湖、馬車、テンプレ
俺は静謐な水をたたえる湖のほとりに、一人たたずんでいた。
「では、行くがよい! 華麗と共に」
という、神を名乗る老人の声を聞いた後、気がつくと俺はここにいた。
さほど広くない湖は深い森に囲まれている。
空気は少しひんやりとしていたが、森の香りはさわやかで、射し込む陽の光はやわらかくあたたかい。
空を見上げると、木々の間に白昼の月が見える。
空気の動きは感じられないが、遠くでかすかに風が吹き抜ける音が聞こえる。動物の鳴き声などは聞こえてこない。
そこにいるだけで身も心も浄化されていくような、そんな神的な雰囲気の場所だった。
人のいるところに突然現れたら、驚かれるからね。こういう場所が選ばれるんだろうな。
辺りを見回した後で、ふと自分の姿を見て驚く。
「死んだのに転生じゃないのか? まんま地球にいた時の格好なんだけど」
服装は最後の記憶のままに、ジャケットにパンツ、愛用のバックパックまで背負っていた。
もっとも、異世界で楽に呼吸ができている時点で、転移ではなく転生なのかもしれない。大気の成分や濃度が少し違っただけで、人間は生きていられないのだから。そして、異世界の惑星の大気の組成が、たまたま地球に限りなく近いという可能性は、ほぼゼロだろう。
まあ、そのあたりは神がなんとかしてるんだろうけどね。
さざ波ひとつない湖面を覗くと、そこには普段と変わらない、凛々しくも愛嬌のある顔が映し出される。
「やだ、素敵……。じゃない、実年齢スタートかよ」
少しくらいは若返ってるかと期待したが、なにも変わっていなかった。
この世界へは赤ん坊となって転生すると思っていたから、ちょっと拍子抜けしたな。美人なママさんのおっぱいをしゃぶるまでがテンプレだと思ってたのに……。
しかし、この姿で転生するメリットはあるのだろうか。
自由でしがらみもなく生きられるが、同時に後ろ盾をまったく持たない不安定さもある。経済基盤の構築が早急に必要だ。現実的な話として、今夜の飯にも困る可能性がおおいにあるのだから。
一方、赤ん坊への転生ならば、最初から安定した生活基盤を得ることができる。家族、縁戚、友人、知人といった人間関係、さらにはコミュニティにおける社会的関係性を、労せずして手に入れることができる。もっとも、まともな親のもとに生まれることができなければ、悲惨なことになりかねないのだが。
異世界転生ものの小説なんかだと、貴族の家に生まれて、三歳くらいで頭角を現して領地を経営したり、ひどいのになると一歳で賊と戦ったりするからな、もちろん魔法でだけど。いくら中身が大人だからって、ちょっとやりすぎだろう。
ママさんに俺の舌技を披露する機会がなくなったのは残念だが、幼少期を大人の意識のままで過ごすのは相当にきついだろうから、これでよかったのかもしれない。中身は大人なのに子供の振りして幼児語をしゃべったりじゃ、痛々しいからね。
ポケットを探ってみると、普段持ち歩いているハンカチやティッシュペーパー、キーケースなどとともに、スマートフォンが入っていた。
いいのか、コレ?
転生でなにかすごい力を持ったスマートフォンになってるんじゃないかと、淡い期待を抱いていじってみるが、とくに変わったところはなかった。もちろん通信ができるわけもない。
早晩、電池切れで使い物にならなくなるだろう。
「他にはっと、ん?」
ジャケットの内ポケットに、見慣れない小袋が入っていた。
いい感じに上品な、なにかの革製の袋だ。小袋のわりにずっしりとした重みもある。
しかし、こんな革袋を購入した覚えもなければ、ポケットに入れた覚えもない。
不審に思いつつ、その小袋を開けてみると、一枚の紙片とともに四角い金属の小板が数十枚入っていた。
見た感じ、お金っぽい。
紙片には、日本語の美しい文字でこう書かれている。
〈当面の滞在費を授ける。無駄に使わなければ、数年は楽に暮らせるであろう。 神より〉
「過保護かよ」
しかし助かるのも事実。ありがたやと感謝していると、紙片は青白い炎に包まれて消えてしまった。熱さはまったく感じなかった。
「さて」
とりあえず、ここにいてもなにも始まらないので、移動するとしよう。
ここから俺の大冒険が始まるのだ。
あたりを見回すと、明らかに人の手が入った小道が森へと続いている。進んでみるしかなさそうだ。
「風景は地球と変わらないんだな」
警戒しながら、ゆっくりと歩を進める。
森の中の小道から眺める景色は、驚くほど地球と似ていた。期待していたわけではないが、奇妙な植物などはまったく見当たらない。
広葉樹のような森の木々。時おり小鳥やリスっぽい小動物を見かけるが、よく観察しようと思うと姿を消してしまう。はっきりとはわからないが、印象では地球の動物とあまり変わらないように感じた。
気温は快適で、森を抜ける風は心地よく通り過ぎてゆく。
体調もよく、気持ちが高揚しているせいか、だんだんと足取りも軽くなってゆく。
二十分も歩くと、警戒心も薄れ、のんびりと散歩気分になってくる。
途中、小さな橋のかかった小川を渡った。
清冽なせせらぎを眺めていたら、喉の乾きを感じたので、少し水をすくって飲んでみた。
うまい水だった。
ためらいもなく飲んでしまってから、なんの安全性も担保されていない異世界の水であることに気づくが、不思議と害になるようなものではないと思える。この森の澄みきった空気に、あてられたのだろうか。
また少し歩いていると、水を飲んだからかなんとなく催してきたので、木陰で立ち小便をした。この清らかな森を汚しているような気がして、背徳感で少しゾクゾクしたのはナイショだ。
やがて小道は街道のような広い道に出る。
土をならしただけの道だが、往来は多いのだろうか、硬く踏み固められている。
道は左右に続いているが、森を切り開いた道のようで、どちらの方向も見通しは悪い。
よく見ると、なにやら動物の足跡と轍――車輪の跡のようなものがある。馬車かなにかだろうか。
それにしても、この足跡が妙にデカい。なんだこれ?
