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成り代わって蛇  作者: 馬伊世
第三章 倭京編
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とある古墳人の⑦ うつつ懺悔

 ああ、不甲斐無いと。

 ただ、己をただ責めることしかできなかった。




 あの日より、己の心が満たされることはひと時として無かった。


 まるで、魂が欠けてしまったかのような損失感。

 自分のいづこかにぽっかりと開いてしまった穴からは、己というものがさらさらと流れ出し、手元に残った心さえも少しずつ崩壊して、まるで全てが虚空の中に消えゆくかのようだった。

 それを止める手段は、最早残されていなかった。ただ、茫然と呆け顔に、己が己から降りゆくのを眺めせしまに、くすんだ曇天の日々を見送った。


 あの日――人ならざる者に転じてしまった友が、生まれたての朝日を戴いた金色の天へと、遠く昇り去ったあの日より。




 ”日常”などというものは、ただ己ひとりのもつ偏狭な固定観念の通りに、物事が滞りなく過ぎ去る様を表した言葉でしかない。実に傲慢で身勝手で矮小な、人間らしい尺度である。


 これまで、”日常”が転じる経験を幾度もしてきた。

 それは生まれ故郷より偉大なる王の座す国へと渡って来た時や、心から須らく仕えることとなる皇子との出会い、また彼の本性の発現に伴う価値観の瓦解に、度し難い奇行に食らいつこうとあがいた日々。

 それから、末永くとこしえに平安たると誰もが思いし、結束かたき国々の絆が、瞬く間に崩れ行き、戦乱の煙の中に身を置くようになったことも。


 けれども、あの日の転じ方は、それまでのものとは比べ物にもならない”異常”であった。予想の描きうる全て理の崩壊。そう、正にその日は”不条理”の体現であった。




 いつしか政を牛耳るようになった、時の権力者たる下衆の理不尽な命を受けて、その日我らは夕闇の森へと誘き出された。逢魔が時を迎えたその刻、それすなわち魑魅魍魎共の蠢く禍災世界。


 武神のごとく戦場を駆け巡り、さんざ神がかった戦果を残したミコという男は、人を疑うということを知らぬただの阿呆だった。疲労困憊のまま、まんまとおびき出された彼に、下衆は褒美と称してそれを手渡した。


 受け取りし(いわ)いの朱塗りの瓢箪。慶事にしか栓の開けられない特別な清い酒。

 その透き通った雫は、不粋にも毒に呪われていた。


 食まされた毒は、直ぐにはその本性を現さなかった。

 祝い事の酒など、滅多に開けられるものではなく、またそれは王族のために作られたものだった。ただ側人の私は、当然口にしたことは無かった。

 嗚呼、味を知らずして、何が毒見であろうか。否、その時私も密かに浮かれていたのだ。その特別の雫で唇を潤せることを。


 きっと薬酒の一種なのであろうと、そうひとくち頬に含んだ時の渋み苦みに言い訳をした己が、腹立たしくてならない。




 先に酒精を食んだ私に異変が生じたのは、隣の阿呆が、待ちきれぬとばかりに大して時もおかず、がぶがぶと思い切り毒酒を飲み下した後のことだった。


 あっと思った時には視界が回っていた。

 平衡感覚を無くして、天地が分からなくなった。


 開いた口からぼたぼた滴るは、戻した酒か、自らの涎か、はたまた血潮か。

 回る視界に、ただあ奴の姿だけを捉えた。


 ミコは、至極冷静な様子だった。

 しかれど、普段はひと時として引き締められることのない、そのたるんだ相好をすっかりと無くしていた。彼は落ち着いた様子で私の口に水を含ませた。毒を吐いて背中をさすられるうち、混沌としていた視界がおさまってきた。


