兄の呼び名
御殿前での一件の、その後の話だ。
スサノオと行動するに当たって、ウェイの兄様に預けておいていたはずのアニウエを、推しを前にして固まったホタチさんの腕の中から受け取った直後のことである。
再会するや否や、アニウエはぴとりと俺の胸当てに引っ付いたまま動かなくなった。少し前、災禍にふっとばされて、オリヒメ様と一緒に再会した時の様と、まるで同じように。けれど、ギュリギュリと耳に不快な鳴き声を絶えず上げていたあの時と違って、今回の彼は引っ張っても軽く叩いてみても、まるで無反応だった。
「ちょっと、アニウエ! そこにくっつかれると、何か俺にむ、む、胸が生えたみたいになるだろ! そういうのはオリヒメさんみたいな女のひとに実ってるからいいんであって、俺の胸板に生えたってなんか恥ずかしいだけだから!」
周りにはまだ神々が大勢いる状態だった。だからこそこそと小声で話しかけていたってのに、傍にいたスサノオの地獄耳には容易に汲み取れてしまったようである。もさもさとした太い眉をひそめて尋ねて来た。
『おいヤトノカミ。貴様、見ぬうちに眷属を得たのだな。しかし、何故それを”兄”と称す?』
「え? 何でといわれますと……ウーン、コレが俺の兄上だから、としか答えようがないですね」
『兄上……? 如何なる故してこの面妖な妖が……』
スサノオの元からいぶかし気だった表情が、更にレベルを引き上げた。
――が、すぐに何か思い至ることがあったのか、眼光鋭い目の形がぱっと様変わりする。
『……待て、貴様。こ奴、まさか、本当に……? ――ふは、ふははは! そういうことか……! おい、貴様! 心底趣味が悪いな!!』
勝手に自己完結したらしいスサノオは、勝手にツボにハマって爆発的に笑いだした挙句、勝手に俺をディスりはじめた。その反応に軽く引くことはあれ、気分がよくなることはない。
「な、なんです? アニウエったら、知らないうちにこんな姿になってて、引き取りてもいなかったものですから、しょうがないから俺が引き取ったんですよ! それを俺の趣味とか言わないでくださいよ!」
『ぶは、さらに無自覚と来たか! あーっはっはっは! やはり面白い!!』
そうして一通り爆笑し尽くしたスサノオは、涙を目尻に浮かべながら言う。
『して、貴様。先の兎には”兄様”と称していただろう。何か違いでもあるのか?』
「大アリもアリですよ! ギョクト兄様は兄の中の兄なので、自然と様がついちゃったんですよ。一の兄上なんぞと一緒にしないでください!」
ウェイの兄様のことを言われちゃと、思わず身を乗り出すようにして返した――その瞬間だった。
胸に憑りついていたアニウエが、小さく鳴いて身じろぎをしたのだ。
ふと胸を見下ろせば、アニウエの大きな単眼が視界の八割を塗り潰す。
しかして、その真っ赤な虹彩のなかの縦長の瞳孔が、瞳から零れ落ちるようにして逸らされた。
その様はまるで、こちらの話を理解しているかのようだった。それでいて、乏しかったはずの感情を、精細に取り戻したかのようで。帰ったばかりの繊細な部分を、大きく傷付けたようにも見えて。
「……な、んだよ、お前。昔の記憶は無くなってるはずだろ。俺が言ったのは昔のことであって、こうなってからのことじゃないよ。それに今のお前のことは……なんとも思ってない、し」
嘘だ。
何となく、沸き上がった罪悪感を誤魔化すために言っただけだ。
そっちが俺をどう思っていようとも、俺からお前に対する想いは――
しかして、再び無反応に動かなくなったアニウエは、返事をすることは無かった。
瞬間、衝動的に”声”の術を応用して、今まで見ることも無かったその心の内を覗き見てやろうかと思った。――けれど、なんとなく気が乗らなくて止めた。
ぐしゃぐしゃだ。心の中が、ぐちゃぐちゃだ。
……ああ、知らないよ知らない。アニウエが今何を考えてるかだなんてさ。知ろうとしなけりゃ知るもんでもないし……知りたくもないんだ。
俺は、お前に無関心なんだ。応えてやることなんかできないんだ。
だから、お前も俺に無関心でいてくれよ。
大空に掲げたアニウエの体は、半透明に存在していた。
透ける体は遠く天を通して、青い虚に影を落としている。
ぐったりと力の抜けた体から感じるは、はかなく脆い軽さ。
このまま放置すれば、このちっぽけな生物は、きっと本当に消えてしまうことだろう。
アニウエについて、今でも思うことがないわけではない。それは本当だ。
……だけれど、長年共に暮らして、情が湧かなかったわけじゃないのもまた事実。
百年という年月を、この珍妙なカエルモドキと一緒にいたわけだけど、今のアニウエからは特に悪意も感じないし、”兄上”の人格は、瘴気の塊になっているところを見つけた時には、きっと既に死んでしまっていたのかもしれない。