「さて、どちらに行くかな」
とりあえず人の住む場所に行かなくては、どうしようもない。
ふと耳を澄ますと、かすかにだが左方向の道からなにかの音が聞こえてくる。
誰かがこちらに向かってくるようだ。
とりあえず隠れて様子を見ることにしようか。なにが来るのかわからないからね。
俺は木立の中に身を隠す。
息を潜めて待つことしばし。
左方向からの音は段々と大きくなり、やがてこちらに走ってくるものの姿が見えてくる。
「馬車だ……いや、馬車か?」
どたどたと騒音を撒き散らしながらやってくるそれは、動物が車両を牽引するという点では、たしかに馬車のように見えた。
だが引いている動物は馬ではなかった。牛やロバのような、見慣れた使役動物でもない。
それは、ずんぐりと丸く太った胴体を震わせ、長い舌を出しながら首を激しく左右に振り、短い足による歩幅の小ささを補うかのように高速で四本脚を前後させていた。
「うーん、カバかな?」
まんまカバだった。いや、本物のカバかというと図体は大きいし、似て非なる生き物なんだろうけど。
たしかにカバ車は奇妙だったが、むしろ俺はその姿を見て安堵していた。
「足が四本でよかった!」
だって、いきなり足が八本あったりしたら、この世界での先行きに不安しか感じなかっただろうからね。
地球のカバに似ている動物だというのも大きいな。
ちょっと愛らしいしね。
とりあえず現実は想定の範囲内に収まっている。
カバの引いている車両は、俺のイメージにある地球の馬車と、そう変わりはない。
フードの付いた四人乗りくらいの黒塗りの車両は、女性的な優美さを感じさせ、富裕層か貴族の持ち物を思わせる。階級制度があるのか知らないけど。
猛烈な速さで俺の前を駆け抜けていくカバ車。
その車両には二人の身なりの整った人物が乗っている。一人は御者を務める男性。そしてもう一人は可憐な少女だった。
俺の目の前を通り過ぎる時、ふいに少女がこちらに顔を向けた。
少女の顔は恐怖に歪んでいるように見える。
一瞬、少女と目が合った気がした。こちらは木立に身を伏せているのだ、おそらく錯覚だろう。
だが、救いを求めるかのような少女のまなざしは、俺の心を強く揺さぶった。
カバ車が通り過ぎてから一分もしないうちに、今度はカバにまたがった男たちの集団が、カバ車を追いかけるように通り過ぎていった。
男たちは剣のようなもので武装している。
なにが起こっているのかは、どんなに察しの悪い人間にでもわかるに違いない。
男たちのカバは速い。この調子ではすぐにカバ車に追いつくだろう。
これは、いわゆるテンプレイベントという奴ではなかろうか。
異世界転移もののウェブ小説で、主人公が最初に現地人と接近遭遇するイベントは、高確率で「襲われている馬車を助ける」だ。
馬車には見目麗しい少女が乗っていて、姫か貴族の娘だったりする。時には生涯をともにする異性の仲間と出会うことさえある。同性の仲間と出会う作品は見たことがない、百合系の作品以外では。
助けた馬車に乗っている商人と出会うのが、もう一パターン。
主人公が生産系の特異能力を持っている場合はこれが多い。生産物の販路を一気に獲得できて、さらに主人公が財や名声を手に入れる過程で、商人のサクセスストーリーも描けるという、お得なイベントだ。
馬鹿の一つ覚えみたいにそんな展開の作品ばかりなので、読者だった頃はうんざりしていたが、書くほうからすれば巻き込まれ型のイベントで、その後の展開につなげやすくて便利なのだろう。
こんなテンプレイベントでいきなり仲間と出会うのは、どんだけ手抜きなんだよと思わないでもないけどね。
「さて、と」
男たちの集団が通ってから、しばらく様子をうかがって、後続がなさそうだと判断した俺は道へと戻る。
カバ車の走り去った方向を眺め、少女の幸運を祈った後、俺は反対方向へと歩き出す。
えっ、少女? 助けになんか行かないよ。だって危ないじゃん。
武器も持ってないし、魔法も使えない。
俺の「能力」があればなんとかなるかもしれないけど、未知数だしね。危険に飛び込むことはできないよ。
ずっと身を伏せていて動かなかったから、身体のあちこちがこわばっている。
俺は背伸びをしながらあくびをした。
さて、次は三話めにして、読者をふるいおとす最初の難関です。
なんかコラムみたいなことを、とりとめもなく書いていますが、考え出すと周りが見えなくなる主人公の特性をあらわしたかっただけなので、読み飛ばしてもかまいません。
具体的には、ゴブリンの話あたりから空行になるまで。
次回、「丘、コボルド、RPG」。