 違和は、思考に回さぬようにした。何もしなくても回る視界に、わざわざ渦を流しいれる必要はない。

 ミコは、同じ酒を胃の腑に流し込んだはずの彼は、まるで何事もなかったかのように正気を保っていた。だが、それが何だというのだろうか。


 私の様子が落ち着いたのを見て、あ奴は何を思ったか下衆に向かって歩み寄って行った。

 その先であれが何をしようとしたのかは分からない。それを知る機会が訪れなかった故に。




 あの体がしんしんと凍り付くような、それでいて融けて焦塊になってしまいそうな感覚は、生涯――否、来世でも忘れることはきっと無い。


 身体の末端からすうと熱を奪われて、それでいて内側は妙に嫌に蒸気立って、ぐらぐらと煮詰められているかのようだった。

 ぐるぐると回る視界は、その一点を中心にして捻じれあがっていた。

 薄っぺらな刃を肉に突き立てられた、友の背を軸として。




 歪む視界は、毒によるものか、世界がまことに停滞していたのか。

 しかして、あろうことかあの下衆は、あ奴を化け物と罵り、蹴り飛ばし、その顔を踏みつけにした。


 ――目前の光景をそうと解した刹那、鈍い思考が閃いた。


 怒り。憤り。無理。

 言葉通り、血反吐を吐いて下衆共を呪った。

 腐った葉のつもる苔臭い土を掻いて、目を見開いて呪った。


 ああ、悔しい、口惜しいと腹の虫が叫ぶ。呻く。震える喉仏を潰して(おめ)く。

 ああ、ああ。――うらめしや。


 ああ、阿呆阿呆。私など捨て置いて、お主はさっさと己の保身にはしるべきだったのだ。

 みっともなく逃げ出して、その腰の獲物を振り回し、辺りに気を配って震えていればよかったのだ。


 阿呆、阿呆、あの阿呆めが………否、この場においての一番のとんまはこの私だった。


 あの言い知れぬ酒の苦みを感じた時点で、直ちに吐き出しあ奴の盃を叩きおとせばよかったのだ。そうすれば、いくら呆けたあれも異変に気付き、自らでその後の狼藉も対処できたかもしれぬ。どこか抜けているとはいえ、至らぬ私よりも、ずっとずっと勘の鋭かったあ奴のこと。きっとどうにかしたに違いない。




 私は平穏に呆けていたのだ。

 戦ばかりの日々の中にも、奴のもたらす、どこか珍妙で奇怪な日常に浸っていたのだ。

 己で考えることを止めて、尊い奇跡を怠惰に貪っていたのだ。


 だがその様なことは言い訳にもならぬ。

 起きてしまっては、いくら嘆いたところでもう取り返しはつかぬのだ。




 陽炎のように揺らめいて、ぐらぐら回る凍り付いた視界の中、その悪夢はうつつとして体現した。

 ふつふつと途切れかける意識の中で見た。黒蛇の妖に飲み込まれた友は、真にどす黒い祟りに飲み込まれていった。


 その体を膨れ上がらして、なにか途方もないモノに成り果てた瞬間を、何もせずにこの目で見た。


 どれだけ気をやってしまいそうな景色が繰り広げられようとも、しかして途切れそうな意識が、真に途絶えることはなかった。

 命を削るほどに気を張って、全てを見届けた。友が祟りの化生に堕ちたところも、白蛇の守り神が顕現するところも、神代に語り継がれる超常の戦いが勃発したところも。


 だから、あれがただ人が目にするのもおこがましき、尊き嵐の御神に天に連れ去られることになった時、黒い鱗に包まれた手でこちらに触れることを恐れるようにして、橙に脈動する光の帯を向けられた折も、これを千切り裂いて手元に置けば、彼を繋ぎ止めることができるのではないかと思考できるだけの気を保っていた。人にはあらざる見た目を存分に押し出して、我らを遠ざけようと密かに試みていたあ奴の痛々しさが、あまりにも哀れに目に見えてしまったから。

 

 故に、小指をからめる妙な(まじな)いを受け、その訳の分からぬ理論を説かれた時、ようやく騒めく心が少しばかり整ったような気がしたものだ。

 そうして、遠く黄金に輝く朝焼けの空に消えゆく友が、細やかな点にも目に映らなくなった時、私の意識はそこで初めてふつりと切れたのだった。






 あれが消えたあとの国は、灰色だった。


 世界から色がすっかりと消え失せた。はりがなく、淀み、たるんでいた。

 民も、戦士も、館に使える者も、皆どこか上の空で、からからに萎びた豆のような有様だった。


 あれから暫くは、老いた先王が陣頭をとり、どうにか国を立て直そうと立ち回っていた。

 あ奴のためにと、社を建てることに腐心して、毎日のように進捗を尋ねられた。

 また、心の寄る辺を失ってぐらぐらと虚空に手を彷徨わせる民たちも、憑りつかれるようにしてこの事業に心血を注いでいた。


 しかれど、なにもかもを後回しにして取り組んだその仕事は、あっけなく終わってしまった。

 先王は、ふすりと憔悴した。


 先の不条理の日、民を統べる王としての役割をもって、民を守るために大立ち回りを成した先王。彼の雄姿は後世に語り継がれるべき偉業であった。しかし、その猛々しかった姿は、この時には見る影もなくなっていた。


