8.「これって、お迎え現象か?」
『立てよ、大輔。死ぬには早すぎる。おまえはその程度の男なのか? ヒットポイントはまだ残ってるだろ。おれの眼はごまかせないぞ』
雪の上に、黒い海水パンツだけ履いてあぐらをかいた花志が、にこにこしながら碓井を見おろしている。
その短い黒髪は、まるでいましがたひとっ風呂浴びてきたみたいに濡れ、額にぺったり張り付いていた。
小学五年にしては手足が長く、それに身体も引き締まっている。
その姿勢なのに、腹の肉が蛇腹みたいに段にならないのが素敵だと、碓井はぼんやり思った。若さのなせる業か。
身長も十三人しかいない学年ながら、いちばん高かったはずだ。いずれ釧路の高校に入学したら、バスケット部に入るんだと自慢していたものだ。――結局、果たせなかったが。
「……涼介、ずいぶん久しぶりじゃないか」と、碓井は突っ伏し、顔半分を雪のなかに埋めたまま洩らした。どうにか眼を開ける。「……こんな猛吹雪に、そんな恰好じゃ、ちょっとした変態だぞ。まさか我慢くらべじゃあるまいし」
花志はあぐらをかいたまま、太ももに肘をのせ、背をかがめて頬杖をついた。悪戯っぽく唇を曲げた。その唇は紫色だ。血色が悪すぎる。
『言ってくれるな、大輔。なんでおれが当時の年のまんまかについては触れないのか?』
「……意地悪な奴め。おまえはあの夏、死んだ。涼介の時はとまった。だから成長しないんだろ?――全部おれのせいだ。ごめんな」
『大輔。済んだことだろ。いまさら後悔したってどうにもならんじゃん? おまえが命拾いしただけでもよかった。栗山先生はあのとき、先におれを助けてたらって思ったみたいだが、ちょっとしたタイミングの問題って奴。誰も悪くない。あの遠藤たちだって悪くない。だから、いつまでも気に病むな』
碓井は雪をつかんだ。気力をふり絞って立ちあがろうとする。
が、あいにく余力は残されていない。両眼を開けているだけで精一杯だ。
「……その自己犠牲の精神は、いったいどこからくるんだ? 若くして死んだのに、なんで悔しいとは思わん。ほんとうは無念なんだろ?」
声は途切れがちで、息も絶え絶えだ。
視界が夏場の陽炎みたいにぼやけ、呂律もまわらない。
ふいに花志 涼介は、その場に横になった。
裸の身体の側面を下にし、片肘をついて手のひらで頭を支える姿勢である。まるでエアコンの効いた部屋でリラックスしているかのような恰好だ。
『そうは思わないって。さっきも言ったのに。済んだことはいいってことよ。いまさら誰かを恨んだって、どうしようもない。おれはそういう主義だ。――でも、おれの父さんや母さんの性格は違ったみたいだけど。父さんたちの悲劇だって、いまさらどうしようもない。悔しいと思わないようにするしかない』
「あっさりした奴なんだな、涼介は」
『あっさり味がおれの信条。――信条って言葉、よく父さんが使ってた』と、花志は言い、身体を起こした。四つん這いの姿勢になり、碓井に近づいた。手を伸ばし、碓井の頬に触れた。もはや感覚がない。熱いのか冷たいのかわからない。『なんだ、もうダメなのか? こりゃ、ヒットポイントはひと桁だな』
「……これって、お迎え現象か? 涼介が連れにきてくれたわけか」
碓井はもう身体を動かせなくなっていた。
雪は容赦なく降りかかり、横たわった身体に死の掛け布団で覆っていく。
花志が手を引っ込めた。碓井の顔をのぞき込み、悲しげな表情を見せた。
咳払いしたあと、言いにくそうに、
『正直な』と、言った。眉尻をさげ、鹿のような眼を潤ませた。『正直、寂しかったんだ、おれも。死んでから父さんたちにも会えないんだ。なんだったら、こっちに来るか? おれの話相手になれよ。二人なら怖くない』
――それも悪くない、と碓井は思った。
もとよりずっと心の襞に引っかかっていた、花志への申し訳なさがあった。
