進化する暗号
いきなり何かを背中に突きつけられた。続いて「喋るな」という小さな、しかし高圧的な声。
拳銃…… じゃない。ナイフかなにかだ。
と、男は思う。
その時は、それほどの恐怖は感じなかった。現実感が沸いてこなかったからかもしれない。その時、男はまるで映画のワンシーンを思い浮べるように、客観的に今の自分をイメージした。カッコ良く相手を倒してみせたいところだが、もちろん自分はそんな柄じゃないしそんな能力もない。今歩いている道は、車の往来は激しいが人通りは少ない。助けを求めるのも難しそうだ。黙って従うのが一番賢明な判断に思えた。
「そのまま歩き続けろ」
と、声は言う。男は抵抗する意志がない事を示す為に微かに頷くと、そのまま歩き続けた。しばらく進むと、「右へ曲がれ」と声は命令してきた。見ると、そこは更に人通りの少ない小さな路地だった。ここに連れ込まれたら危険だ、もう助かるチャンスはなくなるかもしれない。そう考えたが、何も妙案は浮かばず命令に従い路地を進んだ。てっきりビルの一つにでも入るのかと男は思っていたのだが、そのまま路地を突き抜け大通りまで出た。大通りを出たところには車が停めてあり、目の前まで来ると自然にその車のドアは開いた。黒い車だった。ガラス窓は濃い茶色で、中が見難くなっている。男はその車に乗れと命令をされた。
中に入るとサングラスをかけた男が両隣に座った。
「初めまして、博士」
慇懃無礼な口調で男の片方が言った。自分の肩書きを知っている、その上用意が周到すぎるとなれば、強盗の類ではない。ならば… 博士と呼ばれた男には、自分がこんな扱いを受ける心当たりがあった。
そのままの口調で男は続ける。
「P社が通信に用いている、暗号の解読方法を教えていただきたい」
やはり。
と、男、博士は思った。
博士は長い間、新しい暗号手段の開発に関わっていたのだ。その事は、公にはされていないはずだったがその秘匿性は信用できるものではない。何処からか機密が漏洩したのだろう。
博士はそう悟ると、溜息を漏らした。
――これは厄介な事になったぞ。
博士には彼らを説得できる自信があまりなかった。実は博士には暗号の解読方法など、分かるはずもなかったのである。何しろ、この博士は、暗号開発の仕事に深く関わっていたにも拘らず、暗号についてはまるで素人だったのだから。それを彼らに理解してもらわなくてはならない。しかし、博士がそう言えば、ほぼ間違いなく彼らは博士が嘘を言っていると考えるだろう。
「まずは、断っておきたい」
だから博士は、取り敢えず最初にそう口を開いた。
「私には秘密を厳守するつもりなど毛頭ないという事を。何故なら、この暗号の開発に関わる事になった時に、そういった契約を会社との間に交わしたからだ。つまり、私が危険な状況に陥った場合においては、秘密を厳守する義務は負わない、という契約をしたのだ。もし、私が危険な目に遭う様な事があった場合は、秘密を漏らした会社側に責任がある、として」
そこまでを語ると、博士は一度間を置いた。反応を見定めたかったのだ。しかし、サングラスの男達からは、何の反応も見られなかった。博士は仕方なしに続けた。
「その上で言わせてもらうが、私には暗号解読は不可能だ。何故なら、どんな情報を得ているかは分からないが、私は新しい暗号方法の開発などしていないのだから」
博士がそう言うと、目の前に拳銃が突きつけられた。博士は慌てた。
「待ってくれ! 本当の話なんだ! 私はスパーコンピューターにプログラミングをしただけで、暗号方法など開発していない!」
拳銃がカチリと鳴る。
「こちらの情報と多少の相違があるな。あなたは、そのスパーコンピューターで新しい暗号方法を開発した事になっている。しかも、わずかな助手を除けば、ほとんど一人で開発を行った事に」
それを聞くと、違うんだ、違うんだ、と博士は呻くように繰り返した。
「暗号方法を開発したのは私じゃない。開発したのは、そのスーパーコンピューター…… いや、それともまた違うのだが、とにかく、暗号方法は、そのスーパーコンピューターにプログラムされたソフト内で自動的に開発されたもので、決して私がやった訳ではないんだ」
それを聞くとサングラスの男達は、今度は違った反応を見せた。わずかばかり動揺している。そして、こう尋ねてきた。
「我々は、その辺りの事に関しては専門ではないからよく分からない。しかし、それでも暗号解読に役立てる情報は握っているのだろう?」