 そうして先王は、次第に日々の記憶をその御心に留めることさえも、難しくなっていったようだった。既に王としての仕事を退いていたことや、齢を重ねていたのに加え、この心労ともあれば無理もない。


 やつれ果てた様子の彼を、ぬばたまの御髪を瞬く間に乾いた九十九髪にしてしまった御后様が、それでも気丈に支え続けた。うつつを忘れた先王は、”裏山に隠れてしまった”手のかかる息子の帰りを待って、いつも北の山を困ったように眺めていた。


 王の後継には、ミコの弟君が若くしてつくことになった。




 国が揺れ動く中でも、敵国の攻撃の手は止むことは無い。

 むしろこの動乱を好機と見たか、元から多かった戦の数は、更に多く、また長くなっていった。


 鬱屈とした気分を晴らそうと、連日行われた戦士の酒盛りの場では、かつてミコと共に戦場を駆け抜けた強面の髭面どもが、赤ら顔にわざとらしく空虚な笑いを上げてみせた。


 ――さても先王も運命にはひどく揉まれたものだな。

 ああ。息子が祟り神に転じて、偉大なる嵐の御神と戦い、認められて、挙句の果てには昇天するなんてぇ、とんでもないことが一夜にして起こったんだ。これが現と認められようか。

 そうさ、しかも日がすっかり昇った後に、天上から尊い方々が多く降りられて来られて、まっさらになっちまってた大地を、元の通りの緑美しい山河に蘇らせちまったんだからよ。

 なんてこっちゃ。

 さすが、さすがだなぁ。ついに皇子様は神さんになっちまった。前々から神がかってたけどな、色々と。ほんとになっちまうだなんてな。

 ほんに、色々とあったものよな……。

 前々から、やらかし事を日ごとに乗するお方であるとは思っていたが、ここまでのことを仕出かすとは、ただの一人として思わなかったであろうよ。

 違いない、違いない。

 この珍事の数々にゃ、若衆でもゴリゴリと寿命が削られた心地よな。

 はは、お前さんはもう若衆なんて年じゃなかろうよ。せいぜい嫁さんに愛想つかれねぇように気張りな。

 なにを、まだまだ現役ぴちぴちじゃわい! まだまだコレもぴんしゃんしとる!

 無理しなさんな、今にその腕みたいに折れちまうぞ。ア、ポキポキとほれ。

 なにを、わしゃあどこもかしこも精力満ちてボッキボキじゃあ!