だから、今ここにいる”アニウエ”は、転生したものであると考えるのが妥当であって、前の”兄上”とは何の関係も無くなった、ただのちんちくりんなのかもしれない。
そうでなかったとしても、”元”がつくけど、古墳時代にいた人間メンバーの内では最後の存在ってことで、貴重な存在だってのもある。それに、王という地位が絡まなかった昔は、それなりにいい奴だった記憶もあるんだ。
あれやこれやとぼんやり考えて、ああだこうだと理由をこじつけてみたり。
なかなか踏ん切りの付けられない、このもやもやとした感情が何を求めてるのかは自分でもよく分かんないけれど。だけれど――
目の前で生命が消えてしまうのは、何となく嫌だった。
そうは思っても、なんでアニウエが消えかかってるのかはわからないわけで。原因が分からなくては、打つ手が無い。つまりはどうしようもないわけで。
……いや、これも嘘だ。本当は思い至ることがある。
だけれどそれは、俺が勝手に想像している「新システム」が本当に稼働しているんだったらできるかもしれないって話で、もしも違ったら、アニウエとはここで……
いいや。ごちゃごちゃ御託を並べている場合じゃないのだ。いい加減覚悟を決めなくては……このアニウエを生かすって。
それにもし助けられない運命なんだったとしても、手を尽くした方がきっと気分がいいに決まってる。
考えられる仮説は、「新システム」こと、「原作」世界線で使われていた仕組みたる「現世幽世システム」――下界が分裂して出来るはずの、現世と幽世という二つの世界が、今この時にも存在していることが前提となる。
片方、現世には霊力を持つ者が。そしてもう一方の幽世には、妖力を持つ妖怪たちが棲まうこととなるだろう。
しかして、二世界の境界線を越えてしまえば、異なる世界に体がついていかずに自然と崩壊を始めるのだ。原理としては、今までの神力純度100%系神様が、下界で過ごしにくかった理由と同じである。
原作の物語では、現世で暴れる妖怪を退魔師たち――主人公サイドが、退治していくというのが主なストーリーの流れだった。偶然幽世から現世に渡ってしまった妖怪が、どうにか自身の存在を保とうと、本能のままに現世の生き物から霊力を奪おうとした結果、様々なトラブルが引き起こされることとなったのだ。
角レーダーで辺りをスキャンしてみれば、付近に”在る”もの全てから霊力を感じることからして、降り立ったこの地は”現世”側だと想定出来る。
そして、もしシステムが稼働済みだというのなら、霊力を持たないアニウエに、この”現世”は全く適していない環境ということになる。
このクリーチャーアニウエは、昔はどうあれ、今は人間とは全く異なる”純度100%妖力の妖怪”として変質してしまっており、そこに霊力のかけらもない。
眷属となって俺の神力が混じった状態ではあるが、現世で生きるのに必要になるのは、あくまで霊力である。霊力0%の状態でこのまま放っておけば、きっと肉体が完全に崩壊して、魂と分離するのも時間の内だ。
――ああ、ならもう、答えは出たじゃないか。
今、アニウエに必要な者は霊力だ。そんなもの、俺が自前でたんまり用意できる。
早速左手でアニウエをしっかり鷲掴み、空いた右手に霊力を集める。見る間に金の光が掌に集まって、視界をちらつく触手はとっくに黄金の帯と化した。
『アニウエ、口開けて』
ぼんやりと光を見つめるアニウエにそう指示を出せば、彼はカエルに似た大きな口をあんぐりと開けた。咥内にびっちりと生えた棘が、表に露になる。
――その体内へ向けて、光輝く右手を差し込んだ。
ぼんやりとしていた単眼の焦点が、ぱちりとこちらに合わさった。
『あ、アニウエ、気づいた?』
意識のはっきりしたらしい彼の体は、すっかりと元の様に戻っていた。質量もずっしりと肉の重量を得て、黒い体が背景を透かすことも無くなった。吸盤のついた三又の手は、俺の腕に力強く張り付いている。
そうして、咥内中の幾百の鋭い牙が、俺の手首から先をすっかりと銜えこんでいた。
はっとしたように開けられた口の中からは、ズタズタに引き裂かれた肉が引き出された。しかし、一つ瞬きをするほどの間に、それは掌の形を取り戻し、また指先までしっかりと枝分かれして揃った。
『たくさん食ったな。それでもうしばらくは大丈夫だろ』
ぽかんと口を開けたままにしている彼に、笑顔で語り掛ける。
努めて優しい口調になるよう、注意を払って。
『よかったね、アニウエ』
呆然と見開らかれた大きな赤い眼が、ゆらゆらと水面のように揺れていた。