博士はその質問を聞くとようやく少し安堵をして、大きく息を吐いた。少しは理解がありそうな連中だ。説得できるかもしれない。
「もちろん、私の知っている情報ならば喜んで提供する。義理も何もない会社の為に殺されたくはないからな。
ただ、私の暗号に関する知識は、素人並だよ。ほんの基礎をプログラミングしたに過ぎない。役に立てるとも思わないのだが…」
「それでもいい。喋れ。一体、どういった方法で暗号を開発した?」
言葉を発する男は、常に決まっていた。もう一人の黙ったままの男はそれを聞くと、やはり無言のままレコーダーを取り出す。博士の説明を、録音するつもりなのだろう。博士は説明を始めた。
「まず、それを説明する為には、遺伝的アルゴリズムという考え方から話し始めなくてはならない。私はその考え方を応用して、スーパーコンピューターに暗号開発を行わせたのだ……。
遺伝的アルゴリズムの重要な概念に適応度地形というものがある。これは、生物の環境に対する適応度を、地形として表現したものの事だ。例えば、その環境が寒冷なものだったとする。そして、そこで暮らすある動物が仮に毛皮を生やすよう進化したとしよう。すると、その動物は毛皮を生やす以前よりも、高い場所に移動する事になる。温度の低い環境に毛を生やして適応をし、適応度地形を昇ったのだ。分かるかな?」
博士がそう問い掛けても、男達は何も答えはしなかった。レコーダーをオンにした途端、男達は言葉を発する気配を少しも見せなくなった。飽くまで博士の説明のみを記録するつもりでいるのかもしれない。博士は、無言のまま続きを話すように促された。
「私は擬似的な生命を、スーパーコンピューターの中に創り上げた。その生命の生き残りのロジックは、発した暗号を解読されない事。暗号を解読されると、その生命は死ぬのだな。もちろん、その生命を食べるプログラムも作った。つまり、捕食者だな。暗号を解読できれば、その捕食者は、暗号を発する生き物の事を食べる事ができる。もちろん、両方の生命は共に進化をする。ただ、両方とも一種類のみでは充分な進化は起こらない。だから私は、それに相当する生命達を数種類創り出し、擬似的な生態系のようなものを、コンピューター内に創り上げた。
ここまで話せば、もう分かるだろう?私 がやったのは、このプログラム生命達を如何に効率良く進化させるか、だったのだ。それが私の仕事だった。このプログラムによって開発される暗号方法が、どれくらい有用なものになるのか、どんな性質になるのか、それすら知らないで私は作業を行っていたんだ。そこで出来上がったものが、実際に活用できるかどうか、その検討は他の私の知らない人間達が行っていた。つまり、暗号自体には全く私は関わっていなかったのだ。だからこそ、私には守秘義務だって課せられなかった。暴露されて困るような情報など、何一つ私が持っていない事を会社は知っていたのだ」
博士は説明はもう充分ではないかと判断し止めようとしたのだが、男達には何の動きも見られなかった。どうやら、まだ続きを話せ、という事らしい。博士はどう続ければ良いか迷った挙句、もう少し詳しく遺伝的アルゴリズムについて話す事にした。どうせ、博士に分かっている事はそれしかない。
「このプログラム生命達の進化は、実際の生物と同じ様に交叉や突然変異によって起こる。遺伝子が、次世代へと完全に受け継がれる訳ではなく、変化が生じるのだな。変化しなければ、進化など起り得ないから、これは当然だろう。そして、数々の形態へと変化した種の内、より環境に適応したものが、多く繁殖する事になる。ただし、ある程度まで進化すると、進化はほぼ止まってしまう。適応度地形の概念を思い出してくれ、地形の頂上に昇りつめれば、もう進化は起こらない。それは容易に理解できるだろう? しかし、ここで問題なのが、それが本当に頂上なのかどうか分からないという点だ。地形で表現するのなら、それは一つの山の頂に過ぎないという事だ。アルプスの頂上までいけば、アルプスの中では一番高いかもしれないが、実はヒマラヤの方がもっと高い。そして、もっと高い山を生命に昇らせる為には、一度その山を降りさせる必要が生じてくる。さて、ではその為にはどうするべきだろうか?」
ここまで語ると、博士は少なからず説明する事を面白く感じ始めていた。この博士は、自分の研究成果や工夫点を人に語るのは、好きなのである。そして、その態度がその場にいたサングラスの男達を少なからず安心させた。つまり、本当の事を言っていると判断されたのだ。