 だははは、わはははは。


 酒精舞うどんちゃん騒ぎは、うつつに霞をかけて行く。

 見たくないものに封をするように、誰もが声を張り、とびきりやかましく、下品に、しょうもないことをどら声で叫んで塗り固めていた。

 喉を焼く清き雫は、思考も目玉も焼き切って、目の前にはつかの間、すっかりと煮え切ってくたくたになった夢が与えられた。


 その酒盛りの喧騒も、日が経つごとに小さく、儚くなっていった。

 勇壮の戦士たちは、ひとり、またひとりと世を離れていった。

 逝く者は皆、空を見上げて事切れていた。





 少しずつ。それでも確実に。

 静かになって行く周囲に紛れるようにして、いつからか出来上がっていた、己の心に空いたがらんどうに違和を覚えていた。


 色の無い景色を、何時の日もどす黒く塗り潰さんとする、友を殺した下衆への恨み。

 あの下衆がうらめしいことには変わりない。しかれど、そこに底知れぬ違和を感じていた。


 何か、何か忘れているような気がする。

 真に憎きは彼の下衆であったろうか。

 嗚呼、わからない。あの下衆への憎しみしか分からない。


 けれども、必ず存在したはずなのだ。ナニカがそこには居たのだ。

 そう、かの下衆の権力者ではない、なにか途方もなくどうしようもない存在が、確かにそこにあったはずなのだ。




 真を憎むことすら許されないのだろうか。

 魂の欠片を奪われて、世界の色を奪われて、真実さえもが奪われるのだろうか。


 いいや私は忘れぬ。忘れぬぞ。

 消えかけて行くソレの記憶を掴んで、しがみついて、無理やりに己につないだ。縛り付けた。心の底から呪ってやりたいその相手を。

 恨み続けること。この灰色の世界を真っ黒に塗り潰して、その存在を心に刻みこみ、己の気の全てを注ぎ込まんとばかりに、心の空虚へと押し込んだ。

 皮肉なことに、全てが思い出せぬその”存在”こそが、私の”正気”を保たんとする最後の砦となっていたのだ。




 進む。日々は進む。ひび割れて進む。

 既に瓦解して久しい東の同盟の守りは、虎視眈々と勢力を伸ばす西の国々の雑兵どもにちょいと突かれては、ほろほろと脆くも崩れていく。


 すでに目に見えた濃い敗戦の色。

 うつつひた迫る防衛戦の最中、部隊の戦士はみるみるうちに数を減らしていった。


 共通の主の背を追って、戦場(いくさば)を駆けた戦友たちが散って行く。

 館を脱走する皇子を共に捜索し、その背丈が大きくなりゆくを見守った古きつわもの共。

 あこがれと呆れをないまぜにして、それでも笑い合って皇子と肩を並べた若きつわもの共。

 彼の狩る鳥獣の肉を分け合って、同じ釜の飯を食らった友達よ。


 散る。散る散る。脆い花弁が解けるがごとく、命が散って行く。

 臓物を突かれて。肩を袈裟懸けに。首を折られて。脳天を射られて。

 誰も誰もが、天を仰いで。最期の時を空に預けて、呼気を引き取り息絶える。


 ――しかり。

 戦の中に在りながら、全ての仲間を守り通しながら戦った、あれの存在がおかしかっただけなのである。まさに”神がかった”振る舞いであった。


 これでは、ますます彼が元から人外の者であったような気がした。

 そのように結論を持っていくのは自然の理のように思えた。


 しかれどいいや。それではならぬ。ああ、この思考こそがならなかったのだ

 この帰結こそが奴を、本当に人の枠から追い出してしまった。

 思考を止めた我ら愚民こそが、あれを真に化け物の姿にかえてしまったのだ。


 すべてを”カガチノミコト故に”と怠惰に思考を放棄し、彼のもたらす日常という奇跡をむしゃぶりつくし、観念した結果がこの結末だ。


 友は人間だった。確かに人間だったのだ。

 あ奴を人ならざるものにしてはならない。他の者があれを何と評しようが、この私だけは、お主を絶対に人間にしておかなければならないのだ。理を外そうとも、流れに逆らおうとも。


 姿が如何様に転じようとも、ミコ、お主の心は人である。






 しかして、墨の残り火のごとく、しがみ付くようぶすぶすと燻っていた我が道は、ある日唐突にふつりと途絶えた。

 つい、かつてのあ奴のようにして、戦士の一人の前に立ちはだかってしまったのだ。


 不意に飛び込み来た、細く無骨な矢が胸を貫いて、それが己の心の臓をばつりと弾けさせたのを感じ取った。


 私はただ人であった。あれの妙に頑丈な体のように、幾度も盾となることは叶わない。

 ただ一度きりの肉盾として、次の民草をまとめる長となるべき男の前に、立ちはだかることしかできなかった。


 すまない。私はお主の”約束”に応えてやれぬようだ。

 守るべき主は守れず、友の約束を破り捨てた愚かな私を、馬鹿な側人と罵るが良い。



 薄く、暗くなってゆく視界の中。闇の中に残った僅かな己すら融けだしていく。

 融けだすもののなかに、来る日も呪を込めた”ソレ”の記憶が、ちらと魂を掠めた。


 ――貴様だけは逃さぬ。


 透けた漆の樹液が、鉄粉に黒くくすみ行くがごとく。

 どっぷりと歪んだ闇の中に意識が落ちて行く。沈んでゆく。

 抱え込んだ重い錘の思いに引きずられて、漆黒へと沈められてゆく。


 しかして意識さえもがべちゃりと黒く塗りつぶされてしまう前に、私は闇の中にもいっそう黒々とした、何か黒い縄のようなものを見た。蛇にも似たその縄に、私はみしりと絡められて浮上させられた。

 上へ、上へと。そうして、今度こそ本当に、この意識が霞がかるようにして雲散した。





 気づけば、息をがぶりと吸い込んでいた。


 ぐるぐると回っている。

 回っている。

 全てが回っている。

 回っている。

 回る。




 「――お前は、”マタヒコ”だ」


 その”名”を呼ばれた時、混沌としていた意識がすうと一つの縄になわれた。

 喉が開いていた。

 私は叫んでいた。

 そして世界を知覚した。




 にわかにゆるりと像を結ぶ輪郭。詳らかにはうすぼやけてよく見えぬ。

 それでも、目前に浮かぶ、黒々とした瞳を捉えた。


 なぜだか目の前にいるミコは、とんと昔と変わらぬ姿で、人の姿をしてそこに居た。

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