもその面持ちは甘美を噛みしめるようにして恍惚としていた。
そうして美食を味わうようにしてゆっくりと瘴気を堪能した黄泉の大女王は、やがては初め花の茶を楽しんだ時のようにして、満足げに吐息をついた。
『……嗚呼、哀れなる歪の子よ。迷い子よ。汝もまた我らと同じ、溢れんばかりの呪いに満たされてゐる。まこと憐れよな。その忌まわしき蜘蛛の糸に、掬われど救われ、また巣食われてゐる……』
薄い瞼の天蓋を揺らして、その目が再び開かれる。美しい柘榴の光を灯した深淵の瞳が現れた。
『然れども……愛に、愛に満ちてゐる。汝は人の子ぞな。しかして多くに慕われてゐる。人にも、ヒトにも……嗚呼、嗚呼。何とあはれで愛しき子かな』
しかして、永きの時を彷彿とさせる、慈愛に満ち満ちた"声"で言うのだ。
『自らも恨みを糧とする。それでも愛しを食む時は格別。――汝、愛されてゐるな』
さて、己の求めることをして満足したか、黄泉の大女王はこちらに一つ礼の言の葉を渡すと、淑やかにスサノオへ向き直って二言三言告げ去ろうとした。
それを引き留めて母の元へ近く寄ったスサノオが、白い額にそっと己の太い手の指を翳すや否や、彼女の頭で黒くなってしまっていた榊の冠はたちまちのうちに緑に生気を取り戻し満ちて復活した。それに婉麗に微笑した冥界の女王は、息子にも礼を告げると、リンと涼やかな鈴の音を一つ響かせて、瞬きの間にその場から姿を消してしまった。後に残るは、薄く残された雅やかな気配のみ。まるで夢幻のごとく。
あとに残された俺は暫くぼけっと呆けていたが、スサノオのパンと柏手を打つ音にはっと我に返った。見れば、周りはすっかりと元の美しい部屋に戻っており、そこに瘴気の汚れの一つも無い。
部屋自体は彼の一拍手でいとも簡単に浄化されたとはいえ、なんとなく部屋を汚してしまったことを謝ると、彼はフンと鼻を鳴らしてどうでも良さげに手をちょいちょいと振った。そこで俺も頃合いかと、スサノオに念願の断りを入れ、この家にある俺の部屋へと向けて足を進めたのだった。