ここで行き倒れて、ぶざまな死に方をしたとしても、花志のそばにいられるなら償いになる。
いっそのこと、罪滅ぼしのために彼に寄り添うべきではないか。そんなふうに思えた。
だから碓井は眼を閉じながら、こう言った。
「行くよ。行ってやるよ、涼介のそばに。村の学校でいたみたいに仲良くしよう。いつまでも――」
花志が頷き、握手を求めるかのように手をさし出し、真っ白になった碓井の手を取った。
血色の悪い唇が吊りあがった。悪魔的な笑みが浮かんだ、まさにその瞬間だった。
パン!と鋭い音が鳴った。
ぼんやりしていた碓井は、眼をしばたたいた。なにごとかとうろたえた。
紙袋を破裂させた音や、ましてや拳銃の発砲音ではない。――勢いよく両手を叩いたそれだ。
懐かしい、このやり方。授業中、生徒の集中力が削がれたとき、我に返させるためによくやったものだ――。
『よして、涼介君。大輔を誘惑しないで! ぜったい彼を死なすわけにはいかない!』
まちがいない。
厳しさと優しさを兼ねそろえたこの声音。
『彼女』はやっぱり近くにいてくれたのだ。
『大輔、しっかりしなさい! 立って! まだそのときではありません! 立ちなさい! 立つのです!』
三十二にもなって、また栗山先生に叱られた――碓井は、雪に埋もれたまま、にやりと笑った。
眼だけ右に動かした。そちらに気配を感じたからだ。
花志のすぐそばで、例のポンチョ姿が佇んでいた。例のごとく、フードの影が鼻までかかり、口もとまでしか見えない。
しかしながら、まぎれもなく栗山 柚葉その人だと確信した。花志は驚いた様子で身体を反らしている。
――栗山先生。おれ、もう動けないよ。そろそろ涼介のところに行ってやりたい。行ってもいいだろ?
声なき声で栗山に話しかけた。
『だとよ、先生。大輔は見てのとおりさ。もうお陀仏。これ以上、元気づけるのはよしな』と、海水パンツ一丁の裸の少年は言い、かたわらのポンチョ姿に両手を広げて、プッシュする仕草をした。『先生もしつこいね。大輔だって、こっちに来たがってんだよ。コイツはおれのもん――』
栗山の右腕があがった。人差し指を裸の少年に突きつける。
『涼介、いい加減にしなさい! これ以上悪さすると、先生、承知しませんよ!』
栗山が花志に迫る。
花志は相手の指が日本刀の切っ先にでも見えるのか、たじたじとなって後ろへさがった。先端恐怖症みたいに、顔を両手でカバーし、眼を泳がせる。まさに悪戯をした教え子が担任の教師に叱られる寸劇だった。
人差し指が近づく。花志が顔にかざした手のすき間から、なにやら蒸気が立ちのぼりはじめた。
見る見るうちに、汗が滂沱と滴る。
『……うへっ! こりゃ、たまんないや!』と、花志が奇声を洩らした。吹雪のさなかだというのに、大量の汗をかき、顔が溶けていく。蝋細工のような仮面の下から、別の顔がのぞいた。見るもおぞましい毛むくじゃらの下地が一瞬見えた。花志の声とは似ても似つかぬホルンの音のような低い声で、『あとちょっとだったのに。もう少しで手なずけたものを! このアマ、よけいなことしやがって!』と、歯をむいて威嚇した。
『さてはおまえ』指を突き出したまま、魔性の者を攻めた。『花志 涼介ではありませんね! ひょっとして――ウェンカムイ』
少年の仮面が炙られ、溶け落ち、ついにほんとうの顔が現れた。
海水パンツだけをつけた半裸姿の首の上には、茶色い毛むくじゃらの、羆と人間を掛け合わせて作ったような、見るもおぞましい頭部が苦悶の表情を浮かべていた。
『おれに向かって【邪神】だと? おれはれっきとしたカムイだ! 侮辱するのも大概にしろよ!』
おぞましき亜人間の地鳴りじみた声がこだました。もはや花志のそれとは一光年かけ離れており、清い心とも正反対だった。