博士は続ける。
「通常、恵まれた環境以外で生命が適応度地形を下る事は起り得ない。何故なら、ある程度の厳しい生存競争が存在する環境では、適応度が低い種は、絶滅するようになっているからだ。しかし、適応度地形自体が、確固たるものではなく、動的に変り得るものならば話は別だ。
実は、自然界の適応度地形はその様になっている。適応度地形は常に変化し続けているものなのだ。適応度とは、環境に対する適応度の事で、気候や土地以外にも常に相互影響している生物群集や、自分達自体すらもが自分達にとっての環境になるのだから当たり前だ。その為、適応度地形を一見は下っているように見える現象も起こる。つまり、それが退化だ。鳥が飛ぶ事を止めるのは、その好例だな。
それと同じ様に、よりプログラム生命達を進化させる為には、適応度地形を変化させなければならなかった。変化可能な捕食者が存在する時点で、もちろんその効果があるのだが、私の設計した環境ではそれだけでは不十分だった。そこで、私は別種の捕食者を極少数プログラミングした。その捕食者には、暗号解読以外の手段によって、暗号を発する生命を食べる事が可能なのだ。そのような捕食者が存在すれば、当然、適応度地形も変わる。結果として、別の進化の方向を生命達は探り始める事になる。
――結果は非常に上手くいったよ。生命の多様性は増加し、そして、より解読され難い暗号方法が開発をされていった。さっきも言ったが、その暗号方法が現実に活用可能なものなのかどうか、その判断は別の人間達が行った。私には、多数生まれた暗号方法の内のどれが使われているのかも分からないし、また分かったところで、それを解読する事などできないのだ。
分かってもらえただろうか?
余談だが、或いは暗号方法を吟味していた連中にも、それが具体的にどんな方法なのかは分かっていないのではないか、と私は推測している。自然界の生命たちの仕組みを、我々が完全には理解できていないように、プログラム生命達の仕組みも理解できなかったのではないか?と」
そう言い終えると、ようやくサングラスの男は口を開いた。
「もし、暗号を解読できる可能性があるとするのなら、どんな手段が考えられる?」
博士は淡々と答えた。
「暗号を開発する為に用いていた捕食者側のプログラム生命達を用いるくらいしか、私には思い付けない。だが、もちろん、研究途中で発生していった、その捕食プログラム生命達は完全に消去されている。
予め断っておくが、それと同じものを作り出す為には、最低でもスーパーコンピューターが二台以上は必要だ。また、同じ手続きを踏んだところで、その暗号を解読できるプログラム生命が進化するとは限らない。しかも、運良く進化したとしても、その内のどの生命に暗号解読が可能かも分からない。正答が分からない限り、進化した生命を一匹ずつ試すしか方法はないだろうから、恐ろしく手間がかかるぞ。効率を考えるのなら、そんな方法で解読するのは諦めた方がいい、と私は忠告する」
それからしばらく車が走った後、博士は無事に解放をされた。男たちは、博士から、これ以上の有用な情報は聞き出せないと判断したのだ。
博士は、解放されてからようやく恐怖感を覚えたが、同時に考えてもいた。遺伝的アルゴリズムに則って進化するのは、何も生命やプログラム生命のみではない。人間の文化も遺伝的アルゴリズムのように進化をする。自分達では意識はしていないだろうが、先の男達の所属する組織だって、それに則っているのだ。
ならば、我々を支配しているその適応度地形は一体、どんな法則の上に形成をされているのだろう?
博士は、そう思うと、研究に夢中になっている時には感じたことのない、言い様のない深い闇のような不安を感じたのだった。
――人間社会は、果たして、どのような方向に向かって、進化しているのだろうか?
※
この話は、もちろん、小説な訳ですが、現実でも、これと同じ様な研究がダニー・ヒリスという人によって行われています。
その研究で行われたのは、暗号方法の開発ではなくて、数のソート(並べ替え)処理でした。遺伝アルゴリズムによって、より速くソート処理を行えるプログラムを進化させたのです。そしてこの小説の内容と同じ様に、進化したプログラムがどのような手段で、ソート処理を行っているのかは分からなかったそうです。ただ、どれだけ長い時間を解析に当てたのか、僕が参考にした本には記されていなかったので、この辺りの事情の詳細は不明なのですが。